Breathe in the deep sea

バーニー

【二〇一五年 九月二十八日】

 大学三年生の夏休みも、終わりに差し掛かった頃。

 特急に乗って二時間。高速バスに揺られ一時間。徒歩三十分。

 私の生まれ故郷である、N県威武火市に帰るのは、約二年ぶりだった。

本当は、長期休みごとに帰るという約束をしていたのだが、二十歳になってようやく反抗期がやってきた私にとっては、守るに値しない約束だった。何度か向こうから「そっちに向かう」なんて連絡があったけど、無理やりシフトを組んで、会えないよう調整した。

 本当は今日だって帰るつもりは無かった。でも、母が電話で、「お父さんの体調が悪い」「あんたと話せないくらい弱ってる」と言うものだから、帰ることにした。決して父のことが心配になったわけじゃなく、薄情な娘だと周りに言いふらされるのを懸念したからだ。

 荷物は少なめ。ナップサックに、パンツとブラジャーと、明美さんに買ってもらったワンピースだけを入れた。スマホの充電器はモバイルバッテリーのみで、必ず一晩で帰る…という意思の現れだった。

 さて、衰弱した父にはなんて言葉をかけてやろうか? と思っていたのだが、いざ家に帰り、父の寝室に通された私は、呆れるしかなかった。

「あのね、お母さん」

「なによ」

「どこに、『あんたと話せないくらい弱っている』お父さんがいるわけ?」

 私の目の前に広がっていたのは、畳に敷かれた布団に横になり、お煎餅を齧りながら、夕方のニュースを眺めている父の姿だった。

 ここで私は、嵌められたことに気づく。

「帰る」

 そう言って部屋を出て行こうとしたところを、母が引き留めた。

「しょうがないじゃない。こうもしないと、あんた帰ってこんやろ?」

「こういうことするから帰らないのよ」

「嘘じゃないよ。お父さん、最近トラックで側溝に落ちて、腰を痛めてるんだから。起き上がれないし、痛みでしゃべれんのよ」

「あのね…」

 言おうとすると、横になっていた父が、こちらを振り返らずに言った。

「近所じゃ、お前が親不孝者だって噂が流れとる」

 その言葉に、ドキッとする。

 だがすぐにこめかみが痙攣するかのような苛立ちが襲い、言った。

「誰が流してるんだろうね」

 父は淡々と答えた。

「わしらやないぞ」

「そうよ。私らはあんたを心配しとんやけん」

「ああ、もう…」

 父や母に何を言われようが、冷然たる態度で返してやろうと思っていた私だったが、早くもその意志は崩れ始める。いろいろ面倒ごとを言われる前に、にこやかに対応して、小骨を残さず帰るのが得策だろうか?

 そう思い、髪を掻き上げた時だった。

「あ! ちょっと! まあ‼」

 母が、ゴキブリを見つけたかのような声を上げた。

 何事かと思い固まると、母の手が伸びてきて、私の耳を摘まんだ。

 摘まむだけじゃなく引っ張り、父に見えるようにした。

「この子、耳に穴空けとる!」

「だからなんよ」

 耳が引きちぎれそうな痛みに、私は慌てて振り払う。そして反射的に、何も着いていない耳たぶの穴に触れた。

「お母さん、老眼ひどくなったって言ってたのに、よくもまあ、こんな小さい穴に気づいたね」

「娘の身体に傷がついてるんだから気づくわ」

「いやいや…」

 人聞きの悪い言い方に、思わず父の方を見る。

 父は視線をテレビの方にやったまま言った。

「母さんに産んでもらっときながら、よくも自分の身体を傷つける真似したな。どうなるか、わかっとんか?」

父のどすの聞いた声に、子どもの頃が思い出される。

肌がざわっとして、鳥肌が立った。

「いや、これは別に…。友達に誘われて、試しに開けただけだから。私だって、あんまり良いと思ってないから。きっと、すぐに塞がるから」

 背筋が冷えた私は、慌ててそう取り繕った。

 追撃を加えてきたのは、母だった。

「友達に誘われたってあんた、そんな乱暴な友達がおるん? ダメよ。そんな子と付き合ったら。碌なことにならんわ」

「やめてよ、私の友達悪く言うの」

「あんたはまだ子どもやからそんなこと言えるの。付き合う友達選ばんと、あんた将来後悔することになるよ?」

「そんなことないって」

「何を言よん。私は人生の先輩として教えてあげよるんやからね」

「あのねえ!」

 怒りが限界に達した私は、声を荒げた。

 築四十年のボロ家の畳で地団太を踏むと、母さんに詰め寄る。

「もういい加減そういうこと言うのやめてよ! 私もう二十一歳よ? そのくらい自分で責任もって判断するわ!」

「たかが二十一歳で何を偉そうに! 私からしたらまだ子どもやわ!」

「もうこれ以上束縛せんとって! 犯罪しよるわけやないんやけん!」

 その言葉に、母の顔が引きつった。

「束縛? あんた今、『束縛』って言った? なんてことを言いよるんよ! 育ててくれた親に向かって束縛って何よ!」

「束縛やろ!」

 怒りが最高到達点に達した私は、唾をまき散らしながら捲し立てた。

「子どもの頃からずーっと、外で遊ぶのを禁止された! 友達と遊ぶのも禁止されたし、お小遣いなんて貰ってなかった! おかげで、学校で馬鹿にされたし、みんなの話題についていけんかった!」

「ええやないの!」

 母さんは間髪入れずにそう反論した。

「私は全部あんたのためを思ってそうしてきたきたんよ! 友達と遊んで何になるわけ? おかげで、あんた今の大学に行けとるんやろ? そんな恩を仇で返すようなこと言わんとって!」

「恩なんて感じ取らんわ!」

 切りつけるように言う。

 もう止まれなくなった私は、息を吸い込むと、涙で震えた声で言った。

「あんたらのせいで、私の人生…」

 言いかけた、そのときだった。

 死角から、ごつごつとした拳骨が飛んできて、私の頬にめり込んだ。

 骨と皮膚が擦れる、ゴリッ! とした感触。焼けるような痛みが弾けるとともに、私は殴り飛ばされ、奥にあった襖に背をぶつけた。

 襖を突き破り、隣にあった仏間に転がり出る。

「いった…」

 腰をしたたかに打ち付け、激痛に顔を歪めながら、目を開けた。

 蛍光灯の光を背に、父が私を見下ろしていた。

「お前、随分親不孝な娘に育ったな」

「い、いや…」

 反抗する気は一瞬にして失せた。

 恐怖のあまり、笑みが漏れる。

「父さん、腰痛いんじゃなかったの?」

「お前の顔見たら治ったわ」

 それは、私が愛する娘だからか、それとも、アドレナリンで痛みを忘れてしまうくらい、腹立たしい娘だからか…。

「頭冷やせ」

 その真意は言わず、父は踵を返し、部屋を出て行ってしまった。

「ちょっと大丈夫?」

 母さんが慌てて駆け寄り、私を抱え起こした。

「あんたが悪いんやからね。父さん怒らせるから」

「………うん」

 頬が腫れあがってくるのがわかる。

「女の顔殴って、何が父親よ」

 その後、母さんは湿布を持ってきて、私の頬に貼り付けた。

背中も痛くなったから貼ってもらうことになったのだけど、服を脱いだ私のブラジャーを見て、母さんは驚愕していた。

「なによお、こんな色っぽいもの着けて」

「いや、花柄のどこが色っぽいの」

「あんた白色が好きやなかったの?」

「今更スポブラなんて着れるか。ってか、あれ全部母さんが買ってきた奴だったし」

「それでええやない。わざわざ買う必要ないし、誰かに見せるわけじゃないし」

「…………」

 そう言われた瞬間、私の頭の中から、返す言葉が消え失せた。

 突然沈黙する娘に、母親は何を思ったのか、不安そうな顔になる。

「もしかして、あんたもう…」

「いや、別に言う必要ないでしょ」

 頬が熱くなっているのがバレないよう、目を逸らして言った。

 母は私の顔を覗き込んだ。

「生娘ならそうと言いなさいよ。まるでそうじゃないみたいな言い方してさあ。誰としたの? 怒らんから言ってみなさい」

「言うわけないでしょ!」

 また声を荒げてしまう。

 父が飛んできてまた殴られるのは御免なので、私は咳払いをして己を落ち着かせた。

「あの、マジで、まだ生娘だから。変な詮索せんといてね」

 うん、まだ大丈夫だよね…。あの人のことは、カウントしなくても大丈夫だよね。あの人が聞いたら怒るだろうけど…。

 信じてくれたのか、それとも、そういうことにしてくれたのか、母は頷いた。

「なによお、だったら最初からそう言いなさいよ」

 ため息をつきつつ、腫れあがった私の背中に湿布を貼る。

「まあ、そうよね。あんたはまだ子どもやし、そういうことできるわけないか…」

「………うん」

 私は口元に手をやり、小さく頷いた。

 鼻を掠める、サリチル酸メチル。

 父に殴られて、不鮮明な輪郭を結ぶ私の視界には、三か月前のことが過っていた。

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