⑥
【二〇一五年 六月十五日 午後十一時五十五分】
「よし、行こうか」
オシャレなバーで、美味しいお酒を楽しんだ私は、先輩と一緒に歩き始めた。
時間は深夜を回っていて、通りに人の気配は無い。
乾いた風が吹き抜けて、私の頬を撫でていく。
十数秒の間が空いた後、先輩は微笑んでいった。
「どう? 気分は? 結構酔ったでしょ」
「ああ、はい…」
そうですね。と言いかける。
「あ」
そして、あることに気づき、声をあげた。
先輩が私の顔を覗き込んだ。
「うん? どうしたの?」
「ああ、いや、大丈夫です」
言った後で、首を横に振る。
「大丈夫じゃないです! 酔ってます!」
言った後で、やっぱり首を横に振った。
「いや、大丈夫です。酔ってません!」
などと意味不明なことを言い始める私に、先輩は盛大に吹き出し、その笑い声を藍色の天蓋に響かせた。
「酔ってるんだね」
「あ、はい!」
いや、違う。私は酔っていない。
クラクラなんてしていないし、周りが二重に見えてしまうこともない。口の中には、さっきのお酒の甘さが残っていて、なんならまだまだ飲むことが出来た。縄跳びを渡されたなら、二十跳びを五十回だってやってやる。
なるほど…。
多分私は、私が思っているよりもずっと、お酒に強かったんだ。
変なことを言ってしまったのは、先輩に対してどう振舞えばいいのかわからなかったから。
あれだけ飲ませてもらったのに、「酔ってません」はいささか失礼な話なのではないだろうか? と思ったから。
先輩は、あっはっは…と笑いながら歩いた。
「そりゃあね、あれだけ飲んでたらね。もうあれなんじゃない? 歩くのもしんどいんじゃない?」
「あ、そうですね」
慌てて私は、歩を乱した。
先輩が立ち止まる。危うく追い抜きそうになる。
私に向かってほほ笑んだ彼は、「ほら…」と言って、ある方を指した。
「酔いが醒めるまでさ、ここで休んでいかない?」
「…………」
顔を上げる。
そこにあったのは、背が低くて横広い建物だった。入口と思われる扉の周りは、さっきのバーのようなネオンが輝いていて、でも、あのバーよりも下品なぎらつき方をしていて、掲げられた看板には、「Engage Kiss」とあった。
「えんじぇるきす…」
看板を読み上げた私は、首を傾げる。
「またバーですか?」
「え…」
先輩は素っ頓狂な声を上げた。
「ああ、いや、バーじゃないよ」
「え、バーじゃないんですか? じゃあ、何のお店で?」
「え、ええ?」
先輩はわざとらしく驚いた後、私の顔をじっと見つめた。それから、視線を滑らせ、私の頭、胸、腰、脚…、そして顔の順に見る。
驚いていた先輩の顔に、ほんの少し、笑みのようなものが宿った。
「もしかして、知らない? ここがどういうところか?」
「え、あ、いや…」
笑われるということは、大人ならば知っていて当然の場所なのだろうか?
私は心臓を逸らせながら、脳を回転させた。
ば、バーじゃないってことは、どこだろう? でも、ここって、ラブホテルじゃないよね? ホテルというには背が低い。え、ホテルって、十階建てとか、二十階建てとかのことを言うんだよね?
「え、ええと…」
「ここはね」
私の動揺する様を見て、先輩はにやりと笑い、耳に口を寄せた。
そして、囁く。
「えっちなことをするところ」
「ひっ…」
私は引きつった声を上げて、先輩の顔を見た。
慌てて、強張った頬を緩める。
「あ、そ、そうなんだあ…。おしゃれすぎて、わかんなかった…」
心臓が耳の奥で鳴り響いている。
先輩もなんだかそわそわとし始めていて、頬が紅潮していくのがわかった。
「もしかして、ホテル…とか言うから、もっと四角くて、背の高いものを想像してた?」
「あ、いや、そんなこと無いですよ!」
無知であることを悟られないよう、声を上ずらせながら否定する。
わざとらしく頭を掻いて笑った。
「ちょっと、酔ってるみたいです」
「そうかい」
先輩が、目を細める。
その、濁った光が宿る瞳を見つめ、私は苦いものを呑みこむように頷いた。
必死に、自分に言い聞かせる。
大丈夫。これは悪い事じゃない。大人になるために必要なこと。大人なら、みんなやっていること。お酒を飲むこと、煙草を吸うことと、何ら大差はない。
いつまで経っても、父と母に支配されている私じゃないんだ。ちゃんと大人になって、ちゃんと自分で判断して、身体くらい、簡単に重ねてやるさ…。
そう思い込むようにし、私は強く目を閉じた。
よし、いける。
そう思い、再び目を開けた時だった。
私の目の前に先輩の顔が迫って来ていた。
あ…って、思う。
頭の裏で何かに亀裂が入るような音がした瞬間、先輩の頬の毛穴の数を数えられるくらい、世界がスローモーションのように流れ始めた。
私に迫る先輩の目は薄く閉じられ、唇は軽く尖っていた。
その顔が何を意味するのか理解するよりも先に、唇が、だらしなく開いた私の口に重ねられる。そして、ぐっと押し付けてきた。
呼吸が遮断された瞬間、私の口の中に、何か熱いものが滑り込んできた。
溶けかかったガムのようなそれは、私の舌に絡みつく。舌先には、焼けるような感覚が広がり、コーラとアルコールが交じり合ったような味が味蕾を刺激する。
あ…。
それが舌であると気づいた瞬間、手が勝手に動き、先輩の胸を突き飛ばした。
とんっ…という音がして、先輩がよろめく。
私もよろめき、後ずさった拍子に、ウェッジヒールが溝に引っ掛かった。
踏みとどまることが出来ず、アスファルトに腰をしたたかに打ち付ける。
先輩の方は難なく踏み留まり、「え…」と洩らすと、信じられないものを見た後のように、目をぱちくりとさせた。
「な、何やってんの?」
「あ…」
私も、とんでもないことをしてしまったことに気づき、間抜けな声を上げた。
「す、すみません」
「あ、いや、こっちこそごめんよ。急にキスなんて…」
先輩は苦笑を浮かべると、しゃがみ込み、私に手を差し伸べた。
「ほら、立って。驚かせてごめんよ。もう少し落ち着いてからの方が良かったね」
「………」
私は道路に座り込んだまま、先輩の手を呆然と眺めていた。
テニスサークルの副部長だなんて言うけれど、胼胝一つ見当たらない、綺麗な手。人を傷つけてしまいそうな、伸び切った爪。
「あ、すみません、やっぱり無理です」
私は肩の鞄を掛けなおしつつ、そう言った。
耳が悪いのか、先輩は「うん?」と言って首を傾げる。
「なんて言ったの?」
「ごめんなさい。せっかく誘ってくださったところ申し訳ないんですが、やっぱり無理です。私、あなたとあそこに入れません」
「うん?」
先輩はまた首を傾げた。
目と口を三日月のように歪めると、わざとらしく明るい声で言う。
「怖がらせてごめんね。でも大丈夫だよ。そんなに怖いことじゃないから」
「いや…」
「初めてなんだろう?」
先輩に事実を指摘され、私は唾を飲みこんだ。
隙を見せたのがいけなかった。先輩は間隙を縫うようにして、捲し立てる。
「だったら、こういう時に経験しておくのが良いよ。僕と君だったら面識あるし、怖くないだろう? 大丈夫だって。優しくするからさ」
「すみません、本当にすみません」
私は必死に首を横に振ると、ざらついたアスファルトに手をつき、立ち上がった。
「大人じゃ、当たり前のことなんだよ?」
先輩のその言葉は、矢のような勢いを持って飛んできて、私の足を射止めた。
「経験が無いのは、恥ずかしいことさ。だから、今のうちに経験しておくのが一番さ。っていうか、何歳だっけ? 二十一歳だったっけ。むしろ遅い方だよ」
「ごめんなさい!」
私は声を上ずらせながらそう言うと、先輩の方を見ないようにしつつ、後ずさった。
だが、先輩の手が伸びてきて、私の腕を掴んだ。
テニスなんてほとんどしていないくせして、強い力だった。
「逃げちゃだめだよ。ちゃんと経験しておかないと、将来困っちゃうよ。それに、お酒に酔っているんだから、急に帰るのは危ない。ちゃんと休んで…」
「お願いします…、本当に勘弁してください」
「勘弁してくださいって…、やめてよ、俺が悪者みたいな言い方するの」
「わ、わかってます。私の方が悪いです。私がついて行ったから…。だけど、今日だけは、ほんと、勘弁してください…、見逃してください…」
「あのねえ…」
先輩の口調が段々と苛立ち始める。
先輩は伸びた爪を私の腕に突き立てると、一層強い力で引っ張った。
「君だって、そのつもりじゃなかったのか? 酒飲んでるときだって、ずっとニコニコして、人のこと誘って…。いざ誘ったら、ひょこひょこついてきて、君だってノリノリだったじゃないか。だから、あのバーで奢ってやったのに…」
「あの、お代金は払いますから」
「そう言う問題じゃないんだよ!」
遂に怒鳴り声を上げた先輩は、さらに強い力で私を引っ張った。
踏みとどまれなかった私は、頭突きのような形で先輩の胸に飛び込んでいく。慌てて左手を添えたわけだが、先輩のお腹は、贅肉でだらしなく緩んでいた。
体温がみるみる、下がっていく。
「いいから来いよ! 大人なんだ! 自分が言ったことに責任を持てよ!」
「本当にすみません。でも、今日は…」
先輩から離れようとしたが、強い力で抑え込まれ、動けない。
「とにかく来い。怖いのなんて一瞬なんだ。どうせ、すぐに当たり前になる…」
先輩の手が、私の肩を掴んだ。無理やり顔を上げさせられる。
月を背にした先輩は、歪んだ目を私に向けた後、また唇を尖らせた。
再び私の唇を狙い、顔を近づけてこようとした瞬間、私は叫ぶ。
「結婚してくれますか?」
その言葉に、先輩は固まった。
「あ、何言ってんの?」
「キスをするってことは、私と結婚してくれるんですかね!」
「は?」
先輩は、何を言っているのかわからない…とでも言うように、首を傾げた。
「お前、さっきから何言ってんだ? キスなんて…」
先輩が言いかけたその時、私はがむしゃらに左膝を振り上げた。
瞬間、膝が柔らかいような、硬いような何かに直撃する。
先輩の悲鳴が上がるのは、ほぼ同時だった。
「うおわっ!」
数ミリ飛び上がった先輩は、膝を打ちつつ、その場にしゃがみ込む。汗ばんだ額をアスファルトに擦りつけると、己の股間を抑えながら、芋虫のようにのたうちまわり始めた。
「こ、この、くそアマ…、何やりやがった…」
「…す、すみません」
先輩の股間を蹴るつもりは無かった。でも結果的に、蹴ってしまった。
とりあえず頭を下げた私だったが、先輩が動けないでいるこのチャンスを逃すわけにもいかず、踵を返して走り始めた。
「おいコラ! 待てッ!」
背後から先輩の罵声が飛んできて、背中に突き刺さる。
「くそが! 金返せおら‼ このクソ処女が!」
だけど、私は、降り注ぐ雨を振り払うように走った。
走って、走って、足首を捻りそうになりながら角を曲がり、また走る。走って、走って、駆け抜けて…。
酸素が脳に回らなくなり、不鮮明だった夜が一層黒く染まった。足元の石畳も、マンホールの模様も、信号の青赤も見定める余裕が無く、走り続けた。
どのくらい走っただろうか?
見覚えのある通りに出た時、爪先が、アスファルトの亀裂に引っ掛かった。
「あ…」
前のめりになる。踏みとどまれない。
慌てて手を出した私は、塁を狙う走者のようにスライディングをした。
手に焼けるような感覚が宿るとともに、止まる。
辺りは水を打ったように静かになり、聞こえるのは私の心臓の音だけだった。
「いった…」
身体を起こす。
街灯に照らして見ると、手が真っ白になっていた。
こんな色だったっけ? と思ったのも束の間、皮が剥けた手の平から、血管の形に沿うようにして血が滲みだし、真っ赤に染まる。
「あ、あ…」
身体が痛みを思い出し、焼けるような、引きつるような、刺すような痛みが宿り始めた。
ああ、やっちゃった…。
私は項垂れ、天を仰ぐ。
「天罰、かな?」
誰もいないことを良いことにそう洩らした…、その時だった。
「おかえり」
私のすぐ横から、女性の声がした。
悲鳴を上げて振り返ると、そこには先ほどのバーの店主が立っていた。
いや、そもそも私が転んだ場所は、あのバーの看板の前だった。
「………」
手のひらの痛みなんて忘れて、私はバーテンダーさんを見つめる。
バーテンダーさんもまた私を見つめて、ニヤッと笑った。
「寄って行くかい? お嬢さん」
「え…」
何を言っているのか、わからなかった。
※
よく見ると、スカートが盛大に裂けていて、危うくパンツが見えそうになっていた。当然、膝も擦りむいており、それはちょうど先輩の股間を蹴った膝だったから、多分罰が当たったんだと思う。
起き上がれないでいると、バーテンダーさんが私と視線を合わせて座った。
「ほら、おいで」
その華奢な身体には似合わない怪力で私をお姫様抱っこすると、バーに入っていった。
客のメンツは変わっていなかった。スーツを着た男に、ドレスを着てめかし込んだ女性。そして、サングラスを掛け。帽子を被ったスレンダーな男…。
「よお、みんな。可愛い女の子捕まえてきたぞ」
その言葉に、三人の客が一斉に振り返る。
「明美さん、あんた最近フラれたばかりだからって、見境なさすぎよお」
そう呆れたように言ったのは、ドレスの女性だった。
「うるせー、困ってるの助けて何が悪い」
明美…と呼ばれたバーテンダーさんはそう返すと、私を丸椅子に座らせた。
「しっかし、明美さんの言った通りになりましたな。まさか本当に引き返してくるとは…」
そう言ったのは、左から二番目の席に腰を掛けていたスレンダーな男で、彼は立ち上がり
カウンターに入っていくと、棚を勝手に開けた。
ごそごそ…とした後、取り出したのは木箱。どうやら救急箱のようで、受け取ったバーテンダーさんは、手際よく怪我の手当てをしてくれた。ドレスの女と、スレンダー男は、傍らで見守ってくれていた。
「明美さん、部屋の掃除はしてるんでしょうねえ。前に行ったとき凄かったけど。私、あの後背中をダニに噛まれて大変だったのよ?」
「明美さんよ、馬鹿な男に捕まって弱っている女の子に漬け込むような真似はするんじゃない」
「私が持ち帰る前提で話をするんじゃない」
やいやいと言う二人に、バーテンダーさんは唇を尖らせてそう反論した。
気を取り直して手を動かし、私の膝に包帯を巻き、丁寧に留める。
「はい、できた」
にこりと笑ったバーテンダーさんは、私の包帯の上から私の手を撫でた。
呆然とする私に、おや…と言いたげな顔をする。
「どうしたの?」
「いや、その…、さっき来たときと、全然違うというか…」
「ああ…」
バーテンダーさんはふにゃりと笑った。
「あれは慣れてない客用の態度だよ」
「え…」
先輩が言っていた、「寡黙な店主だろう? 僕はね、こういう雰囲気が好きで、ここに通っているんだよ。お酒ってのは、静かに嗜むものだからね。そういうのが大人なんだよ」というセリフが過る。
「愛想が無けりゃ、接客業なんてやってらんないよ」
私の心を読んだように、バーテンダーさんはそう言った。
「そして、時として、態度を変えることもまた、人間関係を潤滑に保つ上で必要なことさ」
「…はあ」
そのセリフに、スレンダー男とドレスの女は、うんうん…と頷き己の席に戻ると、気を取り直したように酒を飲み始める。
カウンターの奥にはもう一人、スーツを着た男が座り、黙々とピーナッツを齧っていた。
「お酒、飲ませたいところなんだけどね…、血が止まらなくなるから、やめようか」
バーテンダーさんはそう言いつつも、私の前に、ピンク色のカクテルを置いた。
「どうぞ」
「あの、お酒じゃ…」
「酒入ってないよ。ただのジュース」
「あ…」
「ちなみに、さっきのやつにも入ってない」
「え」
先ほどの光景が脳裏を過った。
私は包帯の巻かれた手で、己のお腹に触れてみた。
「あれも全部ジュース?」
バーテンダーさんは「そう、ジュース」と、悪戯がバレた後の子どものように笑い、私の隣に座った。
頬杖を突き、さっきまでの寡黙な雰囲気とはかけ離れた、軽い口調で言う。
「あの男、女の子を口説くのによくこの店使ってるの。お酒飲ませて、酔わせてさ…。ノリノリで来た女の子ならまだしも、右も左もわかってなさそうな田舎娘に飲ませるのは、なんかこう、癪に障るでしょう?」
私の方を見て、微笑む。
彼女の言う、「田舎娘」が自分のことを指しているのだと気づくのに、十秒を要した。
「あ、私、田舎者に見えますかね?」
「うん。鈍い所とか特に」
「い、いや、そんなわけが…」
「アルコールが入ってないことに気づかなかった」
そう淡々と指摘され、私は返す言葉が見つからなかった。
気まずさを紛らわせるように、渡されたジュースをちびちびと飲む。
私の横顔を見て、バーテンダーさんは笑った。
「ちゃんと断れた?」
「あ、はい」
何を言っているのかはわからなかったが、反射で頷く。そして、三秒遅れて先輩のことを言っているのだと気づくと、後悔が背中にのしかかるのがわかった。
網膜にこびり付く先輩の顔に、私はカウンターに額を押し付けて唸った。
「やっちゃった…」
「何が?」
「大人になりそびれた」
「ああ…」
バーテンダーさんの笑みの含んだ相槌。
「まあ、良かったんじゃない? 初めての相手は好きな人とやるべきでしょ」
「………」
顔を動かし、バーテンダーさんを見た。
バーテンダーさんは相変わらず、赤ちゃんを見るような目で笑っていた。
「なに? 恨みがましそうに」
「いや、もしそうだとしたら、多分その機会は一生現れないと思いまして」
「なんでよ」
口元に手を当てて吹き出すバーテンダーさん。
「今いくつ? 二十歳くらい?」
「二十一です」
そう言うと、鼻で笑う声がした。
「クソガキがよ」
「え…」
優しそうな口調から一転、恐ろしいことを発するバーテンダーさんに、心臓が冷えるような感じがした。
「す、すみません」
「ああ、いや、諦めるには早い年齢だと思っただけ」
バーテンダーさんは慌てて首を横に振り、私の頭を撫でた。
「なに? お嬢さんは、セックスがしたかったの?」
三秒の沈黙。
「大人になりたかったです」
そう答えると、私の頭を撫でる手が止まった。
「なんで?」
「なんでって…」
就職の面接における、「別にうちの会社じゃなくても良いよね?」という質問並みに答えにくい質問だな…と思った。
だから私は、女性の言う「クソガキ」のような返ししかできなかった。
「みんなが、大人なので」
「いや、なんでセックスをすることが、大人になることだと思ったの?」
「あ…」
バーテンダーさんの質問の趣旨を理解できていなかったことに、頬が焼けるように熱くなる。
それでも私は、クソガキみたいだった。
「だ、だって、みんなやってるじゃないですか」
「…そうなのかね?」
「そうですよ。だって、私の周り、みんなお酒飲めるし、煙草だって吸えるし、髪だって染めて、ピアスも空けてるし、バイトしてて、迷惑な客が来ても対応できてるし…」
そして、言葉を濁しながら言った。
「恋人とおてて繋いで歩くことに、何ら抵抗の無い人たちばかりなんですから…」
「うーん…」
バーテンダーさんは困ったような顔をして首を傾げた。
「なーんか、浅いね」
「浅いですかね」
「いやまあ、この辺りは、人によって意見の分かれるところだから、勝手な主張は避けるけどさあ…」
「私は、こういうことが、大人なんだと思います」
意見が分かれるというのなら丁度いい。私は、私が思っていることを主張した。
「だって、みんな幸せそうなんですから」
これは言うべきか悩んだが、アドレナリンで感覚がマヒしていた私は、坂道を転がるようにして言った。
「私、子どもの頃からずっと、禁止されて生きてきたんです」
「………禁止?」
「はい。危ないから、外で遊ぶのを禁止されていました。勉強をしないといけないから、友達と遊ぶのもダメだったし…、漫画も、ゲームも、馬鹿になるからって、やっちゃダメだったんです」
「ああ…」
私の子ども時代を想像したバーテンダーさんは、気の毒そうな相槌を打った。
「お買い物とかは?」
「それもダメでした。お小遣い貰ってなかったし…。服とか下着は、お母さんが買ってきたから。そもそも、うち田舎だから、オシャレな洋服屋さんも無くて…」
「だからそんなダサい服なんだね」
「え…」
失礼な。ユニクロで買った一式だぞ。というツッコミが喉の奥まで出かかった。
「や、やっぱりダサいですよね? 私もそう思っていたんです…」
みるみる泣きそうになる私に、バーテンダーさんは慌てて言った。
「それで?」
「だから…、外の世界を知らずに生きてきたんですよ。自分で言うのもなんですが、箱入り娘でして…。友達と遊べなかったから、学校じゃいつも一人だったし、流行りものが何もわからなくて、話に入れなくて…」
顔を上げる。
「文化祭の合唱曲で、みんながエグザイルの『道』を提案している中で、一人ボヘミアンラプソディー提案して場を白けさせた私の気持ちがわかりますか?」
「私はメイドインヘブンの方が好きかな?」
「一番はバイツァ・ダストですが…」
話を元に戻す。
「散々馬鹿にされたんです。だから、一人暮らしを始めたら絶対、馬鹿にされないように、あの人たちみたいになりたいって、思ったんです」
「うーん」
一通り私の話を聞いたバーテンダーさんは、適当な相槌を打ち、頬杖をついた。
「よくグレなかったね」
「だってグレたら殴られるんですから。一回、高校の帰りに買い食いして帰っただけで、ボコボコにされたのに…」
身震いをした私は、嫌なことを忘れるべく、己の頭を叩く。
そして、激痛に顔を顰めつつ、絞り出した。
「あの家にいた私は、ずっと嫌な思いをしてきました。だからきっと、外の世界は楽しいものに違いないんです。ただ今は慣れていないだけであって…」
ふと横を見る。
バーテンダーさんは、天井を見ていた。
私も釣られて天井を見たが、あったのは温かい光を放つ照明だけ。
頭に「?」を浮かべながら、視線を落とすと、こちらを見ていたバーテンダーさんと目が合った。
私を見たバーテンダーさんはニヤッと笑い、ほんの少し、顔を傾ける。そして、艶やかな声で言った。
「お嬢ちゃんって、深海魚みたいだね」
「え…」
この人、何を言っているんだ? って思う。
形が気持ち悪いところ? もしかして、私の顔とか服装って、変なのかな? オシャレをしたり、誰かと寝ようとしたりするには、身分不相応だって?
「え、ええ…?」
言わんとしていることを理解しようと、必死で頭を回転させていると、彼女は耐えきれなくなったように吹き出した。
「別に、馬鹿正直に解釈しなくていいよ。なんとなくそう思っただけだからさ」
「いや、でも…」
言いかけた時、私の背後から声がした。
「ちょいとお嬢さん」
男の声だった。
椅子を回して振り返る。声を発していたのは、カウンターの奥に座っていたスーツ姿の男だった。
ああ、この人も喋れるんだ…と、私は謎の感動を覚える。
四十代くらいの男は、赤色の酒を一口含んだ後、こちらを見ずに言った。
「私は未婚ですよ」
「え…」
「ついでに言えば、今まで、女性との経験は一度もありません」
「ええ…」
突然始まる男の身の上話に、私は何と返せばいいのかわからなくなった。
バーテンダーさんはと言うと、からからと笑っていた。
ドレスの女性も、手を叩いて笑い、男に「今晩どうよ」と言った。
男は「結構です」と返した後、話を続ける。
「先日、社交儀礼の同窓会に行ってきました。皆、妻子のいない私を揶揄い、己のスマホに保存された写真をいろいろと自慢してきましたが、私は羨ましいとも何とも思いませんでしたがね。もちろん、顔を合わせて嬉しいとも思いませんでした」
息を吸い込む。
「強いて言うなら、食事会の時に提供された、鴨肉が美味しかった。薄くスライスしていて、噛むとほろりと崩れ、芳醇な甘みが口の中に広がるんですよ」
「へえ、じゃあ今度仕入れとくよ」
バーテンダーさんがそう言って、男は初めてこちらを見た。
だがすぐに前の壁を向き、こほん…と咳払い。
「隣の芝生は青く見える…と言う言葉は、人を揶揄するための言葉ですよ。そして、『幸せはいつも自分の心が決める』という言葉は、相田みつをのものです」
「はあ…」
急になんだろう?
「他人のものばかり羨ましがっていないで、一度、自分の心に正直になるのも、一つの手だと思いますがね」
そこで話は終わりらしく、店内は静まり返った。
天井のスピーカーからは、撫でるような洋楽が流れていて、よく聴いてみると、『グリーングリーングラス』だった。
バーテンダーさんが肩を竦めた。
「あー、ヤダね。四十五のおっさんの話は、辛気臭くてやんなっちゃう」
そして、私の方に腕を回し、顔を寄せてくる。
「でもね、ありゃ、深海魚ちゃんよりも二倍長く生きた生き物の言葉さ」
私のこと、深海魚って言うんだ…。なんかショック…。
「別に、人の人生に優劣をつけるつもりは無いけど、ああ見えて、結構な経歴があるんだよ。あの人。多分、女を抱くことしか考えられない猿よりかは、説得力のある生き方をしているんじゃないかな?」
顔を離したバーテンダーさんは首を横に振った。
「これ以上はやめておこう。一か百かの話じゃない。青か赤かの話さ。百万円が好きなのか、ダイヤモンドが好きなのか…。深海魚ちゃんはどっちが好きなんだろうね」
そして、テーブルに手をついて立ち上がり、微笑んだ。
「これ以上遅くなるといけないから、帰ろうね。送っていってあげる。深海魚ちゃん、家何処にあるの?」
「あ、はい…」
私は残り少なくなったジュースを飲み干すと、アパートの場所を教えた。
どうやら、バーテンダーさんもそのあたりに住んでいるようで、この際店じまいをしてから帰ることとなった。
ドリンクをタダにしてくれたお礼として手伝おうと思ったのだけど、今になって転んだ時の痛みが滲みだし、動けなかった。
バーテンダーさんにおんぶされた状態で、店を出る。スーツの男性は、「それじゃあ」と淡白な別れの言葉を放ち、人気の無い方へと歩いて行ってしまった。ドレスの女性と、スレンダーな男は、二人肩を並べ、ラブホテルがある方へと歩いて行った。
バーテンダーさんはバイクで通勤しているとのことだったが、私を乗せるにはヘルメットが足りない…と言うことで、タクシーを呼んでくれた。
タクシーに乗り込み、十五分ほどしないうちに、アパートへ辿り着く。
「大丈夫? 部屋に入れる」
「あ、はい。さすがに、そのくらいは」
「じゃあ、気を付けてね。痛みが引かないようだったら、病院に行きな。何ならついて行ってあげるから」
「ありがとうございます」
「ああ、そうだ…」
何か思いだしたのか、バーテンダーさんは手を叩いた。
「上手くやりなよ。きっと、相手方怒ってるだろうから」
「…あ」
そこで私は、先輩のことを思い出した。
途端に、あのラブホテルの前でのことが脳裏を過り、唇に虫が這うような感覚が宿る。
反射的に手を動かし、唇を擦った。
「どうしたの?」
「ああ、いや…、その…」
思い出さなきゃよかった…。
「ファーストキス、取られちゃったので。店の前で」
「え…」
それには、飄々としていたバーテンダーさんも驚いた様子を見せた。
「あちゃー」
だがすぐに肩を竦め、笑う。
「どう思った? 幸せだった?」
「…いえ」
「じゃあ、そこはお嬢ちゃんの住む世界じゃなかったってことだよ」
私の住む世界じゃ、無かった…。
それを聞いた瞬間、喉の奥に熱いものがこみ上げた。
堪えようと唇を一文字に結んだ途端、それは実体となって溢れ出す。汚い嗚咽と共に、私の指の隙間から吐しゃ物が漏れ出し、アスファルトに滴った。
慌てて、バーテンダーさんが駆け寄ってくる。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です」
と言った傍から、また吐き気。消化されかかった食べ物が口から噴き出し、バーテンダーさんのスカートの裾を汚した。
私は震えながら、第三波に備えた。だが、さっきので胃の中のものは全部吐き出してしまったらしく、もうそれ以上何も出なかった。
残ったのは、苦みと、柔らかな感触。
「馬鹿なこと、しちゃったな…」
私はそう洩らした。
「もっと大事にしたらよかった…」
大人になることに躍起になって、己の身を大切にしないで、結果、何にもなることが出来ず、大切なファーストキスを失ってしまった自分が、堪らなく汚いものに思えた。
もう少し冷静になっていたら、また別の結果が待っていたかもしれないのに…。
「馬鹿だ」
そう洩らした時、目の前のバーテンダーさんが笑ったような気がした。
「こっち見てごらん」
「………」
顔を上げる。
瞬間、バーテンダーさんが口を寄せてきて、赤い唇を、私の唇に押し当ててきた。
先輩にされた時とは全く違う、花びらに触れているかのような感触に、強張っていた身体の力が抜ける。
唇を離したバーテンダーさんは、私の目を見つめ、ニヤッと笑った。
「どう? マシになった?」
「あ、はい…」
反射的に頷く。でも、本心だった。
遅れて心臓が逸り、身体がぽかぽかと熱を帯び始めた。
震える私を見て、バーテンダーさんは慌てて言った。
「あ、ごめん。急に、キスなんてしちゃって…。でも、なんかこう、拭ってやりたくて…」
「はい、はい…、わかってます。ありがとうございます」
私はセキレイのように激しく頭を下げる。
そして、零れ落ちた涙を拭い、言った。
「あの、またあのお店、行っても良いですか? あんまり飲めないかもしれないけど…」
それを聞いたバーテンダーさんは、目をぱちくりさせた後、私の頭を撫でた。
笑っていた。
「いつでもおいで」
大人になる…ということが、どういうことかまだ分からないけれど、その日、私はほんの少しだけ、大人に近づいた気がした。
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