エンドロールが聞こえない。第二十八話

 じいちゃんの転院手続きの時間がかかりそうだったので、母さん達と別れ、先にあかるとぼくで病院から帰ってきた。あかるの家の近くの公園で「少し、座りませんか?」と誘われる。ベンチに座り辺りを見渡して、こんなに良い公園なのに人がいた記憶がないと過った。


「桜の木がたくさんあるからかな」


 ふいに呟いたひと言にあかるが「?」という顔をしたから「ごめん、独り言。何でもないよ」とたどたどしく謝る。膝の上に置いている手に、きみのちいさな左手が重ねられて気が付く、ぼくの手が震えている事と、とても冷たくなっている事。きみの体温が肌の外側から内側へ染み込んでくる。


「あかる……?じいちゃんのさ、味噌汁はお湯みたいに薄いんだよ」


 大好きな濃い味のお煎餅も、ずっと食べていない。あまり、ばあちゃんは料理が上手じゃない人だから、母さんと一眞兄ちゃんが作る料理が好きなんだ。ぼくの手に重ねられた温もりが、ちいさな温度が、ぼくが崩れてしまわないよう守るように手を握る。


「あの…………………お兄様は、どこに行かれたのかわかったのですか?」


 その言葉には“ああ、やっぱり”が、あかるにも感じ取れていて、それがもうすぐ形になり崩れるのだろうという不安感があった。首だけを軽く左右に振ると「そう…………ですか……」と、あかるまで俯いてしまう。


「あかる、ありがとう。家に送るよ」

「あ……、いえ。ここで充分です。今日は少しでも家にいて下さい」


 頭の上には、ぼくの心を覆い閉じ込める為の空が薄暮に向かい照明を落としていっていた。


 夜、みんなに大切にされる“何とか文化財”の古い家が、今まで感じた事の無いくらいに仄暗く、奇妙なまでに静かだった。今夜もいない兄ちゃんとじいちゃん、それと父さん。お風呂上がり水玉模様のコップにサイダーを注いでいると、明日の準備をしていた母さんが呟く。


「眞昼…………眞昼は、一眞の居場所を知らないの?」


 水玉模様を傾けてサイダーを一気に体に流し込んでから「いいや」と不機嫌に言葉にした。俯いて「そう……」とだけ言った母さんに「どうして、一眞兄ちゃんが出ていったんだよ……ッ!」と声と感情が、強く振った炭酸のように弾ける。一度、弾け出した炭酸の泡が止まらないように、母さんに対して怒鳴り、今までの苛立ちや感情がコップから溢れていった。どんどん身体中の血液が温度を上げて、脚の先から沸騰していく。


「母さん!“関口家としてふさわしく無い”って、何!?」


 それは…………と、口籠る母さんに「もういいよっ!!ばあちゃんに聞く!!!」と、足をどんどんと鳴らし進む長い廊下。背中に何度も「眞昼っ、眞昼!!止めなさい!!」と声を投げつけられたけれど、全身に流れる百度を超えた血が身体を動かし、止まらない。






「一眞はやってはいけない事をやったんだよ」


 ばあちゃんの横に母さんが座り、ぼくの問いに対して、答えには遠い言葉を使った。納得が出来ず、ばあちゃんの目を睨め続ける。


「兄ちゃんが我儘過ぎるって、どういう意味?」

「長男だから家を守る義務があるでしょう」

「兄ちゃんよりも、この古い家が大事なのっ?」


 兄ちゃんには決められた結婚相手がいたのに、他の人と付き合ったから喧嘩になったらしい。いくら家族だといっても、“恋”に本人以外が決めた人となんて間違っている。また怒りで息が荒くなっていくぼくを見て、ばあちゃんが座り直し、背筋を伸ばして「眞昼も、もうその年齢だ。理解が出来ると……」「お義母さんっ!」と、ばあちゃんの言葉を母さんが遮った。


「ばあちゃん、何?」

「眞昼っ、お願い……っ」

「母さんは黙ってて。ぼくはばあちゃんと話してる」




「一眞は自分よりずっと歳下の子を妊娠させたんだよ。しかも、お相手は教え子だ」


 耳から入ってきた言葉を頭が理解した瞬間、目が泳ぐというより震えが止まらなくなった。視点と焦点が合わずに、ばあちゃんと母さんがぶれて何人にも見える。兄ちゃんがそんな事を、した?教え子って家庭教師をしていた高校生くらいの人の事?高校生って、ぼくより少しだけ歳が上………………。


「まず、その事が許せなかったんだよ。責任を取って家を出ると言っても、お相手のある事だ。道理が通らない。分かるね、眞昼」


 “ぼくは恋の使い方を間違っているのかもしれない”


 高校生の………妊娠したって、兄ちゃんがそういう事をぼくより少し上の………ぼくらは“後、五年くらいは子ども”って言われる年齢なんでしょ、それなのに二十歳を超えた大人の兄ちゃんがコンドームもせず、その人とセックスを…………………………。


 “恋の使い方”を間違えると誰かを傷付けたりするって、教えてくれたのは一眞兄ちゃん、あなただよ。


 どうして人生は等間隔じゃないんだろう。一年で一歳を重ねるのに、一年は二十四時間を三百六十五日繰り返すだけなのに、全く等間隔なんかでは無く、苦しい時は途方もなく長く、何度も、何度も苦しめられ、何日、何ヶ月、何年も同じ時間を行き来する。どうして時間は等しくないんだろう。


 蕾が大きくなり始めていた庭の桜が、今年も小さくも鮮やかに開いた。この桜を気に入っているあかるを呼び、長い廊下のガラス戸を開けて腰を掛け、桜を見ていた。


「きれいですね」

「……うん」


 細長い庭、苔の生えた岩や塀の細かい手入れが、隅々まで行き届かなくなった低い木々と花。桜の樹の下には屍体が埋まっていて、それを栄養に花をつけると言ったのは左隣にちんまりと座り、桜色の頬で微笑むきみだ。ぼくの視線に気が付いて目が合うと、少し恥ずかしそうに幸せそうなとろんとした顔で唇をやわらかく噛みはみかむ。


 この庭の桜は、この家に棲んできた人間の屍体や想い出、幸せ、不幸を食べて、今年も綺麗に咲いている。


 六月、梅雨。朝から大雨が降っていた。いつものように神社の前であかると待ち合わせて、一緒に登校する。傘の内側で鼓膜を殴るように、ばたばたと雨の音がしていた。それが傘の外と内側を遮断するガラスのように感じる。自動販売機がたくさん並ぶ文房具屋さんの前で、傘を覗き込んできたあかるの声が、ぼくの足を止めた。


「どうしたの?何か文房具屋さんで買い物?」

「いえ………………その……………………」




「まひるくん、その………大丈夫ですか?」


 精一杯の笑顔を作り「うん」とだけ伝える。


 教室のざわざわとする音が、ぼくの世界の外で鳴っていて、ぼくはぼくの世界の内側にいるから、独り。たった、独り。初めから独りだった。右手で机の上を指でかつかつと叩いていた。苛ついているのだろうか、何もする事がないからか、何かを感じる為に指で叩いているんだろうか。自分の行動にすら意味が持てない。


「関口くん、大丈夫なの?」

「何が?」


 水瀬まであかると同じ事を聞く。大丈夫、なんて言葉を使って、同じ事を、聞く。放課後が始まると、どこからかサッカー部の練習は一階の部室が並ぶ廊下でインターバルトレーニングをするという声が聞こえてきた。心肺機能と瞬発力、体力を上げる為に廊下の端から端を何度も走る辛いやつだ。校舎の階段を降りていく途中、昇降口に向かう廊下の途中。色んなところで、すれ違うサッカー部の一年生。スニーカーに履き替えて、傘立てにある自分の黒い傘を………………、


 取らずに学校を出た。


 外は朝と同じ大雨で、ずぶ濡れになりながら、ただ歩いていく。いつもは避けて通る水溜まりも踏み付けて、ズボンの裾を汚していく。いつも、あかると別れる神社の前で立ち止まり鳥居の間から境内を覗き見た。


 “雨宿りをしていこう!”

 “まひるくん、お話があります”


「……………あかるを学校に忘れてきちゃった」


 目を閉じた瞬間に、今までの全部がまぶたの裏に映った気がした。


 まぶたの裏は暗いはずなのに、そこら中に輝き散らばる笑顔。空を見上げ、大声で泣き叫ぶ。ぼくらは大人になっていってるんでしょ?大人みたいに声さえ殺せば、涙なんか雨で隠せるのに、こんな小さな子どもが泣くみたいな声。本当に格好悪いけれど、止まらない。




 二週間前、じいちゃんが死んだんだ。




 この古い家の玄関戸はいつにも変わらず、がたがたと不器用にレールの上を走り、一歩、家の中に入ると、ぐじゅ、と、鳴る濡れたスニーカー。びしょ濡れの体から落ちる雫に、次の一歩を躊躇う。このまま家に入れば、じいちゃんに叱られる……なんて思い込もうとしていた。


「眞昼?帰ったの?……眞昼っ!どうしたのっ!?」


 顔を上げると母さんが立っていて、みんなと同じようにまた「大丈夫なのっ!?」なんて言うんだ。待っていなさいと言われたから、しゃがんで、玄関の外、空から落ちる雨を見ていた。飛び石に打ち砕ける雨粒と、それを浴びて潤う苔や草花。ずっと、ずっと、雨が降っていたら、ぼくの外にある雑音が掻き消されるし、植物も潤うから平和なんじゃないのかと思う。


「眞昼、こっちに来なさい」


「……でも、玄関が」

「気にしなくていいのよ。来なさい」

「うん」


 ぐじゅぐじゅと鳴るスニーカーで恐る恐る玄関を濡らす。母さんが頭にバスタオルを被せて、抱きしめてくれるように髪の毛や顔、首を拭いてくれる。こうやって拭いてもらったのはいつ以来だろうか。小学校低学年だったかな。いや、もっと前、幼稚園の時かもしれない。


「傘はどうしたの?」

「学校に忘れた」

「そう。明日………明日じゃなくてもいいから持って帰ってくるのよ」


 窓をばたばたと打つ雨、昨日出したばかりの扇風機がゆっくりと首を振る部屋。倒れたコップのように畳の上に転がる、ぼく。炭酸の抜けたサイダーのような身体。じいちゃんが亡くなる前日に、あかるに借りた“孤悲”の歌が載る和歌の本の背を見つめていた。一眞兄ちゃんはじいちゃんが亡くなった日も家に帰ってこなかった。お通夜やお葬式にも現れなかった。家を出ていった猫が二度と帰ってこないように、もう兄ちゃんも帰ってこないのかもしれない。飄々としていて、すぐに野良猫と仲良くなれる猫みたいな人。


 ぼくより少し歳上の高校生を妊娠させた“恋の使い方”を間違えた大人。


「こっ、こんばんはっ!ふじ!藤原っ、でしゅ!違う!ですっ!」


 玄関から聞こえたのは、学校に忘れてきたはずのあかるの声と、ぱたぱたと廊下を小走りに出迎える母さんの声。


「眞昼……?あかるさんが来ているけど……」

「うん」


 背中にかけられた声に振り返る気力が無い。首に掛けたタオルすら重たいのに振り返るなんて、炭酸の抜けたサイダーができるはずが無いよ。


と、と、と、


 畳を踏む軽い音がゆっくりと小刻みにした後、さあっ、と、衣擦れの音がした。小さく、やさしく、ぼくの名前を呼ぶ音とやわらかく頭を撫でる小さな熱。


「やっぱり、まひるくんは大丈夫じゃないです。わたしはすぐに泣いてしまうけれど、嘘は吐かないでください」


 目尻に熱い何かが走って肩が震える。息が熱くなっていって、雨の中で泣き喚いたみたいに呼吸がコントロール出来なくなっていく。あかるに格好の悪い姿なんか見せたくないのに、自分の意思で何も出来なくなる。


「わたしはまひるくんが泣く姿も、格好悪いって思っている姿も、全部、大好きですよ」


 あかる。きみはどうして、まだ何も言っていないのに、ぼくの見えない、聞こえない言葉に答えてくれるの?本当にきみは……。


 どーぞ、と、いつかみたいに腕を広げたあかるに抱き付いて、子どもが泣くみたいに格好悪く、わんわんと泣いた。


 怖いんだよ、あかる。じいちゃんがいない世界が怖い。そんな世界なんか知らない、今までそんな世界はなかった。じいちゃんはどこに消えたんだろう、兄ちゃんはどこに行ったんだろう、母さんと父さんはどうして泣かないんだろう、どうして、ばあちゃんは“あの時”微笑んで「頑張りましたね」なんて、じいちゃんに言ったんだろう。


 ぼくらはみんなでいるだけの独りぼっちだ。

 ぼくらは身体を擦り合わせて、求めて、抱き合っても、独りぼっちなんだ。


…………………………


エンドロールが聞こえない。

第二十八話、終わり。

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