【現在】

 先日のことを思い出しながら歩いていた私は、砂浜を横切り、すぐそこにあった展望台への階段に差し掛かった。

「…………」

 隣の砂浜は、皆から忌み嫌われているけれど、この展望台はそうでもない。高さは十メートルほどしかないが、海を一望できて、風が良く通って心地が良いのだ。

 丁度いい。展望台で気分を変えよう。

 そう思った私は、階段に足を掛けた。

 階段は意外に急で、たかが二十四段を上っただけで息が切れた。

なんとか頂上に辿り着いた私は、膝に手をやり、息を吐く。

 さて、海でも眺めますか…と、顔を上げる。

その先にあった者を見た時、思わず声が出た。

「わ…」

 展望台の奥。街灯の下。

 設置されたベンチに、父が腰を掛けていた。

 決して私を待ち伏せしていた…というわけではなく、父は煙草をふかしながら、夜の海を見ていた。

 私の声に気づいたようで、緩慢な動きでこちらを振り返る。

 私が立っていることに一瞬驚いたが、すぐに眉間に皺を寄せた。

「なんだお前か、驚かせるなよ」

「いや…」

 別に驚かせるつもりは無かった。そしてその文句が通るというのなら、こちらのセリフだ…って言ってやりたかった。もちろん言わない。

 私は父に聞こえないようため息をつきながら、踵を返した。

「おい…」

 父の声が呼び止める。

「海、見に来たんだろ? どこ行くつもりだったんだ?」

「見る気失せた」

 例えリードに繋がれていたとしても、狂犬の隣に座るなんて御免だ。

 歩いて行こうとしたのだが、父はしつこく呼び止めてきた。

「まあ待て、少し話していけ」

「……やだ」

「おい」

 一瞬にして、父の声は大地を震わせるような、どすの効いたものとなった。

「お前…、親に反抗して、良い度胸だな」

「あのねえ…」

 声では呆れたように言ったが、腕には鳥肌がびっしりと立っていて、脚も軽く痙攣していた。

 ぶん殴られるのは御免だったので、私は踵を返し、父の方へと歩いて行った。

 決して、父の隣には座らない。二メートルの距離を保って、声を掛ける。

「それで、何の話?」

「座れよ。人の話を立ったまま聞くやつがあるか」

「………」

 せめてもの抵抗で、ゆっくり、ゆっくりと動き、まるで老人のように父の隣に腰を下ろした。

 父は甚平を着ていた。もう随分と愛用しているようで、肘の辺りが少し裂けている。

「それで? 何の話?」

「それ以上、海には近づくなよ」

 父はサンダルを履いた足を動かし、足元のコンクリートをなぞった。線を引いたつもりらしかった。

「最近、また、横の砂浜にリュウグウノツカイが流れ着いたんだ。あいつが流れ着いた時は碌なことが起きん…。わしがガキの頃は、近所の爺さんが波に呑まれて死んだんだ。お前が生まれた頃なんて、旅行に来たガキが、度胸試しで飛び降りて死んだ」

「知ってる」

「油断してると、また引きずり込まれるぞ…。だから、それ以上は海に近づくなよ」

「だったら、父さんも家に引きこもってたらいいのに」

 そう言うと、父は頬をピクリと動かし、固まった。

 指に挟んだ煙草が赤く燃えている。

「いやな、今日は…」

 ベンチに背をもたれ、天を仰いだ父は、そう言いかけた。

 だが、首を横に振る。

「今日はダメそうだな。こいつを吸い終わったら戻るよ」

「はあ?」

 何を言っているんだろう…。

 てっきり、「大学はどうだ?」と聞かれ、それを皮切りに小言を小一時間言われるのだと思っていたために、拍子抜けする。

「それで、大学はどうだ?」

 前言撤回。小言の始まりだ。

 まあ、この方が父らしい。

「友達はできたか?」

「できると思う?」

 私は鼻で笑いながら言った。

 思った答えじゃなかったのか、父は顔を上げ、私の方を振り返った。

「友達、いないのか?」

「いないことは無いけどね。息苦しくてたまんわ」

 本当は、「友達いるよ」とでも言って、適当に受け流すのが得策なのだろう。でも、私はどうしようもなく苛立っていて、柄にもなく、つんけんとした口調で続けた。

「毎日毎日、よくわからんスイーツ食べに行って、食べずにパシャパシャ撮って、勉強なんて適当にこなして、課題も見せ合いで単位取るんよ。テニスサークルなんて名前だけ。いっつも部室に集まってお喋りばっかりしよるわ」

「そうか…」

 父は静かに頷き、煙草を吸った。

「そういうのとは付き合わん方が良い。お前のためにならん」

「……いや」

 父は若い頃は自衛隊に所属していたということもあり厳格な人だ。とにかく真面目。不真面目な人には手厳しくて、言ってもわからないなら手を出していいと考えている。

 そういう父のもとで私は育った。ずっと勉強させられて、友達と遊ぶことも許してくれなかったし、もちろん、漫画やゲームも与えてくれなかった。一度、駄菓子屋に行ったことがあるのだが、バレた時は、二時間吊るされたこともあった。

 ちょっとやそっとのことでは動じない、強い意志を手に入れるという面では、父の教育は間違っていなかったのだろう。

「ねえ、知ってる? 父さん。今はね、そう言う人らの方が上手く生きていけるんよ」

 私は笑みの籠った声で言った。

「馬鹿真面目にやっとったって笑われるだけよ」

 ちらり…と父の横顔を見る。案の定、父は口を一文字に結び、眉間に深い皺を寄せていた。甚平の袖から携帯灰皿を取り出し、まだ半分以上残っている煙草を消すと、震えた声で言う。

「まさか、お前がそんなこと言うとはな…」

 怒られるかな? 殴られるかな。

 まあ、一発殴られようが、二発殴られようが、変わらないか。

 そう思った私は、吹っ切れて言った。

「別に不真面目が良いっていうわけじゃなくてね、とにかく、世の中は集団に身を投じる方が良いって話。世渡り上手じゃないといけないわってこと」

「真面目にやっとる方が、良い人が寄って来るやろ」

「父さんの中やったらそうやったんやね」

 肩を竦める。

「私には寄ってこんかった。まさか、好きな歌手がエルビスプレスリーって言っただけで笑われるとは思わんかったわ」

「良いじゃないか。エルビス。わしはジェイルハウスロックが好きやな」

 この流れでエルビスを褒める辺り、やはり父さんは少しズレているんだろうな…って思う。

「そうじゃなくてね、流行に乗れないって話」

 脱線しかかった話を戻す。

「都会に出て、一人暮らし初めて、いろいろな人と関わる様になって痛感したわ。私、世の中のことなんも知らんかったって…」

「そんなことは無いぞ」

 父は知ったふうに言う。

「わしはお前が、世に出て立派にやっていけるようにやってきたはずや。勉強もたたき込んだし、礼儀作法だって教えた」

「そうやね。おかげで立派な人間になったわ」

 皮肉交じりに言う。

「でもね、人は、真面目な人間よりお茶目な人の方が好きなんよ」

「そんなことはない」

 堂々巡りだな…って思った。

 まあ、端から言い負かすつもりは無いけれど…。

「真面目が良いんだよ」

 これを吸い終わったら戻る…と言ったくせに、父はまた煙草を取り出し、口に咥えた。

 火を点けるべくライターを取り出したのだが、一度落ち着いたように肩を落とし、言った。

「真面目に生きとる人間が、最後に幸せになれるんだよ。目先の幸せに捉われて生き方を誤るやつがあるか…」

「ずっと幸せに生き抜く方が良いと思うけどね」

 私は傍らに置かれた煙草の箱を手に取った。

 セブンスター。前はキャスターマイルドだったのに…。

 とんっ…と取り出し口の横を叩き、一本取り出す。

 すかさず父が手を伸ばし、私から箱と煙草をひったくった。

「お前、吸えるんか?」

「吸えるよ」

 嘘。一度吸って気分が悪くなった切りだ。でも、明美さんがよく吸ってるから、その取り出す所作は練習した。

 さて、父はどんな顔をするか…。

「やめとけ」

 父は苦虫を噛み潰したような顔で、煙草を箱に戻した。

「なんで?」

 すかさず聞く。

「私、もう二十一なんだけど」

「煙草なんて身体に悪いだけだ」

「じゃあなんで父さんは吸ってるの?」

「これはわしの身体だからな」

「私の人生は、私のものなんだけど」

 その言葉に、父は咥えていた煙草のフィルターを噛み潰した。

 火の付いていない煙草が、足元にぽとりと落ちる。

 頭に手をやり、ガリリと掻いた父は、指の隙間から私を見た。

「お前、さっきから何が言いたい? そんなにわしらが憎いのか?」

「憎いね」

 私はハッキリと答える。

 すぐに首を横に振った。

「でも、これはタダの八つ当たり。結局、最後に生き方を決めるのは…」

 言いかけた、その時だった。

 ヒュンッ! と、空を切りながら父の拳が飛んできた。

 咄嗟に身を引いたが、躱しきることが出来ず、父の拳は私の頬にめり込む。

 本日二度目だけあって歯を食いしばったが、耐えきれず、殴り飛ばされた。

 ベンチから転げ落ちた私は、冷たいコンクリートに背中を叩きつける。

「ああ、もう…」

 きっと大丈夫…と高を括っていたが、いざ殴られると、全身に鳥肌が走り、下半身が激しく震え始めた。

 顔を上げると、父が見下ろしていた。頭上に街灯があるおかげで、その顔には黒い影が差している。

「お前、よくもまあ、そんな親不孝なことが言えるよな。都会に出て、親への恩を忘れたか?」

「五分五分ってところかな」

 口の中を切ったようで、舌先に鉄の味が広がる。

「ご飯を食べさせてくれたことはありがとう。でも、それ以外は、端から恩なんて感じてないよ…」

「お前がどう生きるかは勝手だがな、わしらはお前が幸せになれないように最善を尽くしてきたつもりだ。それに歯向かう意味がわからん」

「だって私は幸せじゃないもん」

 息を吸い込んだ私は、口の中に溜まる血を飲みこみ、そう言った。

 にいっと笑い、父を見上げる。

 父はまた拳を握りしめ、私を殴ろうとした。だが、暴力じゃ意味がないと悟ったのか、腕を下ろす。そして、呆れたように言った。

「贅沢なことだな。五体不満足じゃあるまい。飢えを知らないで生きてきたくせに…」

「幸せはいつも、自分の心が決めるものでしょう?」

「あ?」

 立ち上がる。

 その瞬間目が回り、私は千鳥足を踏んだ。

 つんのめり、落下防止の柵にもたれかかった。

 その時、揺らめく海が見えた。波は何度も展望台に打ち付けて、白く泡立っている。

「おい!」

 父が声を荒げた。

 見ると、少々焦ったような顔で、私の方へと手を伸ばしている。

「こっち戻れ! 海に顔を見せるな! 引きずり込まれるぞ!」

「…………」

 風が強くなってきた。私の髪が舞い上がり、視界の前で交差する。スカートの下にも潜り込んできて、お腹から胸を駆け抜けたそれは、私の体温を一度下げた。

 私は、やれやれ…と肩を竦め、父の方へと踏み出そう…と思ったのだが、直前で固まった。

 風が強く吹いている。

 髪が一層激しく揺れ、私の視界の半分を黒く染めた。

 その黒の奥で、私はあの時のことを思い出していた。

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