③
【現在】
「そう言えばあんたさ、この前居酒屋行っとったやろ」
母の声で、我に返った。
「居酒屋?」
「早く服着なよ」
「あ、うん」
慌てて服を着直す。裾を整えて、改めて聞いた。
「それで、居酒屋がなんだって?」
「いや、ほら、三か月くらい前に、お父さんの容体のことで電話したやろ? その時、陽気な『いらっしゃいませー』って声が入ってたから」
「あー」
声が入らないよう軒先で電話していたつもりだったけど、聞こえていたか。
嘘をつくと、後々取り繕うのが面倒だったから認める。
「そうだね。確かに、あの時居酒屋にいたよ」
「ああ、やっぱりそうか。いやね、本当はあの時叱ろうと思ったんだけど、それどころじゃなかったから…」
「なんで居酒屋に行っているだけで叱られないといけないの」
「変な人と行って、持ち帰られてもいかんやろ?」
まあ、そんなところだろうとは思った。
母は私に身を寄せると、小声で聞いた。
「それで? 誰と行ったの?」
「部活の仲間。二十人くらいいたよ」
まあ、実質、副部長と一対一で飲んでいたようなものだけど…。
私の話を信じた母さんは、今日一番の安堵の息を吐き、肩の力を抜いた。
「そっか、なら安心やわ」
「そう…」
いやあ、どうなんだろうね。未成年の女の子にお酒を飲ませて、純潔を奪うようなのが在籍していた部活だからね。しかも、その後継は私をホテルに誘った男だし…。
「……」
あの日のことを思い出した私は、小さく身震いをしてから立ち上がった。
「どこ行くの?」
「散歩」
そう言って、廊下に出ようとする。
「外はダメよ」
案の定、母は引き留めてきた。
てっきり、「夜中に幼気な乙女が出歩こうものなら、野蛮な男に連れ去られる」と言われるのかと思い身構えたが、母が言ったのは、全く別の理由だった。
「この前、また魚が打ちあがってさあ」
「魚?」
何言ってんだ?
「魚が、打ち上げられたの?」
「うん、打ち上げられとった」
「えー」
かつてない不毛な話に、足の力が抜ける。
「魚が打ち上げらてたら、なんで外に出たらダメなのよ」
「ダメに決まってるやろ。あんた、一回魚に引きずり込まれとんやから」
「は?」
この人、マジで何を言っているんだ? もしかして、もうぼけちゃった?
そう思ったのだが、次の瞬間、母が言ったことが記憶を刺激する。
「小学生の時に、海で溺れたやん」
「あ…」
後頭部にピリッとした感覚が走るとともに、母さんが言わんとしていることを理解した。
肩の力を抜いた私は、ため息交じりに言う。
「母さん、もしかして、深海魚のこと言ってる?」
「さっきからそう言うてるやん!」
「いや、魚と言われたら、他のものを想像するでしょ…」
なるほど、また深海魚が打ち上がっていたのか…。
アホらしくなった私は、それ以上母の話を聞かず、廊下に出た。
「ちょっと、何処いくの」
「散歩」
「だから、深海魚が…」
「浜には行かないよ。その辺ぶらついて帰る」
そう言うと歩を速め、玄関に向かった。
埃を被った下駄を引っかけ、外に出る。
夜もすっかり更けて、軒先の街灯が無機質に輝いていた。
冷えた風が、南に向かって流れていく。
風と民家の明かりを頼りに畦道を進み、膝まで伸びた雑草に顔を顰めながらも、舗装された県道に出た。
百メートルほど先に信号が見えたが、馬鹿みたくあそこまでは行かない。堂々と闊歩して、道路を横断する。向こう側には、私の背よりも拳一つ分低い堤防があって、黒いそれは左右に延々と伸びていた。
微かに、潮の匂い。昼だったらもっと濃い。
懐かしい匂いにくらくらしつつ、信号の方とは逆向きに歩き出す。
少し行ったところに、石段が見えた。そこまで行くと視界が開け、右を見ると、決して広いとは言えない砂浜があった。
爽やかな潮の匂いとは正反対の、肉が腐ったような臭いが鼻を突く。
「………」
ここが、さっき母さんが言ってた、「深海魚」とやらが流れ着いた砂浜だ。みんなは「シンカイ」と呼んで、月一回の清掃の時以外近づくのを避けている。
その理由は、よくゴミや魚の死体が流れ着くから。特に魚の死体が腐ると、奥側にある展望台のおかげで風が遮られ、臭いが籠り、夏場は近づけたもんじゃない。また、二十年近く前に、県外からやってきた学生が溺れて死んだということから、オカルト方面の話で避けている人も多いのだ。
シンカイとは、「深海」のことではない。「心霊の海」を略して、「心海」…と言うことらしい。誰が最初に言ったのかは知らないけれど、正直、似合っているとは言えない。どうせなら、「霊海」とかにしたらよかったのに。
まあでも、それも仕方ないか。
ここの砂浜には、よく魚が流れ着くのだけど、魚は魚でも、「深海魚」が流れ着くことが多かった。しかも、その深海魚が目撃されると、近く不幸ごとが起こると噂されていたから、この「シンカイ」という俗称はぴったりとも言えよう。
そして、私もこの砂浜による不運に巻き込まれた者の一人だった。
あれは、小学三年生の夏休みのことだった。確か、八月のことだ。
当時から、あの砂浜と海に関する奇妙な噂は飛び交って、みんなは気味悪がっていたけれど、私は好きだった。
何故なら、夏の早朝、あの砂浜には陽光が差し込むからだ。
その絶景たるや。地平線の向こうから顔を覗かせた太陽は、白と紫の絵の具を中途半端に混ぜ合わせたかのような光を放ち、その光は微睡む海の表面を走り、ここに飛び込んでくる。滞留していた闇は消し飛び、その時だけ、魚の腐敗臭は潮と青草の香りに変わった。
たったの十分間だ。
夜が明けてからの、たったの十分間、そこは美しき姿に変貌する。
小学生だった私はそれを見るのが楽しかった。人が朝コーヒーを飲むように、新聞紙を捲る様に、あの場で一休みする朝日を眺めることが、私の一日の始まりだった。
あの日、いつものように、私は朝日を見るべくあの砂浜に向かった。
白い泡を立てながら寄せてくる波打ち際。そこに打ちあがっていたのは、魚だった。
全身は、薄汚れた鏡のような銀白色で、鱗は多分無い。光沢を帯びた表面を、朝焼けの空の色のような線が交差するように走り、胸鰭や腹鰭は紅色だった。平たく側扁した身体を持つそれは、一瞬太刀魚にも見えなくはなかったが、その全長は、明らかに太刀魚のものではなかった。
大体、二メートルほど。私よりも大きい。多分、父よりも大きい。
その奇妙な魚に近づいてみようとしたとき、大きな波が押し寄せた。
白い泡が、魚の姿を覆う。再び波が引いた時、そこに魚は居なくて、褐色に湿った地面があるだけだった。
波にさらわれたのだと気づいた私が顔を上げると、五メートルほど先で何かが光るのがわかった。
身を乗り出し、目を凝らす。それはやはりあの魚だった。揺らめく波に揉まれ、こっちに来たり、あっちに行ったりする様は、まるでまだ生きているようだった。
私と魚までの距離は、約五メートル、いや、四メートル。
唾を飲みこんだ私は、サンダルを脱ぐと、海に踏み入れた。
海水は人肌ほどに温まっていて、心なしかぬるぬるとしている。あの魚に向かって踏み出すたびに皮膚に絡みついてきて、嫌な感覚を背筋に走らせた。
足の指の隙間で、さらさらとした砂が崩れる。
三メートルほど進んだところで水深が一気に深くなり、私の身体が胸の辺りまで沈んだ。
溺れるかな? いや、大丈夫。
そう思うようにした私は、身を乗り出し、うねる魚に向かって手を伸ばした。
その時、突然地面が消えたかのように、足が無を切った。
あ…と思った時にはもう遅い。私の頭は水の中に浸かっていて、口や鼻に、生臭い水が一気に流れ込んでくる。
私の指が、深海魚の鰭を掠めたような気がした。でもそれっきりで、もう何も掴めない。唯一絡みついたものと言えば、黒いワカメ。
魚を諦めた私は身を捩り、砂浜の方へと泳いでいこうとする。でも、腕をかいた瞬間、殴るような波が押し寄せてきて、私の身体は旋回した。
心臓が一気に跳ねあがるのと同時に、私は腕をめちゃくちゃにかく。だけど、波は私に纏わりつき、まるで「そっちにはいかせないよ」とでも言うように、引っ張った。
眼球に激痛が走る。黒い泥に覆われるように、世界が闇に包まれる。
喉に海水が流れ込む。胸の痛みと同時に息が出来なくなって、皮膚が粟立った。
あ…、ダメだ。そう思うのと同時に、私は気を失った。
目が覚めると、私は砂浜の上に倒れていた。
周りには、父や母だけじゃなく、近所の水無瀬さんや、京子さん、友達のあっちゃんがいて、みんなこの世の終わりみたいな顔をして私を見下ろしていた。
目が覚めて最初に、私は父に殴られた。勝手に海に入ったことへの制裁だった。
その時の父は、今までに見たことないくらい激高していて、母が止めないと、もう一発私を殴るところだった。
まあ、一発殴られた時点で、私の鼻からは血が流れていて、せっかく無傷で生還できたというのに、服を汚す羽目となった。
横を見ると、そこにはあの魚がいた。
もう死んでいるようで、その目は灰色に濁り、表面の光沢は失われている。薄紅だった鰭は白くなり、何かに齧られたのか、尾の辺りが抉れてピンク色の肉が見えていた。
「そいつは深海魚だ。リュウグウノツカイだよ」
父は吐き捨てるように言った。
「昔から、不幸を呼び込むんだ。まんまと引き寄せられやがって」
その後、近所の神主さんがやってきて、その場でお祓いを行うこととなった。
神主さんもビックリだったのではないだろうか? 呼ばれて来てみれば、気味の悪い姿をした魚と、溺れ死にそうになった女の子のお祓いをお願いされるのだから。
でも、神主さんは、深海魚が浜に流れ着くと不吉なことが起こる…という話を知っていたようで、「この際だから、厳かに願いしましょう」と言って、巫女さんや他の神社の神主さんまで呼んで、かなり格調高いお祓いを執り行った。
あの事件以来、母の心配性には一層拍車がかかった。
私が遊びに行こうとすると、必ず、耳に蛸ができるほど「あの砂浜には行っちゃだめよ」と言った。お茶碗が少し欠けただけで不吉がり、私に「今日は外に行っちゃだめよ」と言った。私が転んで怪我をしただけで、神社に連れて行こうとした。
父は一層、私に厳しく当たる様になった。語弊の無いように言うけど、決してあの人に虐待気質があるわけじゃない。昔ながら…というべきか、真面目…と言うべきか。昔自衛隊に勤めていたということもあって、暴力上等の、厳格人間だったのだ。
二人の束縛は一層強くなり、いつしか、学校以外で外に出ることを禁止され、友達と遊ぶことも禁止されて、好きな漫画を買うことも禁止された。安泰な暮らしを掴むために、勉強、勉強、また勉強。
私にとって、この砂浜は、己の人生を振り返るきっかけとなる、忌々しい場所だった。
「…………」
昔のことを思い出しながら砂浜を見つめていると、風が吹いた。
身震いをした私は、砂浜の方には踏み入れず歩き出す。
そして、あの日の居酒屋でのことを思い出していた。
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