②
【二〇一五年 六月十五日 午後九時一分】
「それでは今から、テニスサークル、新人歓迎会を始めたいと思います!」
部長と思われる男の子の声が、居酒屋の座敷に響き渡った。
その声を皮切りに、テーブルを囲んで座っていた部員らは、配られたグラスを掴んでいく。
私も隣に合わせて、目の前のビールのグラスを掴み、持ち上げた。その拍子に、表面を結露が伝い、木目の美しいテーブルに滴る。
一瞬の沈黙。
「乾杯!」
その言葉を合図に、皆口々に「乾杯!」と復唱し、持っていたグラスを近くにいた者たちと突き合わせていった。
私も例にもれず、近くにいたものとグラスを突き合わせた。
飲み会に参加するのは、三回目だった。一年生の時の、文芸サークルの歓迎会。二年生の時の、デザイン研究会の歓迎会。
そして三年生になって、このテニスサークルの新入部員歓迎会。就職活動もあるし、正直、サークルはもういいかな? と思っていたけれど、毎日「テニスの練習」と銘打って、部室等の近くで駄弁っている彼らを見ていると、籍だけ入れて適当に仲良くしているだけで、テストの過去問を手に入れられるのなら、十分なメリットだと思った。
とはいえ、この雰囲気は…。
「ほら、飲んで飲んで。歓迎会なんだからさ」
ぼんやりとしていると、腕を突かれた。
途端に、私の鼓膜を覆っていた殻が割れるような気がして、周りの狂騒が肌に纏わりついた。
ピリッとした感覚に驚きつつ横を見ると、四年生の副部長が私を見ていて、彼は屈託のない笑みを浮かべながら、サワーの入ったグラスを揺らしていた。
「あ、はい」
私は遅れて頷くと、ビールを一口啜る。
そんな私を見て、彼は首を傾げた。
「もしかして、お酒飲めない?」
「ああ、いや、成人してるんで」
言った後で、答えを間違えたと思った。
副部長は軽く首を横に振る。
「ああいや、お酒には慣れて無いの?」
「あんまり慣れて無いですね」
「じゃあ、ビールはやめておいた方が良いよ」
言うが早いか、副部長は私からグラスを取り上げた。
「交換しよう」
そう言って、持っていたグラスを私の前に置く。緑色の液体が揺らめいていた。
「メロンサワーだから、ジュースみたいで飲みやすいと思うよ。最初の内は、サワーから慣れた方が良い…」
「…………」
「ああ、大丈夫大丈夫。それ、まだ口付けて無いから」
副部長はそう言って笑うと、私のもののはずだったビールを、ぐいっと傾けた。
「オレは慣れてるから! 大丈夫!」
「ああ、はい、ありがとうございます」
いや、そこは「じゃあ、やめておこうか」って言ってほしかったな。
突っ込みたいことは山ほどあったが、きっとこれが大人の振る舞いなのだと思い、私はグラスを掴んだ。
そもそも、一、二杯なら飲んでも余裕だ。
ちゃんと飲んでますよ…と示すべく、着色料たっぷりの液体を、湧いて出た疑問と共に喉に流し込む。
「ああ、ダメダメ。慣れて無いのに、一気に飲んじゃ」
副部長は慌てて手で制した。おかげで私は、咳き込みそうになりながら飲むのを止める。
「ゆっくり飲むのが良いんだよ」
ね? 彼はそう言って、私にウインクをした。
「ああ、はい…」
それからも副部長は、私に色々話しかけてきた。どうしてテニスサークルに入ったのか? だとか、お酒は美味しいかい? だとか。中には、女の子の友達はいるの? とか、彼氏さんはいるの? なんて、企みを感じさせることまで言った。
話しかけられるのは鬱陶しかったけど、別に悪口を言われているわけじゃないから、相応の対応はしてやろう…と思い、私は即席で話を作って答えるだけじゃなく、副部長が自信満々に勧めてくれた酒を飲み、その度に笑顔を見せてやった。
「美味しいですね!」
サワーって、みんな好んで飲みたがるけど、ジュースに消毒液混ぜたみたいな味なんだな。
そうして、時間は過ぎていった。
サワーを三杯ほど飲んだところで、尿意を覚えた私は、副部長に言った。
「あの、ちょっと、トイレ行ってきます」
「あ、わかったよ」
副部長は頷くと、何故か立ち上がった。そして、にこやかに私に手を伸ばす。
「いえ、結構です。ひとりで行けるので」
そう言って、テーブルに手をつき、自力で立ち上がった。その少しの振動だけで、膀胱の中に溜まった尿が、今に溢れんと暴れるのがわかった。
「俺、ついでにタバコ吸うから」
「ああ…」
副部長は私の背中に手を回しながら、女子トイレまで連れて行ってくれた。ここまでくると、もしかして中まで入って来て、私が用を足す補助をしてくるのだろうか? と期待してみたが、流石にそんなことは無く、私に手を振ってから、喫煙ルームへと歩いて行った。
やっと副部長の視線から解放された私は個室に入り、まるで午後のティータイムのごとき余裕を持って用を足した。そしてスッキリしてからトイレを出る。
「…………」
狭い廊下に立ち尽くし、これからどうすべきかを考える。
このまま座敷に戻るのか? それとも、副部長が行った喫煙ルームに向かい、「部長終わりましたよー」と言うのか。これ、社会人としてはどっちのマナーが正しいんだ?
悩んだ結果、私は様子を見よう…と思い、喫煙ルームへとつま先を向けた。
「タバコはこちらで」と書かれた扉に近づき、手垢で汚れたドアノブを掴む。
そして、中を覗き込もうと、捻る…その時だった。
「どうよ、あの新入部員の子。三年生だっけ?」
扉の向こうから、男の声がした。
別に私の名前が呼ばれたわけじゃなかったけれど、なんだかドキッとして固まる。これがバーナム効果って奴だろうか?
「あー、あの子? 結構いいんじゃない?」
次の瞬間、副部長の声が聴こえて、確信を持った。
中では、副部長と、恐らく別の男子部員との会話が繰り広げられている。そして話題の中心は、私というわけだ。
少し悩んだが、私は扉の前で耳を澄ませた。
「おとなしそうだし、ぼんやりとしてるし、多分、もう少し酒を飲ませれば、誘えると思うよ?」
そして聞こえてきたのは、なんだか不穏な内容だった。
「そうかあ? 結構ガード堅そうだったけどね」
「馬鹿言えよ。三年にもなってサークルに入ろうとしてるんだぞ? こんな毎日遊び惚けている部活にだ。絶対、出会い目的で来てるに決まってるだろ」
「そうかねえ」
「まあでも、成人してるだけありがたいよな」
「そうそう。一昨年なんて、先輩らが未成年に酒飲ませて手え出したおかげで、もう大変だったもんな」
「合法なのは良いよな。まあ、初々しさは無いけど」
「十分初々しかっただろ。ありゃ友達いないタイプだ」
そう扉の向こうからは、何とも屈辱的な言葉が聴こえた。
ああ、成程ね…と思った私は扉から耳を離し、半歩下がる。すぐに踵を返し、廊下を歩きだすと、座敷に戻った。
新しく運ばれてきた炊き込みご飯にも目もくれず、置いてあった鞄を掴むと、すぐに帰ろう…と思ったのだが、それを実行に移すことはできなかった。
脚の力が抜け、座布団にすとん…と腰を下ろす。そして、なんとなく箸を掴み、炊き込みご飯を食べ始めてしまった。
咀嚼しながら、熟考する。
初めてお酒に手を出したのは、二十歳の夏だった。別に、ロマンティックな思い出じゃない。夏祭りに参加した時に、屋台のお兄さんに勧められた。一度は断ったけど、酒を飲めないことを馬鹿にされるんじゃないか? って思って、買った。それに、こういうきっかけが無いと、私は多分お酒を飲まないのだと思ったから。
初めてのお酒、しかも生ビールは美味しくなかったけど、作り笑顔を作って、「美味しいですねえ」なんて言って飲み干した。屋台のお兄さんは凄く嬉しそうだった。
後思い出すのは、耳にピアスホールを空けた時のことだ。
授業が始まる前だったと思う。女友達の一人が、「ピアス開けようよ」なんて言ってピアッサーを取り出したんだ。その子はアクセサリーショップでバイトをしていて、沢山の試供品を貰ってきていた。
洩れなく、私もピアッサーを頂いた。
耳に穴をあけるなんて物騒なことはしたくなかったけど、みんなは「怖い怖い」なんて言いながらも、笑顔で耳に穴をあけていた。動画を撮ってる子だっていた。だから私もやった。痛かったし、血が出た。せっかく着けたピアスも、なんだか重くて邪魔だった。
「………」
あの時と同じじゃないか? って思う。
セックスなんて、大人になれば誰でもやっていることじゃないか。恥ずかしい事じゃない。むしろやっていないことが恥ずかしいんだ。私の高校の時の先生だって妊娠をきっかけに辞めたし、その時はみんなでお祝いした…。
そうだ、別に変なことじゃない。
お酒を初めて飲んだ時も、ピアスを開けた時も、「きっかけ」があった。今回このサークルに入った時も、「テストの過去問を入手したい」というきっかけがあった。私はきっかけが無いと動けないタイプだから、これをきっかけに、例えレイプ紛いになろうが、経験しておくのも一つの手ではないだろうか…。
でないと、私は大人になれないんじゃないかな?
「何ボーっとしてるの?」
副部長の声が聴こえて、我に返った。
後ろめたさが沸き上がり、びくっと身を震わせ、振り返る。
私の隣に座った副部長は、煙草の口直し…と言わんばかりにグラスを手に取り、一気に傾けた。ゴクン…と飲み干した後、私に微笑む。
「どう? スッキリした?」
「ああ、はい…」
「それで、この後の話なんだけど…」
「この後、ですか」
「うん。歓迎会が終わった後の話」
あ、なるほど…。
私は唾を飲み込むと、これから副部長の口から放たれるだろう誘い文句を受け入れるべく、心の準備をした。
大丈夫。おかしい事じゃない。大人じゃ当たり前のこと。未経験だと恥ずかしい事。車の免許だって、ペーパードライバは―は笑われる…。まあ、私は車持ってないけど。
自然と身体が強張り、背筋がピンと張る。
私の様子を見て、部長は噴き出した。
「別に、変な話じゃないよ」
そうだ、変な話じゃない。
「この後さ、二人で一緒に…」
その瞬間、私のスカートのポケットから、サイモン&ガーファンクルの名曲が大音量で流れ始めた。
周りの視線が一瞬、私の方を向く。
喋りかけていた先輩は面食らったような顔をしながら、私のスカートを指す。
「スマホ、鳴ってるんじゃない?」
「あ、はい」
マナーモードにしなかったことを後悔しながら、私はポケットからスマホを取り出す。
「洋楽? なんて名前?」
「『I am a rock』です」
私はそれだけを言うと、いそいそと座敷を出た。
廊下で話そう…と思ったのだが、狭い上に、他の客も店員も行き来してる。
早足で店の外に出ると、看板の傍で、スマホを耳に押し当てた。
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