エンドロールが聞こえない。第三十話

 雨に加えて風も強くなり、ばたばたと雨戸を叩いて鳴る。とぽとぽと注ぐ麦茶の琥珀色に満たされていくコップ。そんなに真っ赤になって緊張している姿を見せられたら、ぼくまで意識してしまうだろって思いながら、コップをあかるに渡した。熱を帯びた小さな両手が冷えた琥珀色を受け取り、こくこくと身体に入れて、ぷはっ、と、息を吐くのだけれど、飲む勢いの割に全く減っていない麦茶。それを見て、手のひらに乗るくらいの、小さな、小さな動物みたいだななんて思ってしまった。


「あかる、さ。家にお父さんとお母さんがいないって………今までどうしてたの?」

「…ひ、ひとり。独り、です」


 あかるが過ごした独りの日は、小学六年生の秋頃からだったのだと俯く。どんなに寂しい夜も独りで寝ていた。どんなに嬉しい事があった日も誰にも話せなかった。ボールを取ろうと屈んでリュックから落ちたノートで頭を打った日も、頑張ってぼくに告白をした日も、二人で神社に雨宿りした時に“家族”という言葉を聞いて悲しそうな顔をしたのも、同じ傘に入って歩いた日も、初めて抱きしめた日も、ぼくに褒めていて欲しいと泣いた日も、真っ白なワンピースを着て映画を観た日にキスをした事や、いつかは触れて欲しいとぼくの手を取って胸に押し付けた日も、隣町まで行ってコンドームを買った日も、初めてセックスをした日も、あかるの勘違いから、ぼくの母さんにそれらがばれてしまった日も、文化祭でやった劇の主役に選ばれた日も、無事にそれを演じ切った日も、神社でぼくが襲うみたく怖くしてしまった日も、ぼくを求めて出したそれを飲み込んで幸せそうにした日も、最後にじいちゃんに会いに行った日も、ぼくに忘れられて帰られた日も、あかるの出来事の二年間近くのほとんどに家族がいない。


 ずっと、独り。

 そのちんまりとした身体で抱える、独り。


「わたしの楽しい、嬉しい、悲しい、幸せ、辛いに誰もいない」

「ぼくがいるでしょ」


 あかるの大きな目が細められて、その隙間からたくさん溜められていた水分が頬を伝っていく。ぼくを見ながら何も言わず、あかるの瞳に留まる事の出来なくなった水分から順番に涙となって落ちていく。


「ぼくの思春期にあかるがいるのと同じ、あかるの思春期にも……」

「で、でもねっ?まひっ、まひるくんは!悲しい夜とか寂しい夜に、抱きしめて欲しくてもねっ、一緒に寝ていなかったよっ?」


 本当に、わたしは馬鹿みたいに我儘だ、でも、心が押しつぶされそうな時に一緒に寝てくれるまひるくんを求めてしまう。どうしても求めてしまうの。と、雨戸にばたばたと打ち付ける雨に負けないくらいの瞳を落としていく。


 一眞兄ちゃんが家を出ていって、じいちゃんも亡くなって、ぼくにも抱えきれない感情がたくさんあって、自分自身の事がよく分からずに苛立っていても受け止めてくれる家族がいた。この古い家の種々が気に入らなくて腹を立てていても、冷たい雨や強い風を凌げるのは、この古い家の屋根のお陰だ。


「どうして…………っ、わ、わたしっ、わたしを忘れてっ、さ、先にっ、帰っちゃったんですかっ?」


 独りは寂しいよお。


 そう言った声は裏返っていて掠れていて、独り言のようで、辛うじて聞き取れるくらいの寂しい声だった。


 ごめん、あかる。

 ぼくはひどいやつなんだよ。

 きみがいうように、やさしくなんてない。

 きみとくろいかさは、おなじようなもので、

 あめやくるしさから、しのげるもの。

 それくらいのもの。


 きっと、それくらいのものなんだ。


 だから、わすれてきちゃったんだよ。






 明日の準備をしていた母さんが手を止め、ぼくを睨むように見ていた。ぼくの背中に隠れるように手を繋いだあかるがいて、台所には三人。他の部屋より少しだけ暗い蛍光灯が小さく低い音を鳴らしている。ぱたん、ぱたん、と、蛇口から落ちる水道水。斜め後ろに隠れるように立つあかるを見て、覚悟を決め、母さんにあかると同じ部屋で寝たいと言った。


「そんな事を言っても……。眞昼?それは出来ないのは分かっているでしょう?」

「母さんが考えているような事はしない、起こさないよ」

「………“もしも”っていう事があるのよ」


「母さんも同じ部屋に居てよ」


 これがぼくの“恋の使い方”が出した答えだ。一緒に越えられる夜だから、きみの悲しい、寂しい、苦しいに寄り添っていたいと願う。例え、それが何の力になれなくても、隣にいたいだなんて本気で思っていた。母さんが痺れを切らしたのか、少し怒ったような声で答えた。


「……………………分かったわ。母さんも同じ部屋で寝るわ」

「あかるの手を握っていたい。だから……」


「川の字で寝ればいいのね。本当にあかるさんもいいの?」

「は、はいっ」


 居間のテーブルの上に水玉模様の炭酸がぱちぱちと逃げ出すサイダーがふたつ。そのコップは片方が凄く減っていて、片方はほとんど減っていなかった。あかるの肩は力が入ったままコップを見つめ固まっている。口を開いたと思えば「………あ、あのっ、えと…………そのぅ…………」と歯切れ悪く言葉となって体から外に出ずに、終わる。そんなあかるに「やっぱり、あかるはちんまいね。パジャマがぶかぶかだ」と、ぼくが小学生の時に着ていたパジャマを折って、折って、無理やりサイズを合わせても、合わないその姿に笑った。


「こっ、これも……っ!まひるくんの……っ、そのっ!よく考えたら………………すごくドキドキするんですよっ!?」

「あかるもそういうのにドキドキするんだね」

「かっ、揶揄わないでくださ…………っ。女の子、男の子は関係…………ない…ですよっ」


 大好きな人の服に身を包むんですよ。

 大好きな人の匂いがする服に身を包まれるんですよ。

 どきどきしないわけが無い……です。


 あかるが言いそうに無い言葉を直球で言われたから、身体が熱くなって残りのサイダーを飲み干す。かたん、と、コップがテーブルに置かれて立てる音と壁に掛けた時計の針の音。時間というやつは、何があっても止まってなんかくれやしない。それなのに等間隔でもない、約束なんて守ってくれやしない。


「まひるくんは……………大丈夫ですか?」




「大丈夫……大丈夫なんかじゃない、よ」

「わたし……っ、わたしもまひるくんの手を……っ」

「うん。握っていて欲しい」


 なあ?庭の桜は、今、雨と風に打たれ耐えているんだろ?ごつごつとして固かったじいちゃんの手を握る事は、もう出来ないけれど、ぼくはやわらかくて温かい小さな手を握る事が出来る。ぼくが手に入れた小さく温かい手と、ぼくらで必死に越えようとする夜ですら、お前は栄養にして花を咲かせていくのか?


 ぼくが端っこにいて、真ん中にあかる。そして、あかるのすぐ隣に母さんという順で布団を敷いた。常夜灯の薄明かり、雨戸越しに聞こえる雨と風が騒ぐ音、左手の先に繋がれたきみの右手。川の字の一筆が離れた不器用な川が、ぼくらの川だ。


「まひるくん…………とても、とても……っ、ありがとお」


 川の向こうで、とろんと水分を溜め込んだ瞳に常夜灯の光が跳ねていた。左手に感じる手は今までに無いくらい熱いはずなのに、やわらかな熱で、きみの中に“何も着けずに入る”とこんな熱なのかなと想像して、とても気持ち良いだろうななんて思っていた。さあ、さあっ、さっ、と、布団の衣擦れがして母さんが呟く。


「ねえ?お二人さんは、どちらから告白したの?」

「それ……答えなきゃ駄目?」


 さっきまで機嫌が悪そうだった母さんの、らしくない質問が少し嬉しそうだった。


「別に無理して答えなくてもいいけれど……」

「わっ、わたしでひゅ!あっ、違うっ、です!わたしです!」


 母さんが声を殺して笑っている。繋いだあかるの手が別の熱さを持っていく。全く、本当にきみはいつも、いつも可愛らしいね。


「ま、まひるくんは……………わたしの初恋で、憧れで…………っ」


 ぼくに対する想いが母さんの為に溢れ、紡がれていく。ところどころ、時々、詰まりながら、躓きながら綴られていく。顔を左に向けて一所懸命に話すあかるを、ぼくも顔を左に向けて一所懸命に見ていた。あかるの長い髪の間から出ている耳が赤い。凄く手も熱い。一所懸命、左手だけの身振り手振りで、夏の掛け布団がもそもそ動いている。ぼくが見ているその姿に実感が湧かなくて、映画でも観ているような感覚で見ていた。ぼくの彼女の一所懸命。常夜灯の薄く黄色い光の下で、ぼくの為だけに愛を唄う“月のお姫様”。


「幼稚園から……かあ。凄いなあ」

「わっ、わたしはただっ、ただ…………素敵だなあ……って」

「あかるさんが、そんなに一所懸命に眞昼の事を思ってくれるのは嬉しいなあ」


 一眞兄ちゃんと布団の中で話していた時とは違う、布団の擦れる音たち。


「自分の生んだ子が愛される。こんな幸せが他にあるのかしら?」


 母さんの言葉たちを聞きながら頭の中に、兄ちゃんの飄々とした姿が浮かんでいた。誰かに愛されたとしても、誰かを悲しませている兄ちゃんは…………母さんにとって誇れる子どもなのだろうか。


 三人でぼそぼそと、たまに笑って話していたけれど、あまり覚えていないから、いつの間にか寝ていたんだと思う。

 目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。ぼんやりと光る視界は水の中みたいにぼやけていて、焦点も輪郭も定まらない……輪郭?寝ぼけていた頭が一気に覚める。全身の感覚が一瞬で起き、手の中の小さな熱と、昨夜、あかるとの間に流れた川の中にあかるがちょこんと座り覗き込んでいたのだ。口をぱくぱくさせて「………………っ!?」と声にならず、きみのとろんとした顔を見るだけ。


「まひるくん、おはよお」


 桜色に染まった頬で微笑む、きみ。どうして、ぼくを覗き込んでいるのかと聞くと桜色の頬が牡丹の花みたいに染まる。


「ま、まひるくんが…………っ、手をね?離してくれなくて…………っ」


 バッと離す手と慌てて飛び出た声は「ご、ごめん!ごめんっ!痛かった!?」と理解が追いついていないのに、体が動いて、何故か謝る。あかるは首をゆっくり横に振りながら、さあっ、と、畳を鳴らして近付き手を捕まえると「逃がしてくれないのが嬉しい……だなんて、一晩中思っていました」と目を閉じたのだ。


「えっと、寝て……ないの?」

「あっ、当たり前だよお…………っ、とっ、隣にまひるくんがいる、初めての……夜なのだからっ」


 今もどきどきが止まらないの、と、屈み込むきみを見て、ふと思ったのだ。自然に。どうしようもなく。肩肘を使い上体を起こして牡丹の花になった頬に手を添えて、


「これは内緒だよ。もっとこっちにおいで、あかる」


 熱くなった首の後ろに手を回し、やさしく引き寄せた。




 母さんとした何もしないって約束、それを守る事が出来なかったんだ。


 いつも通りの母さんとばあちゃんに対して、父さんがそわそわしていて、父さんらしくなく「あかるさんは……」とか「こう見えて眞昼はね……」とか話す度に、お箸が止まるのだから朝ご飯がちっとも進んでいない。あかるもまた、にこにこと父さんの話に耳を傾け、笑顔で会話をするのだから全く進まない。


「情けないわね」


 そう母さんが呟き、


「こういう時に度量が出るのよ」


 と、ばあちゃんが笑う。


「父さん、あかるがご飯を食べられないから!」

「おお……そうか。そうだな」


 生まれて初めて、父さんに“注意”をした朝だ。


 一眞兄ちゃんがいなくなって、じいちゃんが亡くなり、この家から二人の“人間”がいなくなって知った“知らない事で溢れている初めての世界”で酷い喪失感に襲われる。何も見えず、何も感じなくなり、自分自身すら見えなくなっていっているのに、苦しさだけは心身の真ん中に錘となって座ったまま動く気配がない。隣にいるあかるの孤独を知り、きみの誰かと分かち合いたい感情たちが、多くの夜を独りで越えてきたと知って、ぼくが知っていく世界は、なんて冷たい世界なんだろうと心の底に泥が溜まっていく。


 気温が上がり熱くなっていく雨上がりの朝なのに、どんどんと身体の中が寒くなっていく。


…………………………


エンドロールが聞こえない。

第三十話、終わり。

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