エンドロールが聞こえない。第十八話

 昨日の下校時。いつもと違ったのは、あかるの“想い”を受け取った事。ぼくの両手に小さな両手が重ねられるとコンドームが置かれていた。きみは“はじめてのひと”に、ぼくを選び、ぼくがきみを“はじめてのひと”として選ぶなら伝えて欲しいと言った。“さよならの神社”で別れ、家に帰り、ご飯を食べ、布団に入っても頭がぼんやりする。あかると“そういうこと”をするかもしれない、それだけしか考えられず、その先に進めない。朝になり食卓に着くと家族に酷く心配された。それは初めて“隈”というものを作ったからで、父さんには「何か悩み事か?ひとりで考え込まないで話すのも……」と心配され、母さんには「お父さん、眞昼が相談したいなら話してくれますよ」と見透かされているみたいに言ったから、少し嫌な気がした。とても眠たくて、目の下が痛く重い。初めて夜更かしをした理由が悶々と悩まされていたからだよ、なんて、格好がつかないでしょ。


 あかるの部活が朝早くからあるとの事だったから、いつもより遅く家を出た。久しぶりに一人で歩く通学路はあかると歩いていないだけで、こんなにも広く見える。こんな所に自動販売機が並んでいたかな、草の生えた二軒分の空き地にはどんな家が建っていただろう。去年、友達の佐藤空と歩いた時は野菜を作っていたはずの畑には雑草が生えているだけ。たった、二、三ヶ月。たった、半年。たった、一年。それだけで、こんなにも変わってしまう。


 学校に着くなり、散々、色んな奴から“隈”の事を聞かれたり、男子の“そういう話題”に巻き込まれたり、隈を作った理由を悟られないようにしていたら疲れてしまった。わけなんて知られたら、恥ずかしくてどうにかなるよ。風に当たろうとグラウンド側のベランダに出ると、九月に預けられた暑い八月の風に先の季節が混ざっていた。ふいに廊下の右側に目をやると、同じく廊下に出てきたあかると目が合う。二人の間にある二十数メートルを埋め、ぼくを見上げるきみの目を見ると、そこにぼくと同じように隈が出来ていたのだ。


「……ね、眠れ…………る、わけ、ないもん」


 そう少し赤い頬を膨らませて、呟く、きみ。


 手すりにぶら下がるように腕をかける隣で、きみはちいさな手で手すりを握っている。しょんぼりと「昨日は……ごめんなさい」と言うから「どうして“ごめんなさい”なの?」と意地悪をしてしまう。スカートの前を握り「二人を……急ぎ過ぎちゃいました。まひるくんと一緒に歩くって約束したのに、ごめんなさい」と、更に沈む表情と頭に手を乗せて、やさしく撫でた。


「嬉しかったんだよ。だから気にしなくていいと思う」

「……やっぱり、まひるくんはやさしい。ありがとお」


 いやらしい想像をする前に心臓が跳ねてしまう薄い夏服も、もう少しすれば変わる。だから、ずっと夏のままならいいのになんて思う時がある。いつものように「ねえ、あかる?」と呼んだ。いつものように「何ですか?まひるくん?」と応えられる。


 皆には聞こえない、あかるとのひそひそ話。


「ぼくもたくさん考えたんだ。

 あかるがぼくを想っていてくれたから、いま一緒にいる。

 それが幸せだなあ、って」




「ぼくも初めては、あかるがいい」


 ぼくの袖口を親指と人差し指で挟むように掴んで、あかるが「はい」と目を閉じ、長いまつ毛が際立ち「よろしくお願いします」と小さな口が動く。


「関口ーっ?いちゃつくなら他所でやれよーっ」


 振り向くと教室の窓から覗くサッカー部の奴らと数人の女子が、ぼくらを見てにやにやとしていた。ふざけて「うっさいな!すぐ授業だからここしかないんだよ!」と言い返すのだけど、あかるは俯き真っ赤な顔のままぼくの左腕で隠れるのだ。


「関口はおれたちには、そんな顔しねーのにっ!」

「そうそう!部活じゃ、すげー怖い顔だったじゃん」

「だから!うっさいって!」


 ぼくが部活では怖い顔をしているなんて、初めて知った。多分、それくらい本気だったんだと思う。でも、そんなぼくはもうこの先にいないんだろう。だって“怖い顔だった”って、お前らのぼくは過去形なんだから、お前らの未来でぼくはピッチに………。


 “もう自分で判断できる年齢だ”


 そう。自分で、判断しなきゃ。


 土曜日は親が家にいません、と言われた土曜日の朝。その言葉が嫌にいやらしく聞こえて、また眠れなかった。まだまだ全快ではない膝の為に松葉杖を使い歩き、あかるまでの道の記憶をたどり進む。初めて、この公園で待ち合わせた時、ぼくらは“子ども”だったんだな、なんて思ってしまった。まだ、ぼくらは子どもなのに。


「こんにちは、あかる」

「ようこそ、いらっしゃいました」


 ぼくの家とは違って、新しく白い家の前にワンピース姿で立つきみ。いつか、向日葵みたいだと思った印象が今日は違い、また別の花に置き換わる。ぼくのシャツの胸元を小さく握って「ちょっとだけね……っ、心配していました」と言った。


 それは脚が痛んでいないだろうかという事と、嫌いになって来てくれないかもしれないという事。


 多分、きみはきみなりに“恋の使い方”を間違えていないのか、びくびくしながら前に進もうとしている。片思いに恋をした六年間と二人で恋をしている時間を手に入れたきみには、色々な不安が絶えず生まれているんだろうと思う。だから、ぼくは簡単に大切な言葉を吐いてしまう。今だけでも正解なはずの“恋の使い方”の痛みを取ってあげたいという無責任な言葉を、使う。




「あかるの事を嫌いになる訳、ないでしょ」




 相変わらず、あまり空気が動いていなくて、しんとしている家の中。部屋に着くとお茶を取りにいくと言って、ぼくを独りにした。きみの匂いがする空間に耳が“きん”となって、お腹が押さえつけられ、肺を圧迫する。不安とも違う、そわそわする感情とも違う。ぜんぶ、初めて、感じる、何か。よく分からない感情やそれらから気を逸らそうと見た本棚と机には参考書の類いが増えていた。漠然と二年生に向けて、中学校からその先に向けて準備を始めないといけないと思っていた。ぼくの進みたい高校に行けるのかと考えるたび、膝が痛む。順に見ていく本棚の参考書、あかるの好きなマンガ、少しの小説、その数冊の中に、


「兄ちゃんの机にあった本だ…………」


 “孤悲”という言葉が使われた和歌が載る本が収められていた。


「はい!まひるくん、今日も“字幕”の映画ですっ!」

「あかるは古い映画が好きなんだね」

「んー……そういうわけでもないんですよ」


 そう言いながら紺色の入れ物のマジックテープをパリパリと開けていく。最近の映画は簡単に人が死んじゃうから、爆発したり、喧嘩したりするシーンが怖いから、と微笑みながら言い、それから“字幕”で観たい理由は俳優さんの声と台詞の抑揚が演技の勉強になるからと口許を三日月にする。頬を桜色にして「あと、まひるくんと一緒に古い映画も、たくさん観ていきたいから……」とビデオテープで顔を半分だけ隠した。


「一緒に観ていきたいって、どれくらい?」

「ひ、ひみつですっ!」


 今の言葉に深い意味はありません、と言いたげな態度だけど、ビデオデッキにテープを入れ終わった指が少し震えていた。幼稚園の頃からの想いが、あかるの中で現実味を帯びて、夢が夢でなくなってきているのだろうか。


 カーテンを閉めて部屋の灯りを消し、テレビがぼくらを照らす。白黒の映像が浮かび上がらせたパッケージを見ると1952年に作られた映画だと記されていた。物語は、まだ映画に声が入っていない“サイレント映画”から“トーキー”と呼ばれる役者達の声が入る映画に変わり始めた頃を舞台にした『雨に唄えば』という物語で、あかるによると元々はミュージカルらしい。


 主人公であるドンとコズモは小さな頃から、二人で舞台に立ちヴァイオリンを面白おかしく弾いてみせる芸人。夢は映画に出る事だけど、最初に出た憧れの映画の役は殴られるだけの役。だけど、徐々に大人気俳優になっていくドンは、子どもの頃から演技や音楽の教育を受け、舞台などを観て学び、厳格な親によって厳しく育てられたのだと、嘘を吐かなければいけなくなっていた。全ては完璧な俳優像、全ては完璧な男性像、全ては観客の夢を壊さない為、全てはドンとコズモの夢を壊さない為。リーナというパートナーがいるのも“誰もが夢見る完璧な二人”の為。ある日、たまたま街で出会った駆け出しの俳優であるキャシーは完璧なドンに対して、興味を示すどころか嫌いな所を素直に言い、ドンはそんなキャシーに惹かれていく。その後、映画会社のパーティーでトーキー映画が紹介されると、映画俳優たちはオモチャのようだと馬鹿にした。しかし、ライバル会社のトーキー映画『ジャズ・シンガー』は注目を集め、様々な映画会社がトーキー映画の撮影を開始する。ドンとリーナもその渦中に飲まれていき、ついには人気のある二人を共演させる事となった。ただ、問題がひとつ。リーナの唄声はリーナの美貌と合わないものだった。


「大人になったら見栄とかお金のほうが大切になっちゃうのかな……?」

「あかる?これは映画の話だから……」


「簡単に好きになるひとが変わっちゃったりしたら、どうしよう………」


 もしかすと、もうあかるにはあかるが望まない変化が起こっていて、正しくいたいはずの“恋の使い方”というものが、あかる自身に起こる事を想像させていたのかもしれない。


 ドンとリーナのギクシャクとした関係やリーナの女優として終焉が漂い始める。そんな時にドンはキャシーと再会をし、彼は彼女にいくつかの真実を打ち明けるのだ。雑誌に煌びやかに書かれたドンとリーナの記事は、全て宣伝用の仲だという事。それと………、


 ドンが持つ本物の恋心。

 嘘では無い、自分の為の恋心。


 キャシーに本物の恋心を告白するシーンで、あかるが「まひるくん、そっちにいってもいいですか?」と聞くから「うん」と短く答えた。きみは隣に座るのでは無く、膝をかばう為に伸ばして片膝を立てた、その脚の間にすっぽりと収まる。後ろから見る耳が真っ赤になっていた。きみの視線がわずかに開いたカーテンの隙間に向き「雨……」と、もうすぐ季節の終わる夕立を教えてくれた。映画は恋心を打ち明け、受け入れてくれた嬉しさのあまりに、雨の降る街で行く人におかしな目で見られながらも唄いながら踊っている一人の男がいた。


 ──── ぼくは雨の中で唄う、ただ雨の中で唄う。恋をする準備は出来ている。


 多分、外も映画の中みたいな大雨になる。映画のような水溜りが出来るくらいの大雨だ。恋心を伝えた男は水溜りに跳び、水を跳ね、街灯のポールに脚をかけて唄いながら、くるくると回った。その笑顔とはしゃぎ唄う姿は、ぼくの心拍数だったのかもしれない。あかるの熱い背中にひっつき、やさしく腕を回した。きみが「ひゃっ」と変な声で肩をすくめたから、二人で空に浮かぶ太陽みたいに笑ってしまった。窓を打つ大きな雨の音。だけど、ぼくらの心は晴れ晴れしているはず。何故なら太陽は心の中にあるから。愛する準備は出来ている。


 ぼくらはまた映画のエンドロールが終わるまで我慢が出来ずにキスをしていた。何度も唇を重ねる音と体温の隙間でエンドロールが流れている。


「あっ……あの……」

「うん?何?」


「まひるくん……?そのっ、さ、察してほしい、です。わたしに全部、言わせないで……っ」


 そう言われるまで“忘れているふり”と“分からないふり”をしていた。何だか、それだけが目的みたいで嫌われそうに思っていたからだ。


…………………………


エンドロールが聞こえない。

第十八話、終わり。

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