エンドロールが聞こえない。第十五話

 入院三日目の午後。重たそうなリュックを背負って、一眞兄ちゃんが面会に来てくれた。ぼくは松葉杖に手こずって、上手く前に進む事が出来ないから、結局、兄ちゃんに車椅子を押してもらう。照れ笑いをしながら「ずっと練習しているんだけど、なかなかバランスを取るのが難しくて」と手のひらを開いて見せると「マメが出来ている。眞昼は何でも頑張るね」と笑ってくれた。


「兄ちゃん………久しぶり、だね」

「眞昼が起きている時間に、家にはいないからね」


 中庭の木陰にあるベンチに座り、久しぶりに聞く兄ちゃんの声と最後に聞いた時の声を重ねていく。兄ちゃんは、ぼくが敷いている布団で寝ていると言って「いつも、ありがとう。助かっているよ、眞昼」と、微笑んだ。もし、家で寝ているなら布団は片付けられているはずなのに、そんな嘘を吐いてまで笑ってみせる。兄ちゃんは掴み所が無くて、飄々としていて、何を考えているか分からないから、ふらっといなくなっちゃったんじゃないかって、毎日、不安で怖くて仕方がないんだ。猫が好きでしょ?兄ちゃんも猫みたいな人だから、いつの間にかいなくなるかもしれないって、そう思っているんだよ。


「藤原さんとは仲良くしているかい?」

「え……あ、うん。昨日も来てくれたよ」


 兄ちゃんには、あかるの事で話したい事と聞きたい事もたくさんあるから、どれから話せばいいのか、頭の中でこんがらがってしまう。


「真昼は“恋の使い方”を間違っていないかい?」

「え……っと」


 “恋の使い方”は教えてもらった通りに間違っていないよって、安心させたかったけれど、嘘を言っても悲しい顔をされるから本心と本当を伝えた。


「兄ちゃん。ぼくは“恋の使い方”に間違いとか正しいとか無いんだと思う」

「それはどういう事だい?」


「誰かを不幸にしないように色々と試して、間違いながら学ぶのが“恋の使い方”なんじゃないかな?」


 兄ちゃんが膝に肘を置いて手を組み、目を閉じて、穏やかな表情をする。


「眞昼の言う通りかもしれないね。人を好きになる“かたち”がたくさんあるように、“恋の使い方”もたくさんあるのかもしれない」


 すんなりとぼくの意見を受け入れた兄ちゃんに違和感を感じ、ふと『眞昼は“恋の使い方”を間違っていないかい?』という言葉が気になった。


 兄ちゃんが、眞昼“は”……って言った。


「兄ちゃんは、その……………“恋の使い方”を……」

「そうだね。間違っているのかもしれない」

「彼女がいるの?」

「彼女………という言葉が正しくはないけれど、共に居てくれようとする人だよ」


 彼女という言葉がって、まだ彼女じゃないのかな。まだ、ちゃんと付き合っていなのかな。それから兄ちゃんは、ぼくと違って“良い子”ではないから、家でも呆れられているだろうと微笑んだ。


「兄ちゃんが良い子じゃないって、そんな……」

「眞昼?」


「真昼は家族の大切なものを並べていった時に、自分が何かより順番が下だった事を考えた事はあるかい?」


 家族の大切なものを並べる……。家族の大切なものは家族全部だ。順番なんてないでしょ。そうじゃなきゃ、家族でいる意味は無いんじゃないの?兄ちゃんは父さんか、じいちゃんに嫌な事を言われたのかな。だから、家で寝てなくて、一緒にご飯を食べないのかな。


「喧嘩………してるの?」

「喧嘩という覚悟があれば、まだ楽かもしれないね」


 それから兄ちゃんは、その話を終わらせるように楽しい話をたくさんしてくれた。兄ちゃんは、いつもじいちゃんや父さんの事を気に掛けていたけれど、よく考えると、じいちゃんと父さんが兄ちゃんの事を話していた事って、少ないような気がする。


「はいっ、どうぞ!」


 夕方、面会時間が終わる四十分前にあかるが会いに来てくれて、今、にこにこと腕を広げている。


「えっと?あかる、それは何?」

「ぇ……っと。よしよし……しよう………かな…って……」


 あかるの瞳が大きく開かれていって、言葉の後半に向かって声が小さくなる。そのあかるらしくない大胆な姿で、顔だけじゃなく、首や耳までも真っ赤になっていくのだから、可笑しくて、つい笑ってしまった。


「うううっ、まひるくんひどいよお」

「ふふっ、くっくっく!ご、ごめん!」


 今日もあかるのやり方で、ぼくを想い、何かしようとしてくれていた。きっと、きみがしてくれようとしたのは、これなんだろうと、ぼくも顔と耳を真っ赤にして、ゆっくりとやわらかな胸に甘える。


「く、苦しかったり、痛かったりしない?」

「まひるくんがやさしく預けてくれているから、大丈夫」


 小さな手で頭を撫でながら伝えてくれる、気遣い。どうして、あかるは人の良い所ばかり見付けるのが得意なんだろう。もっと、あかる自身の良い所にも気付けばいいのに。


「え……っと!ま、まひるくんっ!」

「あっ、苦しかった!?」

「ちがうっ、そのまま!そのままでっ!」


 そう言って頭を撫でていた腕で、ぎゅっと頭を抱え込まれた。いや、えっと、それはちょっと、やわらかいのが………こ、困るのだけど…………あかるのやわらかさから離れるように「えっと、何?」と、すごく早くなった心臓音を悟られないように、眉をひそめる。ぼくと同じように真っ赤になるあかるが「えっと、あのお、えっとお」と歯切れが悪く、目をきょきょろさせる。


「あかる?何かあったの?」


 ぴくっと固まる、ぼくの彼女。そして、


「何かあったんじゃなくて、何かあってほしい……」


 まひるくん、わたしに触れて下さい、と、卵が割れないように抱え込むみたいに、ちいさな身体、全部で包み込まれた。だから、そうされると……あかるのやわらかさが………ちょっとね、困る、から。


 ぼくより小さな心臓が強く鳴る熱い体温の中から、いつも見下ろしている顔を見上げる。真っ赤な顔にある口元が、気まずそうに下唇をちいさく舌で潤し、やわらかく噛む。たくさんの水分と光を溜め込んだ瞳があったから、そのまま手を取って顔を上げた。あの“映画が観れなくなった日”より、少しだけ上手にキスが出来ていたならいいと思う。まだ、ぎこちないとは思うけれど、映画みたいな素敵なキスと同じだったと思うんだ。


「あかる?“何かあった日”になった?」

「……んっ、うんっ。なっ、なりましたっ!ありが……とお……ふっ……」


 のんびりとした”ありがとう”を伝えられた時に、少し無理にキスをした。ぴくっと力の入ったあかるの身体が溶けるみたいに、だらんとなる。とろけそうな笑顔をしたから、それをずっと見ていたいと思う。ぼくの“恋の使い方”は間違っているかもしれないけれど、あかるの笑顔を見ていたいと思って選んでいけば、不幸せにならない自信は……きっと。


 病院を退院した帰り道に、じいちゃんの入院する病院に寄ることになった。母さんが「疲れていない?大丈夫?」と聞くのだけれど、松葉杖の練習以外は動いていないから疲れていないよ、と、無理して笑うしかない。


「眞昼!」

「…うん。ちょっと日にちが空いちゃったね」


 前に来た時と同じで、看護師さんに車椅子を押されてきたじいちゃんは、少し痩せて白くなっているように見えた。それなのに「眞昼、脚は大丈夫か?無茶をせずに、しっかり治すんだぞ」と、ぼくの心配ばかりする。だから「大丈夫だよ。しばらくは松葉杖で遊ぶから!」と、また無理に笑うしかないんだ。


 病院と駐車場の間にある散歩道。まだ午前の白い光の下でベンチに腰を掛ける。じいちゃんはベンチの隣に車椅子を止め、ぼくの頭を撫でてくれた。その“骨”を感じるごつごつとした手のひらから感じる温かさ。


「眞昼は……頑張るから」


 みんな、同じ事を言うね。頑張るって、何だろう。ぼくは好きな事をしっかりとしたいだけだ。兄ちゃんに『勉強は辛くて、嫌いかもしれないけれど、ぼくはやっておく事を勧めるよ』と、きっと役に立つ事なんだって教えてもらったからやっているだけだ。兄ちゃんは嘘を吐かないから頑張ってやれているんだよ。


「ねえ、じいちゃん。兄ちゃんと仲が悪いの?」

「………それは、一眞に聞いたのか?」


 眞昼っ、と、母さんの小さな声が聞こえる。ぼくとじいちゃんは同じ高さくらいの目線だったけれど、目を見ていると、じいちゃんが目を逸らした。


「一眞は我儘が過ぎる」


 あんなに家族思いで、いつも家族の為に動いている兄ちゃんが我儘と言われる。頭の中で『ぼくは眞昼と違って“良い子”では無いから』と言った兄ちゃんの声が聞こえた。






「関口の家に相応しくない」


 家族に相応しくないだなんて言葉を聞くなんて………………。息が、ひゅっと音を立てて、喉が締まり、次の呼吸が出来なくなってしまった。


「眞昼。あかるさんとは喧嘩してないか?」


 どうして?どうして、今、あかるの話をするの?ぼくは兄ちゃんの話をしていて、まだ終わっていないよ。


「喧嘩……してないから、またあかると来るよ」


 目一杯笑ってみせた。家族が、家族の大切なものを並べていって、自分の順番が…………なんて言っていた兄ちゃん。首が、喉が、ぎゅっと絞まったまま息が出来ない。


 家で過ごすだけの夏休みは凄く暇だった。小さな頃から友達と遊んだり、サッカーをしていたし、部活に入ってからも怪我をするまで、夢中になって走り回っていた。それが急に出来なくなったから何をしていいのか分からない。やれる事といえば、家の近くを松葉杖で散歩したり、長い廊下をいつもより丁寧に磨いたり、苦手だった本を読んでみたり、そんな事ばかりだ。病院から家に帰ってきて三日目の夕方、玄関の床を磨いていると戸の外から小さな何かが聞こえる。玄関戸の磨りガラスに映るちんまい影と、気を使い過ぎたノックが、ほとんど鳴っていない。全く、らいしいなあ、と思いながら「開いてるよ、あかる」と招く。


「あっ、あ……まひるくんっ、こんにちはっ!」


 玄関戸をほんの少し開けて、その隙間からぺこぺことしていたから「あかる、おいで」と呼ぶと「……ゃっ!?」みたいな短い声をあかるが出したと思う。その不可解な声に「な、何っ?」と聞いても大きな目を開いたまま固まっているのだ。


「まっ、まひる……くんっ!いまのっ!いまのっ、もう一回言って!?」

「今の?今のって何?」


 あかるは眉をひそめて、目を強くつむり「んんーっ!」と両手を握りぶんぶんと振るだけ。


「眞昼?お客様?」

「あ。母さん」


 今度は、ぴしっと固まったあかるの姿を見て、母さんが笑い「藤原さん……ね?いつも眞昼がお世話になっています。病院で少し話せたけれど………あれ?もしかして、藤原さんは眞昼と幼稚園が一緒……よねっ!?」という一言に「は、はひっ!あ!違っ!はぃっ!」と緊張という言葉を声にした姿を見て、またぼくと母さんは笑ってしまった。


 この時、母さんは息子の事を六年間想い続けた女の子が、彼女になったと聞いていたらどう思っていたのだろう。

 案外、付き合う事に反対したのかもしれないなんて思う時がある。


…………………………


エンドロールが聞こえない。

第十五話、おわり。

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