【二〇一五年 六月十五日 午後十時四十五分】

 電話の相手は、母だった。

 父の体調が悪い知らせを聞いた私は、通話を切り、中に戻る。

座敷に入ると、もうデザートのジェラートが運ばれてきていて、全体にお開きのムードが漂い始めていた。

「あ、電話おわったの?」

 ジェラートを食べきっていた先輩が、私の方を振り返る。

「誰からだったの?」

「バイト先からです」

 私は嘘をついた。

「明後日、シフト出てきてほしいそうで…」

「へえー、バイトしてるんだ! すごいねえ。何か欲しいものでもあるの?」

「いや別に…」

「じゃあ、将来のための貯蓄とか?」

「いや、学費と生活費、光熱費に携帯代はすべて、バイト代と奨学金で賄っているので…、欲しいものとか、将来に充てるつもりは無く…」

 免許を取る金が無いのはちょっとなあ…。

「え、なんで? 親からの仕送りは?」

「ああ、それは…」

 まさか、もうこれ以上世話になりたくない…という理由で、仕送りは受け取っていない。と言うわけにはいかず、とは言え、下手に説明して両親の株を落とすわけにもいかなかった私は、言い淀んだ。

 すると副部長は何を思ったのか、「そうかあ…」と、何か憐れむような声をあげた。

「大変なんだね。ご飯、ちゃんと食べられてる?」

「ええ、それはもちろん。そもそも小食なので」

「もしかして、明日も仕事があるの?」

「いえ、明日は休み…」

 反射でそう答えた後、「しまった…」と思った。

 ちらっと見ると、副部長は瞼を上げて、おや…と言いたげな顔をする。そして次の瞬間には、頬の横で手を叩き、満面の笑みで言った。

「だったらさ、この後、二人で一緒に呑み直そうよ。もちろん、お金は僕が出すからさ。いっぱい食べても良いからさ」

「あ、いや、それは、ちょっと…」

 私は慌てて首を横に振る。あまりにも勢いよく振ったために、髪が烏の翼のように広がり、部長の鼻先を掠めた。

「遠慮しなくていいって。ちゃんと送り届けてあげるし」

「いや…、その…」

 本当に、ごめんなさい。無理です。怖いです。

 そう言おうと息を吸い込んだ瞬間、頭が冷える感覚がした。

 何を怖がっているんだ…とイライラし始める。

 こうやって、人間関係を希薄にするから、いつまで経っても大人になれないんじゃないのか?

 もう両親に束縛されるようなガキじゃないんだ。自分の行いくらい自分で決めろ。そして責任は自分で持て。必要なのは、変化だ。

「は、はい、そうですね」

 私は舌先まで出かかった言葉を飲みこむと、代わりに、了承の言葉を放った。

「是非、行きましょう」

 それを聞いた副部長は、喜びを隠し切れず、「よっしゃ」と拳を握る。だけどすぐに首を横に振り、爽やかに微笑んだ

「よしわかった。いいお店があるから、行こう!」

「よ、よろしくお願い、します」

 言った後で、胸にちくっとしたものが走ったけれど、気づかないふりをした。

 これは変なことじゃない。大人だったら当たり前。大人だったら当たり前。これは大人の一歩。大人になるために必要なこと…。

 大人だったら当たり前…。

 頭の中で、必死にそう言い聞かせていた。

 そうして、歓迎会は、十一時前にお開きとなった。

「それじゃあ、行こうか」

 先輩は、他の部員らへ軽い挨拶を済ませると、私の肩に腕を回して歩き始めた。

 私も軽く頷くと、唾を飲みこみ、歩き出す。

 居酒屋通りを抜けたところにある路肩に、タクシーが停車していた。先輩が呼んだらしく、それに乗り込んだ私たちは、二キロほど進んで、あるバーに辿り着いた。

 大きなビルに挟まれながら佇む小さなバーだったけれど、ネオンがギラギラと輝いて、道行く者たちを引き止めそうな存在感を放っていた。

 心なしか、甘い香りが漂っている。

「先輩、このくらいの距離なら歩いたのに…。タクシー代、高いでしょう?」

「いやいや、このくらい大したことないよ」

 手をひらひらと振った先輩は、分厚い扉を押して中に入っていく。私も続いた。

 その先に広がっていたのは、漫画とかアニメでよく見る、「お洒落」なバーの様子だった。

 床は黒基調のタイル張りで、スカートの中が見えてしまいそうなくらいに綺麗に磨かれている。奥にはL字型のカウンター。その中に綺麗なおねえさんが立っていて、洗練された所作でシェイカーを振っていた。

客は三人。ダンディなスーツの男に、ドレスを着てめかし込んだ女性。そして、店内は薄暗いというのに、サングラスを掛け、帽子を被ったスレンダーな男。

 あまりにも世俗とかけ離れた光景に、私は息を呑んで半歩下がった。

 今すぐにでも、ここで銃撃戦が始まっても驚くまい…と、心の準備を始める。

「ほら、座りなよ」

 先輩に引っ張られ、私は丸い椅子に座った。

 固まる私に笑いつつ、先輩はテーブルに肘をつくと、おねえさんのバーテンダーに言った。

「いつもので。この子には、甘いやつを」

 気取った注文を受けたバーテンダーは、うんともすんとも言わず、ただのっそりと動き出し、お酒を作り始めた。

 呆然とする私に、先輩は笑う。

「寡黙な店主だろう? 僕はね、こういう雰囲気が好きで、ここに通っているんだよ」

「はあ…」

「最初に来た時から変わらずだよ。でもそれでいいんだ。お酒ってのは、飲んでどんちゃん騒ぐんじゃなくて、静かに嗜むものだからね。そういうのが大人なんだよ」

「はあ…」

 へえ、そう言うのが大人なんだ…。

 その時、カウンターの奥にいたサングラスの男が、鼻で笑ったような気がした。

 私が視線を向けようとしたとき、私の前にピンク色の液体が入ったグラスが置かれる。 

「どうぞ」

「あ、ありがとうございます」

 私は声を上ずらせながら言い、グラスを掴んだ。

 これ、いくらするんだろう? 大人が来るようなお店だから、一杯うん千円とかするのかな? 先輩が払ってくれるって言ってたけど…、あまりにも高いようだったら、私も…。

「ほら、飲んで飲んで。遠慮はいらないよ」

「あ、はい」

 先輩は、私に考える隙も与えなかった。

 もういいや。どうにでもなれ。私は大人だから、いざとなればリボ払いもできるだろう。

 そう思い、腹を括った私は、出されたカクテルを傾ける。

 とろっとした液体が舌先に触れた途端、口の中にフルーティーな味が広がった。ぼんやりとしていた視界が明瞭になるとともに、鼻の奥をイチゴとモモが混ざり合った香りが突き抜ける。アルコールの味は感じなかった。

「あ、美味しい」

「だろう? ここの店主さんが作る酒は一級品なんだよ」

 遅れて、先輩の前に黒っぽいお酒が置かれる。

「キューバリブレ」

 謎の言葉を発し、先輩はそのお酒を一気に飲み干した。

 バーテンダーさんは、それからも私に色々なお酒を作ってくれた。黄色、赤色、緑色。どれも甘くて飲みやすかった。酔う…という感覚も無かった。だからついつい飲んでしまって、気が付くとお腹がたぷたぷになっていた。

 あの、すみません、もう結構です…。

 尿意もこみ上げてきて、そう言おうと思ったのだが、バーテンダーさんは次のカクテルを作り、私の前に置いた。

 それを見た時、私は今日一番の歓声をあげた。

「わっ! すごい! 虹色だ!」

 その炭酸が沸き上がるカクテルは、上から順番に、赤、橙、黄、緑、青、そして紫と、鮮やかに層を成していた。

「これどうやって作るんですか?」

 まるで、おもちゃを貰った子供用に目を輝かせ、グラスをあらゆる方向から眺める。

 バーテンダーさんは答えてくれなかったけれど、「聞いてますよ」と示すように、静かに頷いた。

 レインボーショットだよ。という先輩には答えず、私はカクテルを飲む。飲めば飲むほど風味が変わる、不思議な飲み物だった。

 それも飲み干した頃…。

「そろそろ酔って来たでしょ。帰ろう」

 先輩にそう言われて、私は頷いた。

「先に出てな」

「あ、はい」

 立ち上がった時だった。

 カウンターの向こうから手が伸びてきて、私の頭に触れた。

 そして、髪を梳くように撫でられる。

 バーテンダーのおねえさんだった。

 私の目を見つめたおねえさんは、にこっとほほ笑み、指を滑らせ、今度は私の頬を撫でた。

「え、な、なんですか?」

 突然撫でられるものだから、私はどうすればいいかわからず、固まる。でも、悪い気はしなくて、払いのけたりすることは無かった。

 近くで見ると、やっぱり綺麗な人だ。猫のようにツンとした目だけれど、毒々しさの無い黒い瞳。後ろで束ねられた赤茶髪は艶々としていて、酒とは違う甘い香りを漂わせている。頬にはニキビ一つ無く、鮮血のような口の端に、印象的な黒子があった。

 こういう綺麗な人って、どういう人生送っているんだろう? 

 ふとそう思った時、先輩が笑った。

「良かったな。店主さんに気に入られた証拠だよ。それ」

「え…」

 そうなの?

「そうだよ」

 私の心を読んだように、先輩は頷いた。

「ここの店主はね、寡黙でほとんどしゃべること無いけど、気に入った客には態度で示すんだ。また来たらいいよ。きっと、もっと美味しい酒を飲ませてくれるはずだから」

「ああ…」

 視線を先輩からバーテンダーさんの方へと移す。

 バーテンダーさんは何もしゃべらなかったけど、その目はずっと笑っていた。

 なるほど、言葉にせずとも相手に何かを伝える…。そして、常連さんを作っていく。これもまた大人の姿なのか…。

 感動した私は、バーテンダーさんに頭を下げて、先に出口に向かった。

 扉に手を掛けた時、背後から先輩の声が聴こえた。

「あれ? こんなに安いの?」

「あの子、初めてでしょう? サービスしておくよ」

「ああ、ありがとうございます。じゃあ、これはチップで…」

「要らないよ。タクシー代にでも使いな。変なところいかず、すぐに帰るんだよ」

「またまた―、夜はこれからでしょ」

 どうやら、お代金を安くしてもらったらしい。

 私が初めてのお客さんだからって、サービスをしてくれるバーテンダーさんもそうだけど、その後、チップを渡そうとする先輩も、私の想像の上を行く姿だった。

 そうか、こういうのが、大人なのか…。

 出て行くとき、鼻で笑う声が聴こえた。振り返って見たけど、誰から発せられたものなのかは、わからなかった。

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