エンドロールが聞こえない。第三十一話

 朝食を摂り終わり、朝九時を回るとあかるを家に送る事にした。二人で歩く水溜まりばかりの道。夜明け前まで降っていたらしい雨が夏を連れてきていた。葉先にぶら下がる水滴に並んで歩く、逆さまに写ったぼくら。紫陽花の彩りに目を奪われ、近付こうとして躓くきみを支える。躓くと知っているから支えられる。こんなにも近い距離にきみがいるようになって、一年以上経つのに、毎日、まだ知らないきみに出会う。隠されたきみにも出会う。


「け、今朝の…………まひるくんはずるいです」

「あー……うん。ごめん」


 キスをする為にやさしく引き寄せた事もだけど、その言葉と声までずるいという抗議を受けてしまった。


「あ……っ、あんなのっ、どきどきしかしないですよっ?」

「えっと?うー……ん?ごめん?」


 全く自覚がないぼくに教えてくれる、あかるにとってのぼくの魅力。きみが左腕で口許を隠し、泳ぐ目と覚えたての“サディスティック”という単語で言い表して、薄ら汗をかいて赤くなった。


「うう……恥ずか………しい。でも、まひるくん、かっこいい。い、言っちゃった……」

「恥ずかしくなるの、そっち?」

「ち、ちがうの……えっと、その…………っ」


 何か告白する覚悟をしたのか、瞳の水分の中で泳ぐぼくが揺れる。薄らとかく汗に焦り、首の後ろに手を回して見つめられる。


「あ、あの……ま、まひるくんが……っ、いじわるなのは…………っ」


 ぼくが意地悪なのはいいけれど、他の誰かにはしないで欲しい。

 声が低くなって、もっと格好良くなった声だから、

 わたし以外に意地悪な声は聞かせないでください。


「あ、あとねっ、わたしっ、まひるくんにいじわるを……さ………さ、れるのが…………っ」


 嬉しくて、気持ちが良くて、大好きです。


 そう言って攻撃になっていない自称・頭突きを、ぼくの手を取りながら腕にしてくる。こんなの側から見れば、ただの朝から“いちゃいちゃしているませた子ども”だ。


「あかる……さすがに恥ずかしいから!ちょっと離れてっ」

「ううっ」


 頬を膨らませて不服そうにされても困るんだけどな。あかるの弱い握力が力一杯にぼくの手を離さないようにする。


 いつもの下校時と違う二人の道。この道の先に“さよならの神社”はないから、足を止める理由がない。だから、きみが独りになる準備をしていくような気がした。ぼくが好きなきみの癖ではない、何かを覚悟する為の唇を噛む行為に酷く切なくなる。だから、小さな手を強く握って変声期を越えても「格好良くなって素敵ですね」と言ってくれた、ぼくの嫌いなぼくの声を振り絞る。


「今から、あかるの家で、あかるに意地悪をしたい……っていうのは我儘……かな?」


 きみの顔にある、閉じかかっていたふたつ瞳が大きく開いて、眉が困っている形なのに、口許が三日月になり、やがて大きな半月になって真っ赤な笑顔になる。


「ひゔ……今のも、ずるいです……っ」


 昨夜は渡る事のできなかった数十センチメートルの川をあかるの部屋で渡り、互いの熱を身体中に押し付け、擦り、分け合って、たくさんの意地悪と、たくさんのキスと、たくさんの恥ずかしい言葉のやり取りと、たくさんのぼくをあかるの身体の中に注ぐ。ぼくの味と匂いを染み込ませて、あかるの味と匂いをたくさんもらう。


 七月、第一週の火曜日。天気予報では梅雨明けをするのは、まだ先だと言っていたけれど、ぼくは先週の土曜日に降った雨が最後だと思っている。お昼休みになり、みんなはお弁当を食べて、早々に教室からどこかへ飛び出していった。対して、ぼくは賑わうグラウンドをベランダから眺めていた。みんなが上手に走っていている。とても気持ち良く、大きなストライドで走っている。部活でも無く、競争がある訳でも無い遊びの中で上手に走っているのだ。ぼくの脚はまだ“遊びの時間”を走る、あの姿にすら憧れるくらいの状態。


「関口くんがまた黄昏ている」

「水瀬はどこか行かないの?」


 少しの躊躇いも無く、隣に彼女が来てグラウンドを眺めた。ぼくらは一年生の同じ時期に大好きだった競技で大怪我をして、行き場の無い怒りと、広さの分からない沼に溜められた絶望から這い出る為に、たまたま図書室に逃げ込んだ仲間。だからなのか、自然に空間を共有出来る間柄になった。それだけだといい、それだけで良かったのに「私たちに変な噂が立っているね」と水瀬の耳にも入ったらしい、それ。よく話す事が多いし、水瀬は人気があるから、余計に根も葉も無い話を作りたがるやつはいる。思春期のぼくらと体育会系独特の“悪ノリ”が、そんな話を生んだんだろう。


「噂を知ってるなら、どうして離れないんだよ」

「噂なんて、どうでもいいからかな」


 ぼくらはだらだらと話したり、話さなかったり、怪我をしていない奴らが走り回るグラウンドを眺めているだけ、図書室で勉強をし合うだけだ。それだけなのに、ふと頭の奥で、あかるの軽蔑するような表情や泣いている姿が胸を刺して苦しくなった。


「ぼくは困るんだけど」

「私は困らないんだよ」


 ぶすっと不機嫌に水瀬の方を見ると、相変わらずの涼しい顔で、手すりに掛けた腕に顔を埋めグラウンドを眺めている。その顔が少しだけ傾き、ぼくを見ると、はにかみ、手すりを掴みながら体を起こしていく。目一杯、のけぞり、健康的でバネがあって、綺麗で身体の細い線を強調させる。手すりにぶら下がるように、上の階の天井を見上げる彼女。


「関口くん、君は鈍いね」

「何が?」




「私は、君となら“噂”でも“噂が現実”でもいいって言っているのよ」


「え?………はっ?………いや……っ」


 私は関口くんとそうなりたいんだけどなあ、そうなる事が出来れば良いのになあ、とだけ言って手すりを放し、手をひらひらさせて細く長身の後ろ姿は去っていった。


 なんだよ、それ。


 ぼくとは気負わずにだらだらとした雰囲気で過ごせるだけじゃなかったのかよ。失ったものが大き過ぎて、辛い思いを通り越した感情を共感出来る仲間だとか、そういうのじゃなかったのかよ。それに、ぼくにはあかるがいるって知っているだろう。ぼくとそんな関係がいいって言う水瀬がいて、こんな変な噂があかるの耳に入ったら………。そう思うのに、あかるには無い水瀬の魅力を毎晩考えてしまうのは、きっと、誰よりもぼくは穢れているからだ。


 土曜日の午後。騒つく街の片隅に申し訳程度に作られた公園で、にこにことあかるが甘いワッフルを食んでいる。その甘さと美味しさに頬に手を当て少し震え、満足気な笑顔で目を閉じ、空を向いた。そんなあかるを見るぼくは、いつの間にか大人の飲み物としていたコーヒーを抵抗無く飲めるようになっていた。


「あかる、落としてる」


 あかるの鎖骨と胸の間、そこに落ちて着いたワッフルの小さな食べかすをつまんで、それを何気に口にする。さすがに、今のは行儀が悪かったなと思いながら、横を見て気まずくコーヒーをひと口飲んでから、あかるを盗み見ると、きみもぼくを見ていた。


「あ…行儀悪かったね、ごめん」


 ゆっくりとふるふるふる首を振り「そういう……ところなの。まひるくんの……………少し、いじわるな感じ」と言って、ワッフルを大きめに食んで、もぐもぐとしながら眉を大きくひそめ睨まれる。


「意地悪?今のが?」

「うう、無意識なのは……やっぱりずるいですっ」


 しばらくして“胸の辺りについたワッフルを取って食べる行為”に色んな事を意識させられて、凄くどきどきしてしまったのだと教えてくれた。


「わたしがまひるくんの特別なものなんだって感じちゃいます。……ずるい」

「特別ではあるけれど、“もの”では……」


 ふいっと植え込みに顔を向け、真っ赤になった耳で「わたしはまひるくんのいじわるが好きって言った」と改めて言葉にしてから、恥ずかしいことを言ってしまった、と、両手で顔を隠す隙間から見えた………ぼくの好きなやわらかく下唇を噛んで、小さな舌で潤す癖も、ぼくにとっては充分な………。


 七月の第二土曜日も梅雨が明けたような暑さだった。ぼくたちは、初めてこの街に来た時より上手く歩けるようになっている。あかるが躓きそうになる道の段差も覚えているから手を繋いで「あかる、ここ注意して」と言える。人が多い割に歩道が狭いから、ぼくの背中に隠れるように歩いてごらん、と言った日から、あかるは誰かとぶつかる事が無くなった。きみが服を買ったり、選んだりする時はなかなか決まらずに「どちらがまひるくん好みですかっ?」と一所懸命。それなのに、ぼくが服を選んでいる時は、あかるが「こ、この服とか………っ、どうですか?」と、きみが選んだ服を持ってきては選択肢を増やしていくのに、一所懸命。


 あかるが少しずつ、ぼくになっていく。最近、そんな気がする。


「あっ、あの……っ!今日は………………」


 わたしのお家で映画を観ませんか?から始まるきみの“お誘い”と我儘。まだまだ明るい時間に帰る電車は人が少なくて、冷房が痛いくらいに効いていた。二人くっついて座り、体の触れている所と握った手から体温を分け合いながら話をしていた。ふいに途切れるきみの声と目を奪われていた車窓。あかるが見ていたのは、所謂“ラブホ街”というやつで、週初め学校の朝礼で三年生と二年生が三人補導されたと、教頭先生と保健室の先生が長い話をしていた。


「あかるも気になるの?」

「へふぇっ?」


 目をまん丸にして顔が飛んでいきそうな勢いで、こちらに向くあかると、よく分からない新しい声。ぼくも興味が無い訳じゃないけれど、あんな所に行くのは怖い。真っ赤になって固まったままのあかるの頭を掴んで、ゆすり、笑う。


「もおっ、まひるくんはいじわるだっ」

「窓に穴が空くくらいに見てたのは、あかるでしょ」


 桜色の頬をぷくっと膨らませて、不愉快を伝えてくるぼくの彼女。でも、握った手は熱く、さっきより力が入っていた。これから先、もう少し先になったら、ぼくらも行く事があるのかな。高校生になってアルバイトとかをし始めて、そのお金とかで……。


 一眞兄ちゃんは高校生のひとと、こういう所に来ていたのかな。


「なんだかな……」

「あっ、えとっ、ご、ごめんな、さいっ」


 独り言に慌て出すあかるが、頬を膨らませて拗ねたのは怒った訳ではないから、ぼくの事を嫌いになった訳ではないから、恥ずかしくなっただけで、本当はぼくと行ってみたいと思っているから、と、相変わらずの不器用さと一所懸命さ、少し恥ずかしい告白に思わず、ぼくもだよ、と言うしかなかった。


 新しくて白い家に着くと、あかるがジュースの入ったコップとお菓子の乗ったプレートを持つのだけど、見るからに危なっかしいバランスで、その調子だと階段の三段目で何かを落とすと感じたからジュースとコップを苦笑いして救出してやる。


「ありがとお。やっぱり、まひるくんはやさしい」

「だから、ぼくはやさしくなんかないよ」


 本当にやさしくなんかないのに、あかるがそう伝えてくれる時は、とても幸せそうな顔をするから苦しくなる。


 バス停の近くにあるレンタルショップで受け取った、濃い青の袋から取り出された映画は字幕だったんだけど、何度も観ているうちに映画に集中が出来るようになっていた。字幕は観ているうちに慣れると言ったのは嘘ではなかったみたいだ。テレビに映し出されるラストシーンに向かって走る演技と台詞たち。多分、この主人公は正直で真っ直ぐで、皆に等しくやさしかったから一期一会の人生で、愛した人と再会する運命になったんだろうなと考えていると、ふいに口から言葉が出た。


 ねえ?あかる?

 ぼくらの出会いから恋人になって、恥ずかしかったセックスも大切にしている。

 互いの身体に体温を擦り付けて、分け合っている。




 もし、ぼくらの時間にタイトルが付くなら、どんなものになるだろうね。






「きっと、素敵な………タイトルが付くと思います」


…………………………


エンドロールが聞こえない。

第三十一話、終わり。

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