エンドロールが聞こえない。第二十九話

 家に居る桜の木は家族以外の皆にも愛され、古い家に棲む人間の屍体を栄養として、毎年、美しい花を咲かせる。ぼくら、家族が棲む“みんなの家”の庭には、たくさんの屍体が埋まっている。


「今年も図書委員なんだ」

「そうだよ。不満なのかな?」


 図書室の扉を開き貸出しカウンターに座っていた水瀬との会話。不満も何も、とだけ返して、いつもの長机に座った。図書室の匂い。紙とインク、糊の甘い匂いと湿度を持つカビのような匂い。この匂いが図書館や本が好きな一眞兄ちゃんの事を思い出させる。


“一眞は自分よりずっと歳下の子を妊娠させたんだよ”


 設問を解く影に聞こえた声に前髪を、くしゃ、と握る。兄ちゃんは大好きだったはずのじいちゃんと仲直りをする事なく、会いにくる事もなく、じいちゃんは亡くなってしまった。最期まで目を開かずに、動きもせず、声も発しなかったじいちゃんが、何かを考えていたら、ぼくらが集まった病室に兄ちゃんがいない事をどう思っていたのだろう。


カッ。


 芯が折れてペン先が少しだけノートを引っ掻く。シャーペンをノートの上に投げ、両手をだらりと垂らして、天井の蛍光灯を眺めた。た、た、た、と、キレのいい軽い足音が近付いて「隣、いい?」と声を掛けられる。答えるのが面倒臭くて天井を見ていると、少し引かれていた椅子が、かたんと長机と当たる音を立てた。


「いいよ。座りなよ」


 横目に見る水瀬は立ち去ろうと背中を見せていて、ぼくの声に軽く振り返っていた。相変わらず、健康的でバネのありそうな細い背中で。


 教科書と参考書、ノートに筆記用具が置かれる音に混じって「嫌われたのかと思ったよ」なんて冗談めいた声が、再び椅子を引く。


とん、とん、とん、とん、とん…………、

か、か、しゃー、かり…………、


 勉強に身が入らなくなり、シャーペンでノートを叩き続けるぼくに対して、隣の水瀬はノートにシャーペンを走らせ続ける。


「関口君が大丈夫そうで良かったよ」

「ぼくの何が大丈夫そうなの?」


 毎日、誰かに言われ続ける“大丈夫”という言葉が嫌いになっていた。苛立ちを隠そうとしても隠し切れずに、つい言葉の強さや雰囲気に出てしまう。


「関口君の目に光が戻ってきたから」

「光………?」



「そう」


「光。君が持つ、光」


 水瀬は「何かに関口君の良い所が乗っ取られないか心配だったんだよ」と表現し、青白くなっていた顔色にも血の気が戻ってきたと微笑んでいた。水瀬には、ぼくの家に居る桜が家族の幸福や不幸せ、人生を食べて、それを栄養に花を咲かせていると言っても笑わずに信じてくれるかもしれない。


「焦らず、ゆっくりだよ。君は頑張り過ぎる人だから」

「…………うん」


 あかるが言う同じ意味合いを持つ言葉が、水瀬の口から出るとまた違う意味と“色”を持っていた。


 下校時になると“あかると黒い傘”を学校に忘れた日から“さよならの神社”で、あかると別れる事はなく、きみがぼくを家まで送ってくれるようになった。十日が過ぎて“目に光が戻ってきている”のに、あかるはぼくを家まで送りたがる。“さよならの神社”の鳥居の前で「もう大丈夫だから、あかる」と言っても「だめですっ。しっかり家まで送りますっ」と頬膨らませて、眉を、きりっ、とさせるのだ。そして、ちいさな手がぼくの手を取り「あなたの帰る家まで、一緒に歩きましょう」と、繋がれた手をリズム良く振って鼻歌混じりに歩いてくれるのが、ほんの少しの救いになっていた。


「ただいま」

「ただいまかえりまひゅ、違う!ました!」


 惜しいところで噛まれる言葉も毎日。こんなに家に来ているのに、まだ緊張する日が続いているらしい。家の奥から「お帰りなさい。あかるさんも上がって!」と母さんの声がし「親御さんが良いと言うなら、うちで食べていって」と晩ご飯へと誘う。あかるが使う黒電話の大きくて重たい受話器と、その向こうでやり取りされる会話が、妙に単純なやり取りなのが不思議だったけれど、今夜、あかるはぼくの隣でかちかちに固まり正座する事となった。


「父さんは?」

「今日もお仕事が遅くなるらしいわ」


 ここのところ、夜に父さんの顔をあまり見ていない。特に一眞兄ちゃんが家を出た日から帰りが遅くなっている。


「さあ。温かいうちに食べましょう」


 ──── いただきます。


 お箸で肉じゃがの、じゃがいもを四等分に切る。兄ちゃんが作る肉じゃがの味が好きだったけれど、もう食べられる事が出来なくなってしまった。隣のあかるからは「お母様!美味しいっ、です!」と頬が落ちないようになのか、少し上を向いて手で頬を押さえる仕草をしていた。その表情は初めて肉じゃがを食べたような目の輝きだ。もちろん、母さんが作ったものも美味しいのだけど、やっぱり、ぼくは。


「あかる?ご飯を食べたら家まで送るから」

「………はい。ありがとお」


 いつもの“ありがとお”を聞いて、じゃがいもの一切れを口に運ぼうとした。今、ぼくの家は四人で生活している。あかるは一人っ子だと聞いているから、お父さんとお母さん、あかるの三人で、あの白い家に住んでいる。四つに切ったじゃがいも。口に運びかけた一切れをお皿に戻し、お箸を止めた。かちゃ、と、礼儀が良く揃った音を立てテーブルの上に座るお箸。


「あかる……?もしかして…………さ。家に誰もいない?」


 きみが大きく息を吸って、大きく目を開き固まる。もう一年以上も付き合っているのに、あかるのお父さんとお母さんを見た事が無かった。


「そうなの?あかるさん?」

「え……っと、あの……………あ……」

「嘘は……吐くなよ、ぼくにも言ったろ?」


 あかるがお箸を置いて、きゅっとスカートを握りしめ、短く、小さな声で「いない」と言った。電話での会話が妙だったんだ。重たい黒電話の受話器のこっちと向こうで話される会話に行き来が無いように思っていた。あかるの耳には“ツー”という電子音しか聞こえていなかったのだと思う。ぽつり、ぽつりと話されるあかるの家の夜。きみがお父さんとお母さんと過ごせる日は、あまり無いのだと言う。月曜日の夜と火曜日がお父さんで、木曜日と日曜日の夜だけがお母さんと過ごせる日なのだと言った。いつもご飯は、お母さんが“他の家”で作ってきたものを冷凍していて、自分で温めたり、調理したりしている。学校に持っていくお弁当も、朝に自分で温めてから弁当箱に詰める。


「お父さんもお母さんも……別の好きな人がいるから。お家にいるとその人と過ごせないから……」


 そんな馬鹿な事ある?あかるを独りにして泣かせてまで、好きな人と過ごす幸せって、何?


「あかる。そんなば………」

「今夜はもう暗いから泊まっていくといいよ」


 汚い言葉をぼくが使えないように、ばあちゃんが笑顔で言った。今夜はご飯を食べて遅くなった、外は暗く、送るにしても今のぼくが送るには頼りない。何より、


「誰もいない家なんて、子どもが帰る場所じゃあないよ」




 どうしてだろう。テレビ中継の野球が頭に入ってこない。凄いプレイが出ても、逆転ホームランが打たれても観てはいるのに、何も感じない。口から身体の中が全部飛び出しそうな、脚から畳に沈み込みそうな感覚にそわそわと感じている。


「お先にお風呂もらいました」


 そう言って乾き切らない髪と、いつものあかるからはしない、ぼくの家の石鹸の匂いに、そわそわがどきどきに変わっていく。お湯で温まった赤い頬と、いつもよりとろんとしている瞳、濡れた髪が唇の近くに巻き付いていた。そして、ぼくが小学生の頃に使っていたパジャマを折っても、折っても、ぶかぶかに着ている姿に心臓が飛び跳ねてしまう。


「野球……ですか?」


 そう言って畳を踏む軽い音を鳴らして、ぺたんと座るきみ。二十センチメートル程しか離れていない左隣から、やわらかな熱が伝わる。まひるくんはサッカーだけじゃなくて、野球も観るんですね、と、生乾きの髪を耳に掛ける仕草に唾を飲む。少し首を傾げ「どうかしましたか?」と顔を覗かれた。あかるの耳や首筋、少しだけ見える鎖骨に色気のある朱が、ほんのりと加わったきみから「ぼくもお風呂に入ってくる!」と逃げ出した。


 迂闊だったと思う。少し前まで、この狭い空間に裸のきみがいただなんて、想像するとは思わなかった。互いの裸や身体のかたちを知っているから、情けないくらいにいちいち反応してしまう。これじゃあ、何だか変な事をする為に入ったみたいに思われていないかな。でも、この湯舟に溜められたお湯に浸かっていたんだよな。お湯の水面を見つめていると、湯気が天井で冷やされて出来た水滴が落ちて、その波紋に光が跳ねる。子どもの頃、じいちゃんとお風呂に入った時、ぼくの背中を流すと言って、タオルで擦る力が強すぎて泣いた事もあった。お湯の温度がじいちゃん好みの熱さだったから、お風呂から出てサイダーを飲むのが習慣になってしまった。今はもういない“生”と、今そこにいる“生”に感情がぐちゃぐちゃになりそうになる。


「思春期って、こんなに訳が分からなくなるのか……辛い……なあ…………」


 別れ、死を経験して、みんなが“大丈夫?”と言われてきた。そう心配される事に苛立ち、心配される事をしてしまって、あかるが家まで送ってくれるようになったのに、きみの裸や変な事を想像して身体が熱くなる単純さ。死んでしまって触れられない悲しみと、生の身体に触れられる悦びが混在しているから、身体と心がばらばらになったみたいで、今にも分解しそうなんだ。


 ──── 苦しいよ。


 サイダーを飲もうと冷蔵庫の扉を開くと、母さんが「あ、眞昼。少し待って」と、ぼくを止めた。部屋にあかるがいるから一緒に麦茶でも飲みながら話なさい、と微笑んだのだ。長い廊下をぎしぎしと母さんが冷たい麦茶の入った硝子のボトルとお煎餅を、ぼくがコップを持って部屋に向かう。


「あかる」


 ぴくっ、と、ちんまり丸まって座っていたあかるが反応した。


「母さん。どうして居間じゃないの?」

「んー?居間では話しづらい事もあるでしょう?」

「いや、でも………………これって何だか」

「眞昼?寝る時は……、別々よ?」


 そう母さんが言って口許を押さえるのだ。それは、ぼくが“おませな事を考える歳”になったなんて、まだ信じられないと笑いを堪えている仕草だった。ぼくは不快感を示す眉の形をしながらも、その通りだから顔が熱くなり「そんな事を言ったら、あかるが困るでしょ!」と同意を求め、きみを見た。すると、さっきよりも背筋をぴんと伸ばした“おませな事”を考えていたらしい真っ赤な顔がいた。膝についた両腕をぴんと伸ばすきみが恥ずかしさのあまりなのか、小刻みにふるふると震え、その振動に瞳の水分も震える。


「あらあら。でも、そういう事は二人の内緒にしておきなさいね」

「わ、分かってるよっ。あかるをいじめないでくれるっ?」

「ふふっ、あかるさんのお陰で………眞昼が少し明るくなった。ありがとう、あかるさん」


 きみは両手が取れるんじゃないかと思うくらいに手を振り「ぃ、いえっ!いえいえいえっ、そんなっ!そんなそんな!わたしの方こそ、突然お泊まりすることになったのに、お婆様とお母様に…」と全て言い終わる前に母さんがもう一度、


「本当にありがとう。これからも眞昼をよろしくお願いします。あかるさん」


 そう言って母さんが深く頭を下げたのだ。多分、ひとつは本音だったのだろうと思う。もうひとつは“あかるに気を使わせない為”に大人である母さんが、“大人”を代表して、そういう事にしたんだと思う。


…………………………


エンドロールが聞こえない。

第二十九話、終わり。

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