エンドロールが聞こえない。第十六話
突然、あかるが連絡も無しに、家にやってくるなんて、初めての事だった。夏休みの部活帰りに寄る時は、必ず、前日の夜か朝に連絡がくる。何か話があるのかなとも思ったけれど「何となく、寄っちゃいました」と、少しだけ眉を困った形にして笑うきみに悪い事、何かとても大切な話があるんじゃないだろうかと、頭の中を嫌な想像が駆け回る。いつものように続かない会話。たどたどしく、躓いて、転ぶように止まる言葉に気まずくなって、二人ともテーブルの上に置かれた冷えた麦茶の入るコップが、汗をかく様子だけを見つめていた。
「脚はどうですか?」
「いや……あかる、一昨日に会ったばっかだよ」
「あっ。そ、そう……ですねっ」
すると、きみが「隣に座ってもいいですか?」と、はっきりとした声で言った。ぼくが返事をする前に、きみはもう立っていて「うん、いいよ」と返した時には、隣で膝とスカートを綺麗に折って「部活、帰りなので……っ、汗臭かったら言ってください、ねっ?」と座る。
きりん、きりりん、きりん。
夏だからだろうか?西陽が入る部屋だから?あかるの、やわらかく暖色に光る肌にどきどきする。大きな瞳に、いつもより水分を溜めて見えるのはどうしてだろう。ゆっくり、か細い腕が宙を描いて、ぼくの曲げられない脚、固定した膝に、やさしく手を置き、目を合わせる。やさしいような、不安そうな表情で「まだ痛い…………ですよね?」と聞くから、正直に、夜は痛み止めを飲まないと眠れないと明かした。
「いたいの、いたいの、とんでいけっ」
子ども頃に怪我をしたみたいに、母さんがやってくれたそれをしてくれる、きみ。その真剣な横顔と、考えに考えて、ぼくの為に出来る事をする。それは、この先の未来に、あかるが、あかるの子どもにもこういう風にするのだろうかなんて考えてしまって、どうしてかはよく分からないけれど、苦しくなる。
「あ、あかる……っ。子ども……じゃないから」
「うん?……う、うん。そうだねっ……じゃあ!」
あかるは中学生と思えないくらいに小さい。制服もぶかぶかで、身長はぼくの胸の辺り。肩幅も狭いから抱きしめる時には、腕の中にすっぽりと収まってしまう。ちいさな舌で少し、そのふっくらとした下唇を舐めて、やさしく下唇を噛むのが、癖。おっとりしていて、マンガに出てくる女の子みたいにやさしくて、どこか抜けていて、とろんとした声と大きな目をしている。話す言葉はいつも敬語。そんな彼女が丸まると、さらにちんまくなる。雪原の白うさぎみたいな姿で、膝にやさしく「いたいの、いたいの、とんでいけ」と三度言って、三度キスをするのだ。
「飛んでいかないなら…………少しだけでも、まひるくんの痛いのを分けて欲しい」
「あ……いや。えっと………あかるに痛いのはっ、分けたくない」
「まひるくんはやさしすぎる。わたしはあなたを苦しめるもの全部を“半分こ”にして欲しい」
どうして、そんなにぼくの事を想えるの?どうして、そんなにどきどきするような事を平気で言えるの?
あかるが帰る時、母さんも玄関まで出てきて、にこにこと「藤原さん、またいらっしゃいね」と小さく手を振った。あかるが「はい、お母様」と返すと、母さんが「うちは男二人だから藤原さんみたいな女の子って、ため息が出ちゃうなー」とぼくの肩を軽く叩くのだ。それに嫌悪感を覚えて「も、門の外まで送るね!」と玄関から門までの飛石を松葉杖で渡っていく。
西陽で陰った門まで来ると、門の内側、扉のその角にあかるを手招いて抱きしめるのと同時に、きみも飛び込んできて、ぼくの胸に顔を埋めた。互いに同じ事を考えていたから、息が苦しくなるくらいに強く抱きしめ合う。
「ご、ごめん。ずっと……抱きしめたくて」
「ずっとなのはっ、わたしもですよっ」
二人で小さく笑って額を合わせる。どこからも見られる事はないと思う。けれど、もし、今、母さんが出てきたら困るくせに、キスがしたいと願って、それを二人で叶えた。
「あのっ、あのねっ?さっきの……さっきのもう一度だけ言って?」
「えっと……さっきのって?」
急につま先立ちで、ぼくの首元に顔を埋め、教えてくれた熱い息に乗った言葉をあかるの目を見て言う。
あかる、こっちにおいで。
はい、と、きれいな返事が鳴って、ゆっくり唇が近付けられる。
「わ、わたし……夜……眠れる…………かなっ」
あかるの表情を見て“こっちにおいで”なんて言葉の何が良いんだろうと笑うと、全然、痛くない“全力”で、ぽかぽかと叩かれる。
「お、女の子の夢……っ、みたいな!ゆ、夢なんですっ!」
この会話も笑い声も、涙も、ぼくらの思春期と呼ばれるものにある何にも侵されていない憧れと、何かに犯され始めた欲と、混じりっ気のない恋も、庭の桜は栄養にしていたのだろう。
夜になり父さんが布団を敷いてくれたから、お礼と、おやすみ、と言った。部屋に誰もいなり、しばらくすると聞こえてくる扇風機の羽根が風を切る音と蛍光灯の音。それらの音にしばらく集中して、仄暗い天井を見ていた。考えていた事の方が大きくて、目を閉じる事が出来なかったから、布団から出て押入れから一眞兄ちゃんの布団を出した。膝が使えず、不器用に時間をかけて敷く。父さんも、母さんも、ばあちゃんも、兄ちゃんの話をしないし、布団も敷かれない。だから、ぼくが布団を敷く事だけは止めたくなかった。ぼくがこれを止めてしまったら、本当に兄ちゃんは帰ってこなくなるように思えて、怖い。ここは、この家には、兄ちゃんの家族がいないと思ってしまうんじゃないかと不安になってしまう。畳の上では、松葉杖が使えないから不意に力を入れてしまって膝が痛む。でも、あかるが“いたいの、いたいの、とんでいけ”ってしてくれたから大丈夫、大丈夫だ。
「……はあっ」
上手く布団が敷けない。片脚が使えないだけで、こんなにも動けなくなる。兄ちゃんの居ない部屋で兄ちゃんが使っていない机を見た。そこに開かれたままの裏返された本。机の上に何かを置きっぱなしにするなんて珍しい。本を開きっぱなしにするのも珍しい。本にカバーが掛けられているのも珍しい。動かせない体と痛みで出た汗を拭い、一所懸命、机まで行き、本を手に取る。開いたページに記されていたのは『万葉集』に収められた和歌だった。
ぬばたまの 夢にはもとな 相見れど
直にあらねば 孤悲やまずけり
「夢では妻としきりに逢っているが、直接逢っているわけではないので、恋しくてならない………」
唄に付けられた現代語訳。確か、恋を“孤悲”と書く事があったと古文の先生が言っていた。孤独と悲しいと書いて“こい”。決して叶う事がない愛という意味。それでも諦める事が出来ない愛。その想いに昔の人は、この二文字を当てた。
ぼくとあかるの恋は完璧だったように思う。
“孤悲”とは違い、何かの物語になりそうな恋。
何かの作り物のような恋。
八月が終わると夏休みが終わった。夏休み中、走りたくなる体と痛みを我慢してリハビリを重ねて、松葉杖で歩ける距離も長くなった。病院に行く時間の代わりに、あかると行くつもりでいた花火大会も、少し遠い町の公園も行けなくなり、行けたのは、全部、ぼくの疲れない範囲。それでもいいと、きみは笑っていたけれど、本当にそれで良かったのかといえば、良くないに決まっている。治れば脚は動かしやすくなるとお医者さんに言われたけれど、すぐに運動が出来る訳じゃないよと呟かれ、何かが折れる音がした。
夏が九月に暑さを引き渡して、自由に動けないぼくの体力を奪う。徐々に少なくなる蝉の声が、何も出来なかった季節に焦燥感ばかりを残していく。
「あかる」
「おはよお、まひるくん」
今朝も、きみはそうやって、いつものとろけそうな笑顔で神社の鳥居の前に立っていた。一学期と違うのは、松葉杖を付いて引きずり気味の脚に悲しそうな顔をする事だけだ。
「行こう、あかる。遅れるよ」
いつも、そう声を掛けて、きみの視線を逸らし、ぼくもあかるの痛みから目を逸らしている。痛みを分けて欲しいだなんて、きみは言う。ぼくには、そんな強さは無いように思う。もしかしたら、きみは…………。
「うっす、おはよー関口。鞄、持つよ」
「悪いね、半井」
学校近くで待ってくれるようになった半井が、鞄を持ってくれるのが習慣になった。その分、彼は朝練を早く切り上げて、いつもの場所に来てくれている。それもまた、何か、ぼくのなかで音を立てていくけれど、その正体は分からないし、半井の事を拒んで困るのは、ぼくだ。
ひとのやさしさは、いいことにしかつかわれないとおしえられているから、いやなかおをしちゃいけない。
体育の授業は半井とあかるのクラスと、ぼくのクラスが合同にするのだけど、突然、半井が「側からみているなんて辛いよな」なんて、呟く。
「でも休むしかないから」
「じゃあさ、男子がグラウンドの時は、女子がプールだろ?水着、見放題じゃん」
「だっ、だめですよっ!」
こんな男子の馬鹿話に、頬を膨らませて「ぜったい、だめですっ」とまで言うあかるに、ぼくと半井は目を合わせた。半笑いの半井が遠回しに、残念だったな、と言い、ぼくは「あかるの水着姿、楽しみにしてたのになあ」なんて言って、からかう。あかるの目が「えっ、え……、えっ」と、ぐるぐると回り「わ、わたしなら……みっ、見てくれてもっ」と言うのだから、こっちがやられてしまう。だから、すぐに冗談だと伝えると、飲み込むのに時間がかったきみが「まっ、まひるくんはいじわるだっ。半井くんはえっちだ!」と言った。
「えっ?おれ、何も言ってないけれど!」
「だめです!まひるくんに良くないことを教えました!」
きみが顔を真っ赤にしたまま、ふんす、と、半井だけを怒るのだから、また笑ってしまう。
本当に……、本当にきみが想うぼくは“ただの良い人”なんだね。
…………………………
エンドロールが聞こえない。
第十六話、おわり。
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