エンドロールが聞こえない。第二十六話

*性的表現を含みます。


 ぼくらは身体を重ねた後に抱き合い丸まって、ぽつぽつと会話をする。横になるぼくの腕の中に、すっぽり収まるあかるのちんまい身体。きみの肩幅に合わせて包むぼくの腕を、その小さな口でやさしく噛むのが、最近の癖。


「あかる?最近、よくそういう風に軽く噛むね」

「え……っ?あ、えと……無意識にー……だっ、だめ、ですか?」

「駄目………って言ってもやめれないでしょ」

「まひるくんは、いじわるだ」


 そう言って目を閉じて、また噛む。とても、やわらかく、とても、やさしく。


「まひるくんはやさしいのに…………時々、いじわるで、王子様の格好が似合っていて、えっちの時は……、少しだけ強引………」

「嫌なら止めるよ」

「嫌なんかじゃないですっ、どきどきするんですっ、うれしいんですっ、すてきなんですっ………………いじわるっ」


 ぼくらが“性行為”というものを小学校で習った時は、正直“ふーん”くらいに思っていた。後は少しの間だけ男子が騒いだくらいだ。だけど、次の日、また次の日と重ねるごとに女子とかに意識をしだして、今や、あの“藤原あかる”とそれをしている。セックスという行為で、あかるが我儘に、甘えん坊になるとは思いもしなかったし、ぼくも強引さや、あかるの言う“いじわる”な所を見せるなんて思いもしなかった。こんな行為をするのは、ぼくらの歳では早いんだって、と、きみに話した時も「わ、わたしは遅かれ早かれ………まひるくんとこうなりたかったから、早まってうれしい」なんて潤んだ瞳で答えられたのだから、またあかるの一歩先を行く“大人”を知った。きみの下唇を親指と人差し指で軽く挟み撫でると、ぴくっと反応して、くすぐったい、と、笑って丸まり上目遣いで「でも気持ちいいから、もっとください」と指を唇で甘噛みする、ぼくの彼女。


「あ、あの……っ。わ、わたしの、わたしが……っ、えとっ、お口……のは、気持ち良かったです………かっ?」


 あかるの下唇をやわらかく噛んで、小さな舌で潤す癖が気になっていて好きだった理由は、知らず知らずにきみが“口でしてくれる行為”を重ねていたからかもしれない。


「うん、凄く……気持ちが良かったよ。だから、たくさん………だったでしょ?」


 飛び付くように胸の中に入り攻撃になっていない自称・頭突きをぐりぐりとしながら「ま、まひるくんを……っ、もらっちゃったっ」と汗を薄く、ほんのり紅潮する肌色。そんな風に言われると、確かに凄い事をしちゃったんだと思い出して、恥ずかしくも、また興奮してしまう。


「その……あかる?絶対に嘘は言わないで。嫌じゃ……ないんだよね?」

「うん、うんっ。嫌じゃないよっ。まひるくんのもらってね、飲むの………その……あの、あのね…………っ」


 ──── 身体中が嘘みたいに気持……ち、良か…ったの。


 その快感を思い出したのか身体を、ふるるっと震わせ「また……お口でしてもいいですか?」と、ぼくの方からしたいお願いをあかるにされて、また身体が熱くなる。


「じゃあ、良い子だから、今すぐして?あかる」

「ひゔ………いじわる。でも、うれしい。まひるくんにお願いされた」


 ──── 断る理由も断れる理由もありません。


 ぼくらの恋はどこに向かっていたのだろうか。性行為というものを早くに覚えたのにも理由があったのだろうかと、最近、そんな事を思う。あかるとぼくが出会った幼稚園から性行為をするまで、ただ可愛らしくて、ドジで、のんびりした女の子だったのに、急にそれらが懐かしい想い出になってしまった。やっぱり、時間というやつは等間隔なんかじゃなくて、平等にも流れていないと年齢というやつから教わる。


 この年のクリスマスには“恋人になって初めてだから”とか“みんなもそうしていると聞くから”だなんて、たくさんの言い訳と、たくさんの欲望を持ち寄って、何度も、何度も、きみの身体にぼくの身体を擦り付け、きみの甘えん坊と我儘、ぼくの意地悪で“ぼく”を飲ませたりもした。ぼくにしか見せないきみの身体に、たくさん触れ、入っていた。


 十二月三十一日。除夜の鐘が鳴り始め、今年が静かに暮れていく。今まで“何とか文化財”のこの古い家は誰かを失っても、誰かがいなくなっても、特に何も思わず庭の桜と一緒に佇んできたのだろう。こんなにも長い間に渡って“周りのみんな”に愛されてここにいるのは、家の中に住む家族や人生を栄養として摂っているからだ。じいちゃんと一眞兄ちゃんのいない居間で、大晦日恒例の音楽番組を観ながら、みかんやおかきを食む父さんとばあちゃん、そして、母さん。この家がどこか仄暗くて、どこか偽物のようで、家族ですらセルロイドの人形のように見えていた。


「眠くなってきたから、先に寝るよ。おやすみ」

「眞昼?年越しそばは?」

「……今年はいいや。良い年をね」


 眠たいだなんて嘘だった。何もかも偽物に感じるのが気持ち悪くて逃げただけだ。居間から部屋に続く長い廊下が、いちいち鳴る。その度に胃が動いて、えずきを起こす。わざと低くしているらしい梁が圧迫感を感じるから不快だ。雨戸の向こうにある細長い庭の桜の木は、ぼくの情けない姿を見て笑っているんだろう。部屋に二つの机と一組の布団。ついに年末も兄ちゃんが帰ってくる事は無かった。誰よりも家族を愛していて、誰よりも人の関係を大切にするようにと教えた人は、呆気なく自分の欲と家族との折り合いがつかなくなったという理由で出ていってしまった。


 ──── 眞昼。“恋の使い方”は間違っちゃいけない。


 “恋の使い方”?


 なんだよ、それ。

 あんなにぼくに説いていて、

 あなたは間違ったんじゃないのか。


 除夜の鐘が鳴り始め、

 今年が、終わっていく。


 翌日、目を覚ましたのは母さんが体を揺さぶり、大きな声を出したからだった。温かい布団の中から覗く冷えた部屋で「あかるさんが来ているわよ!」と響いた言葉に目が冴える。いつもなら枕元に置いている目覚まし時計は無く、机の上。その針は十時をとっくに過ぎていた。あかるとは“さよならの神社”へ初詣に行く約束をしていたのだけど、一向に待ち合わせ場所に現れないから迎えに来てくれたらしい。


「明けましておめでとおございます」


 冷えた廊下からとろんとした声が聞こえ、手と膝を着いて笑顔でいるきみに視線がいく。母さんが「あかるさん!そんな寒い所にいないで部屋に入って!」と招き、ぼくは毛布と掛け布団を跳ね除けた。と、と、と、軽い足音で畳を鳴らし、布団の際に座ると「まひるくんが、お寝坊さんをするなんてはじめてです」とくすくすと笑う。それから、ぼくの頭を撫で「髪の毛がぴょこぴょこしているのも、はじめて見ました」と口許に手を当てて、また笑った。


 大勢の人が行き交う鳥居を潜り、細石を踏んで進む人達の背中に続いていく。本殿のある小高い山の階段に向かう間、皆の脚が止まる度に、何度も家にまで来させてしまった事を謝った。それなのに、あかるは首を左右に振って「まひるくんのお陰で、一年の始まりが幸せな日になったから謝らないでください」と微笑むのだ。遅刻で待たされたのを“幸せな日”と表現するのが理解できずに意味を聞くと、一年の始まりに“誰よりも最初にぼくを見たのが、わたしだから”と頬を桜色にする。


「相変わらず大袈裟だな。ぼくには何のご利益も無いよ」

「そんな事ありませんっ。もういっぱいしあわせです!」


 想うという事や幸せという感情が爆発的なものよりも、小さなものの積み重なりの方が、より大切になっていくと気付いたのは、いつだっただろう。


 本殿で手を合わせ願い、おみくじを引いて、ぼくの“末吉”としょんぼりとしたあかるの“凶”を、きみの願い通りに木の高い枝に結びながら「あかるはどんなお願いをしたの?」と長く手を合わせた理由を聞いた。きみのやわらかい頬に指が当てられ、枝より少し高い空を見上げて「そう……ですねえ」と何かを考えた後に答えられたのは、


「神様がお願いを叶えて下さったら教えますね」


 そう少し悲しそうに微笑むだけで、それ以上は勿体ぶる事もヒントになるような事を言う事も無かった。


 今、考えると、もうこの時、あかるには。


 神社の奥にある公園でベンチに座り、温かい飲み物を手にして、今年の抱負や去年の出来事をたどってみる。ぼくらが付き合い始めて、もうすぐ一年だ。幼稚園で出会い、七年。付き合い始めてからの一年という時間は、その長さと重さが今までと比例しない気がする。


「不思議ですね。ずっと付き合っていたみたい」

「ぼくらはどうなっていくだろうね」


 ベンチに置いた手が握られた。それを握り返す。ぼくらはどこまで行けるのだろう。どうすれば、これ以上、あかるを傷付けずに連れて行けるのだろう。


 “初めてが好きな人で良かったわね”


 ぼくらは生まれた時から、出会った時から、ずっと一歩と追いつく為の二歩で、ここまで来たんだ。


 桜が舞う春を迎え、二年生になると水瀬が同じクラスにいた。ざわざわとする始業前の教室。その喧騒を背にベランダの手すりに腕を掛け、顔を乗せてグラウンドを眺める。背後から「よろしくね、関口くん」と簡潔な水瀬の少し乾いた声がする。振り返ると教室の窓越しにこちらを見る彼女に「髪…………伸びたね。似合ってると思う」と言って、初めて声を掛けられた時の姿を重ねてみた。水瀬が少し首を傾げ、左右非対称の困ったような、意地悪なような笑顔をして「なるほど。関口くんは、さらりとそんな事が言えちゃうのか」と肩をすくめられる。


「どういう事?」

「んー?あまり、そういう事を言わない方がいいよって事」


 ふーん、と、炭酸が抜けたサイダーのような返事をして、またグラウンドに視線を移す。隣に水瀬が来ると、ぼくと同じように手すりに腕と顔を乗せてグラウンドに顔を向けた。


「割り切れないよね」

「そうだね」


 グラウンドに上手く動かせない脚で上手に走り回るぼくが見える。よく夢で見る“走れていた頃の感覚”で縦横無尽に動く姿。ちかくて、とおい。手が届く場所にある、掴めないもの。それを考えてしまわないように逃れる為、勉強に没入しているけれど、どんどん上手くなっていく同級生達を見ながら逃げ続けるなんて、辛い。本当に、ちかくて、とおいのだと実感させられる毎日。


「藤原さんと何かあったでしょ?」


 水瀬の言葉に浮かべる“あの日”以来、甘えん坊と我儘、欲と意地悪なふたり。ぼくにしか見えないところまで見せる、あかるの姿。


「どうして?」

「雰囲気が変わった」

「そう?何も変わらないよ。相変わらず、喧嘩もしないし」


「エッチな事……、したとか?」


 目を少し開き、首の後ろから耳が熱くなっていくから、それがばれないように手を回すフリをして隠し「女の子が軽々しくそんな事を言っちゃいけないんじゃない?」と不快感を混ぜて釘を刺したつもりだった。


「私を“女の子”って言ってくれるんだ」


 水瀬が意味深に微笑む。


「運動部ってさ、外から見るより陰湿だよね」

「嫌な事を言われてるの?」

「まあね。もう辞めたんだから放っておいて欲しいよね」


 ぼくらの世界は広いようで狭い。狭いくせに那由多に広がっているから、怖くて、踏みならされた道を行く事を選択してしまう。悪口やいじめの類も同じだ。みんなと同じように言っていれば怖くない、みんなと同じ事をしなければ、怖い。


「人の事を言ってる間に出来る事があるでしょって思う」

「ぼくもそう思う」


 チャイムが鳴り、ぼくらの二年生が始まろうとしていた。水瀬の少し伸びた髪がふわりと舞い「さ、席に着こ?」と教室へ脚が向けられる。水瀬の細い背中を見ながら手すりを強く握る。


「ぼくは全部が欲しいだなんて無理な事だ」


 教室に戻ろうとする身体は、グラウンドから離れないように握る手すりを離さざる得なかった。


…………………………


エンドロールが聞こえない。

第二十六話、終わり。

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