エンドロールが聞こえない。第十四話
その日は、突然だった。
夏空に浮かぶ雲が厚みを増していき、ぐんぐんと湿度を上げていく。乾かない汗は拭っても、拭っても、じわりと肌の表面にしがみつくから不快だ。わんわんとつんざくように鳴く蝉。ひんやりと誰もいない校舎。わいわいと、皆で、ユニフォームに着替えて階段を降りていた。ふと、一所懸命に声を出すあかるの姿が浮かぶ。半井に「悪いっ、忘れ物っ!先行ってて!」と嘘を吐いて、つま先の向かう方向を変えた。体育館に向かう渡り廊下の先に演劇部の準備運動が見えてくる。声をかけたわけじゃないのに、あかるがゆっくり振り向き、目が合って、互いに小さく手を振り、はにかんだ。
発生練習が始まると、あかるだけを見ていた。本当にあかるは変わったと思う。とろんとしていて、サッカーボールを拾おうと屈んで、背負っていたリュックから滑り落ちた教科書やノートで頭を打つ。それだけでも大惨事なのに、ただ、ばさばさと落ちていく教科書を眺めているくらいにゆっくりしている性格。ありがとうの言い方が“ありがとう”ではなく、おったりとした“ありがとお”。そんなきみが自分を変えようと“演劇部にしか入りたくありません”なんていって訴え、人前で声を出す。六年間もぼくを想ってくれていて、今、ぼくらは恋人同士で、恋人同士がする色んな事にも一所懸命。夏祭り、菖蒲の浴衣姿はキスが欲しいとせがんだり、急にいつものあかるに戻ったりと、ころころと猫の目みたいに忙しい。
少しずつ変わっていくぼくらだけど、まだどうしようもなく、子どもでね。大人の力を借りながらでないと、力一杯さえずり、飛べない羽をバタバタとさせる事さえできないんだろうね。
「……よし。行こう」
グランドに降りると半井が「うい!」と肩を組んで来たから「あっついよ」と笑って突っぱねた。半井は「藤原さんが抱きついてきても、そんな事言わないくせに!」とふざけるから「“藤原さん”だから言わないんだよ!」と仕返してやる。前より少しだけ半井の目線が上を向いていて、曇天の空を青空のような表情で見上げていた。顧問の先生が笛を鳴らし、先輩が「おらっ、一年!走れ!」と叫ぶ。ミーティングで伝えられたのは、初めて一年生から三年生まで混ざって練習試合をするという事。ようやく全体練習試合に立てる。出るからには学年なんて関係が無い。あかるだって、あんなに頑張っているんだ。ぼくが頑張らないなんて選択は無いよ。何が何でも他の奴らに喰らいついて、喰ってやる。ぼくより少し上手い半井にも置いていかれたくない。レギュラーの枠から篩い落とされたくないんだ。そっち側には、絶対に行きたくない。
「関口っ!!」
左サイドから上がったボールを追いかけ、前へ走った。サイドを変えたボールの落下点には誰もおらず、オフサイドラインも確保出来ていたから懸命に走る。こっちで受け取って真ん中を突っ切って走り込む半井と、層を厚くするもう一人が上がってくるまでの時間を稼げばいいと考えていた。すると後ろに気配を感じた時には脚の速い奴に並ばれ、ほんの少し追い抜かれた時、ボディコンタクトなんて全くされていないのに圧を感じて、反射的に抵抗しようと脚の力の入れ方を、間違えた。
脚から嫌な音が、した。
激痛が走ったあと、転ばないように反対側の脚を出すなんて考えられなかった。速度が乗ったまま派手に転ぶ。転んだ痛みよりも脚の痛みの方が勝り、それ以外は何も感じなかった。
「コーチっ!関口がっ!!」
「大丈夫か!おい、変な音しなかったか!?」
「誰か!保健室か職員室にいる他の先生を呼んできてくれ!!」
顧問とコーチの声とみんながざわざわと集まる声。激痛に身体中が強張り、汗と涙が出て、のたうち回る。食い縛る歯に顎が痛んできて、首の筋がつっても尚、歯を食いしばった。学校中にいた先生が集まってきているようだった。何かをぼくに言いながら固い物を脚に当てて固定したようだった。いつの間にか救急車がやってきていて、グランドの中で赤く光る。
常に走る激痛とたまに走る酷い激痛で、意識が飛びそうになる。左右にいた人が、いつの間にか変わっていたり、灯りや天井が何度も変わっていった。冷静に周りを観察できた時には、病院にいた。何度も同じ色の部屋を行き来して、何度か大きな機械がある寒い部屋で脚の写真を撮ったみたいだった。学校から連絡を受けたという母さんと検査結果が出るまで、ベッドの上で脚を吊られたまま話をしていたんだけど、何を話したのか覚えていない。
「関口眞昼くん?診察室に行けるかな?」
「……はい」
「看護婦さん。すみませんが車椅子を……」
母さん、ぼくは松葉杖で充分だ。車椅子なんて大袈裟な事を言わないで。どうしてか分からないけれど、母さんの言葉に酷く苛ついていた。結局、松葉杖は練習しないと難しいから、危ないからと看護士さんに車椅子を押され、診察室に入る。
光る壁に浮かぶ黒い写真。
お医者さんから伝えられたのは、怪我をしたのは膝だという事だ。そんな事は分かっているよ、膝から嫌な音がして、膝が痛いんだから。どんな怪我をしたのか勿体ぶるように、お医者さんがゆっくりと説明し始める。
ぼくの年齢くらいの成長期は伸びる骨に対して腱や筋の成長が合わない事があるらしい。その不安定な身体の状態で、大きな負荷をかけて痛めてしまったらしい。腱は切れていないものの、かなり怪しい状態。痛みが引いて安定するまで練習どころか、軽く走る事も駄目らしい。みんなはすり減るくらいに練習をしているのに、そんなに休んでいたら篩にすら乗せてくれなくなる。
「無理をするのは止めた方がいい」
「どうしてもですか?」
「君は走れなくなりたいかい?もう選べる年齢だ。覚悟をしなさい」
「分かりました」
悪いのは自分の身体に向き合ってケアをしてこなかったぼくだ。それなのにどうして、お医者さんに………殺意が湧いて、身体の中が火傷しそうになるくらいに強く思うんだろう。
隣で母さんが何か話している。ぼくは病院の天井を見上げていた。何だろう、これ。本当に、何?目を閉じて暗さに慣れていき、やがて、眠りに落ちるように世界が閉じていく。次に目を覚ましたのは、何人かの声が聞こえたからだった。病室の入り口を見ると母さんがぺこぺことしていて、その向こうにいる顧問とコーチ、そして、半井。
「関口、痛むか?」
「あ、いえ……。いや、はい。麻酔打ったのに、少し」
そうか。と、ぼくの手を握ったコーチの後ろで、今朝、曇天の下で晴れやかな表情だった半井が、今は冬のような表情で口を一文字にしている。
「少しの間の我慢だ。しっかり治して……」
「ぼくは置いていかれますか?」
「……………脚の方が大事だろう?」
「そう……ですね」
コーチは否定をしなかった。ぼくは篩にすら掛けられない。半井が何か言おうと「あ、あのさ……っ」と声を出した時、廊下からぺたぺたと音がして、そっちに気が引かれる。だって、この音は、
「まひるくんっ!!」
涙をいっぱいに溜めたあかるだからだ。
「あかる、静かに。ここは病院だよ」
はっとなる顔、部屋にいるみんなを見て、ぺこぺこと頭を下げ「ごめんなさぃ、ごめんなさい。お邪魔しますっ」とあせあせとするのだ。だから、あかる……謝るの、そっち?
みんなが気を使って病室で息をしているのは、ぼくとあかるだけ。きみは、ぼろぼろと大粒の涙を落としながら、それでも姿勢良く来客用の鉄パイプでできた丸椅子に座り、俯かずにぼくを見ている。多分、口を開くと泣き声が出るから一文字なんだろうね。本当に、きみは、やさしい。ずびずびと鼻水まで出して我慢する始末に、気持ちが、少し、綻ぶ。
「大丈夫だよ、あかる。二ヶ月くらい運動出来ないだけだ」
「……ひぐ。ご、ごめんなさい。まひるくん、ごめんなさい」
「えと………何が……?」
「サッカーしている所を見た事がないって!言って、ごめんな……さい!」
堰を切ったように大洪水を起こす涙と鼻水。一所懸命押し殺す嗚咽。きっと、あかるは、この先の今まで通りに運動が出来るまでの辛さを想像して辛くなっている。ぼくに辛さや重さを作らないようにしたんだろう。でも……それは、あかるの勝手じゃないのか?あかるが、楽になりたいだけでしょ?だって、まだサッカーが出来ないって決まった訳じゃ……、いや、そうお医者さんが遠回しに………覚悟しろって。
「……………もうサッカー……………………出来なくなるかもなー」
ふっ!大きな塊の息が出て、身体の中から何かが飛び出しそうになったのを我慢して窓の外を見た。熱くなっていく目の奥と鼻の奥、肺や身体と耳とか身体中。ふっ、……う、ふぐっ……!と、少しずつ熱い息が漏れていく。きっ、と、小さくベッドが軋む音がして、背中と頭に知っている温かさを感じた。
「な……っ、泣いて、いいとっ、思うよっ?」
「あ、あかる?ごめんっ!ごめん!ぎゅってしててっ!」
抱きしめられた安心感に涙が止まらなくって、か細い腕に落ちていく。あかるがぼくの頭を抱きしめて、後ろから頭を撫でてくれた。
「まっ、まひるくんは!いつも……っつらいの、がまんする!よくないっ!」
「しっ、仕方がないんだ!強くいないと……っ、みんなに迷惑かけて……きたっ!」
「まひるくんっ?こっち向いて?」
抱きしめられるあかるのやわらかくて、あたたかい、すこしまるっこい胸の中に抱きしめられる。あかるが「よしよし」と言って、頭を撫でてくれるのだけど、その頭にあかるの熱い涙が落ちてくる。
「ち、ちいさいけどっ。わたしの胸が育っていて良かったっ。こうやって、まひるくんを、少しっ、でもっ、埋められる胸に育っていてっ、良かったなあっ」
ぼくはあかるの胸の中で大声を出して、あかるもぼくの頭に大粒の涙を落として、ふたりで抱き合いながら大泣きをした。
…………………………
エンドロールが聞こえない。
第十四話、おわり。
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