【現在】

「賭けしてみよう!」

 あの時のことを思い出した私は、元気よく言った。

 中指を立てると、黒く蠢く海の方を指す。

「父さんが言うみたいに、私が本当に、海に引きずり込まれるかどうか」

「は?」

 父は眉間に皺を寄せた。

「お前、何言ってる?」

「死ななかったら、父さんの言ってることは間違ってた。もし死んだら、父さんの言っていたことは正しかった!」

 父に殴られたのがいけなかった。

 頭に血が上った私は妙に興奮していて、自分でも意味不明なことを捲し立てていた。

「私が生きてたら、父さんがやってきたことは間違ってた。だから私は、好きなように生きる! 死んだらそれまで。どのみち息苦しい人生だったからね! 失くして惜しいものじゃない!」

「…おい、まさか」

 私が言わんとしていることを理解していた父は、初めて青ざめた。

 次の瞬間、私を止めるべくこちらへと走っていく。

 すかさず、私は柵に手を付き、コンクリートを蹴ることで乗り越えた。

 向こう側に立った私は、一瞬海を見下ろす。それから、父の方を一瞥した。

 父が私の腕を掴まんと、身を乗り出してくる。

 その指の間をすり抜けて、私は跳んだ。

 視界を、乱れた髪が遮る。

 その隙間から見えたのは、父の歪んだ顔だった。

 その瞬間、重力が思い出したかのように、私を引っ張った。

 回転した拍子に、右腕が展望台の壁に当たる。

 ガリッ! という音と共に腕が擦れる。一瞬にして皮膚が抉れて、弾けた血が私の頬を濡らした。

「いった…」

 苦痛に顔を歪めた瞬間、私の身体は、揺らめく水面に激突する。

 ドンッ! と、爆発するような音が頭に響いたかと思うと、私は冷たい海の中にいた。

 頬がピリピリとして、抉れた腕には海水が染みてきたけれど、意識ははっきりとしていた。

「…………」

 良かった。生きていられた。私は海に引っ張られなかった。

 父の言うことは、間違っていた。

 そう確信した私は、身体に纏わりつく白い泡を払いながら、浮上すべく腕を掻く。

 私の顔が水面に出た、その時だ。

 高い波が押し寄せてきて、私の顔に掛かった。

 まるで殴られるかのような衝撃に、私の身体が水中へと押し下げられる。

 すぐに足をばたつかせ、再び浮上しようとしたが、また嫌な波がやってきて、私の身体を旋回させた。

「………」

 口の中に、ほんの少し、海水が入ってくる。

 潮の味が喉の奥に広がる。

 その瞬間、全身が金縛りにあったように硬直した。

 あ…、これダメだ…、って思う。

 腕を動かすことも、脚を動かすこともできない。目を開けても、広がっているのは黒い闇。意識だけがはっきりとしていて、波に攫われて、身体が何回転もしているのがわかった。

 沈んでいるのか、それとも浮いているのか、はたまた、陸なんて無い場所に連れていかれているのか…。何もかもわからない。

 脳裏に、「死」という一文字がちらついた時、私の心臓が初めて大きく脈打った。

 口を開けた拍子に、大量の海水が流れ込んでくる。胸がチクリと痛み、目の周りに痺れるような感覚が広がった。

 ダメだ、死ぬ。死ぬ。

 いや、死んでいい。死んでも惜しくはない人生だった。

 これでいい、これでいい。これでいい。

 意識が朦朧としていく中、私は言い訳のようにそう思い込む。

 でもダメだ。身体が寒気を感じた瞬間、それは恐怖に変わり、身震いした。

 死にたくない。死にたくない。死にたくない…。

 でも、私の意識は、沈んでいく。

 その時だった。

 闇だけが広がっていた私の視界の端で、何かが銀色に煌めいた。

「…………」

 目の周りを覆っていた痺れが消えるとともに、肺に纏わりついていた苦しみが、ほんの少しだけ海水に溶けていく。

 瞼を広げた私は、眼球を動かしてその光を追った。

 だけど、光は消えてしまい、再び私を暗闇が襲う。

 幻覚…だったのだろうか?

 そう思った瞬間、視界の隅で、また何かが煌めいた。今度はハッキリとその輪郭を結び、まるでリボンのように蠢く。

 今度こそ見逃すまいと、私は首を動かし、その光を視界の中央に捉えた。

 光の、帯…。

「あ…」

 水の中で、思わず声を発した。

 空気が逃げていこうとしたから、慌てて口を抑える。その時、腕が動くようになったことに気づいた。

 それと同時に、光の帯が向かってくる。

 鼻先まで迫った時、それの正体がなんであるか気がついた。

 リュウグウノツカイだった。

 紙のように薄い体をしていたが、その長さは二メートルを優に超え、泳ぐときにその身を蛇のようにくねらせている。その度に、銀箔を散りばめたような体表が輝き、黒い水に光の粒を放っていた。

 化け物のようにぎょろりと蠢く目は、黒曜石のような深い色をしていて、視線がかち合った瞬間、熱のようなものが私の身を駆け抜ける。

 神々しさすらも感じさせるそれは、私の目の前までやってきたかと思うと、私の頬を掠めて横切っていった。

「………」

 何処へ行くの?

 ふと疑問が胸に浮かび、振り返る。

「あ…」

 そしてまた、泡を吐きながら声を上げた。

 見えたのは、金色の光だった。

 視線の先に、蠢く天井のようなものがあって、その表面に、黄金をすり潰して散りばめたかのような光が浮いていたのだ。

 リュウグウノツカイは、あの光を目指して、泳いで行っているのだった。

「………」

 唇を結んだ私は、最後の力を振り絞ってその光の方へと泳いで行く。

 腕を掻いて、脚をばたつかせ、首を亀のように擡げると、その光に身体を突っ込んだ。

 その瞬間、私は海面に顔を出し、生ぬるい空気を吸い込んでいた。

「ぷはあっ!」

 たかが数十秒ぶりの空気を、口に含んでは、噛むように飲みこみ、飲みこんでは吐き出すのを繰り返す。

 あれだけ苦しみながら溺れていたのが嘘だと思うくらい、海は穏やかだった。

 ざあざあと揺らめく波の音が、私の心音を下げていく。

 胸の痛みが消えて、意識がはっきりとし始めたタイミングで、私は洩らした。

「…今日、満月か」

 見ると、分厚い雲の隙間から、まるまるとした月が顔を覗かせていた。

 なるほど、父はこの光を見たくて、あの展望台に…。

 とにかく、上がれる場所を探して、辺りを見渡す。

 いつの間にかこんなところまで流されていたようで、あの「シンカイ」と呼ばれている砂浜が見えた。

 私は腕を掻いて、砂浜を目指して泳いで行く。

 足元から光の帯が這い出てきて、私の前を泳ぎ始めた。

「……………」

 海に描かれる銀色の光。

 それをなぞる様にして私は泳ぎ、遂に、砂浜に辿り着く。

 最後の力を振り絞ると、打ち上げられたワカメのように波打ち際を転がった。

 擦り剥いた腕から血が溢れ出し、砂が赤く染まっていく。

 そんなことはどうでもよくて、私は身体を起こし、ため息をついた後に、隣を見た。

 そこにはリュウグウノツカイがいて、鰭を痙攣させて藻掻いていた。

「………」

 遠くから、父の声が聴こえたような気がした。

 振り返らず、私はリュウグウノツカイに話しかける。

「君も、光が恋しかったの…?」

 当然、その深海魚は何もしゃべらない。

「綺麗な光を目指して、ここまで泳いできたの?」

 喉の辺りに鉄ような味がこみ上げる。

 ぺっと、海水の混じった唾を吐いた。

「…息苦しいでしょう?」

 まるで私の言葉に反応したかのように、リュウグウノツカイはその身をうねらせた。

 海水が飛び散る。

 私は手を付いて立ち上がった。いつの間にか下駄は脱げていて、冷えた素足が、砂に沈んでいく。

 右腕からは相変わらず血が滴っていた。

 血に濡れた手を伸ばし、私はリュウグウノツカイに触れた。

 熱い感触に、リュウグウノツカイはたまらず暴れたけれど、ぬめらないよう必死に抑え込む。そして持ち上げると、波に呑まれないぎりぎりのところまで歩いていき、そいつを放り投げた。

 私の血で弧を描きながら、リュウグウノツカイは着水。白い泡と共に一瞬は見えなくなった。

 だがすぐに、五メートルほど先で銀色の光が揺らめき始める。

 だから私は言った。

「もうここには、来ちゃだめだよ」

 波が押し寄せてくる。

「ここは、あなたが生きていける場所じゃない…」

 背後から、父の怒声がはっきりと聴こえた。

「そして、私が生きられる場所でもなかったみたい…」

「この野郎!」

 その瞬間、走ってきた父が、私の血まみれの腕を掴んできた。

 強く引っ張られ、砂浜の上に倒される。

「バカ娘が! 展望台から飛び降りやがって!」

 私は父を見上げると、にいっと笑った。

「私の勝ち」

「ああ?」

 父は身を屈め、私の胸倉を掴んだ。

「何を言ってる! 死ぬかもしれなかったんだぞ!」

「死んでも良かったかな?」

 私は右手を動かし、父の腕を掴んだ。

 ぬるりとした感触に、父は私の皮が剥けていることに気づき、青ざめた。

「お前、その腕…」

「でもね、リュウグウノツカイが助けてくれた」

 そう言うと、父はまた別の意味で青ざめた。

 首がねじ切れんばかりの勢いで、海の方を振り返る。

 だが、そこは白い波が押し寄せるばかりで、もうどこにも、あの銀色に光る姿は見当たらなかった。

 狐に包まれたような顔で、父は私を見る。

 だから私は微笑んで、言った。

「みんな、探してるんだよ」

 意識が、遠のいていく。

手の力が抜けて、腕が垂れた。

「息ができる場所を、探してるんだ」

 そこで私は、気を失った。

 視覚、聴覚が消え失せ、重力も何も感じない、ふわふわとした空間に放り出されるその感覚は、まるで、深海に沈んだかのようだった。

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