エンドロールが聞こえない。第十三話

エンドロールが聞こえない。

第十三話


…………………………


 夏祭りの出店で、あかるはまずラムネを飲みたがった。もう、こぼしませんよ!と得意げに氷水に浸かった瓶を取って笑う。ぼくは少食のあかるのために分けられるよう焼きそばをひとつ、コロッケをふたつ買って、人通りの少ない境内の端にある公園へ向かった。すると、そこに“指導”という腕章を巻いた長野先生が立っていて、お?という声とともに意地悪な笑みを浮かべる。


「何だ、お前達。そういう仲だったのか」

「せん、先生は何しているんですか?」

「んー?お前達を“指導しろ”って言われてんの」


 何だか嫌な言い方だ。やっぱり、長野先生の事は苦手だと眉をひそめると先生が「まあ。遊びにまで学校が口を挟むのは、無粋だと思うがなあ」と大きな懐中電灯で肩を叩いて「俺も“早く帰れ〜”とか“迷惑かけるなよ〜”くらいしか言ってねえし」とまた意地悪な笑顔で気怠そうにした。


「藤原の浴衣。よく似合ってんね」

「っえ。あ、はいっ。ありがとうございま……す………」


「関口が一緒なら心配無ぇと思うけど、何かあれば、すぐに近くの大人か俺に言えよ」


 それから先生は「ほらほら行った行った。早く散れ」と怠そうに言って、別の先生が戻ってきたら、また面倒臭い話を聞かされんぞ、なんて、嘘か本当か分からない事を言って、手で追い払うようにした。


「長野先生……いい先生ですよね」

「そうかな………」


「まひるくんは好きじゃないんですか?」


 好きじゃない。一眞兄ちゃんの真逆の人だ。へらへらしていて、言葉に重みがないように思う。不真面目な感じもするし、ぼくらを見下して、嘲笑っているように接してくる。だから、好きじゃない。


「わたしは好きですよ」

「長野先生のこと、好きなんだ」



「あっ……あ!ちがっ!違いますからね!わたしが好きなのは、まひるくんですよ!!」

「じゃあ、長野先生は?」

「それは!先生としてっていう好きです!」


 まひるくんは、いじわるだっ、と、ぽぽぽぽ、という炊ける音がしそうな赤くなる顔。結った髪が崩れないように、頭を撫でて「ありがとう。ごめんね、あかる」と謝ると、すぐに、やさしい笑顔になるきみ。


 こんな単純でいて、大切。優しい言葉を過剰に付け加える事なく使えていた夏だった。


 公園のブランコの近くにある階段に、あかるの浴衣が汚れないようにハンカチを敷いた。でも、何度もあかるは「大丈夫ですっ、本当に大丈夫ですよ!ハンカチが汚れちゃいますからっ、ねっ?」と拒む。でも、そんな事より、浴衣に描かれた菖蒲の花は汚しちゃいけないものだと強く思っていたのだ。


「いや……汚したら、あかるのお母さんに叱られるよ」




「そう……ですね」


 あかるの弱々しい声を消すように、ぼくらを呼ぶ声が響き、声の主を探すとあかるの友達である斎藤ちひろが大きく手を振っていた。あかるが「ちぃちゃん!」と軽く跳ね、階段を降り斎藤の手を取る。斎藤はシャツに短パンと動きやすい格好で「食べ回りたいからね。こういう時は機動力よ」と笑い、あかるの周りを一周すると「あかる、綺麗だね」と、ぼくを見た。


「ぃ……やっ。たまたまっ、たまたま……だからなのっ」

「そーお?関口に見せたかったんじゃないのっ?」


 真っ赤になってうつむき動きが止まってしまったあかるを見て、ぼくと斎藤は目を合わせ、苦笑いをする。


「あんまり、あかるをいじめないでやって……」

「相変わらず、関口は保護者みたいだね」


 三人で階段に並び座って中学校に入ってからの話をしていた。どうしてか分からないけれど、だんだん小学校のやつらとは疎遠になっている。斎藤は同じ水泳部の二年生の先輩に恋をしているようで、ぼくは焼きそばを頬張りながら、あかるは前のめりに両手を握って「うんっ、うんっ」と聞いていた。斎藤が目を輝かせる好きな人の名前は、ぼくが知っていた名前じゃなかった。中学校に入学したぼくらの毎日に、少しずつ何かが忍び込んできて、いつの間にか当たり前として、そこにいる。何となく忙しくて、少し世界が広がったような日々。目を輝かせるあかると斎藤の会話に出てこない名前を、意を決して聞いてみた。


「ねえ?斎藤。佐藤ってどうしているか分かる?佐藤空だけど」

「覚えているもなにも。いつも席が私の前だったじゃん」

「空の事……何か知らない?」

「ん?喧嘩でもした?」


 いいや、そんなのじゃないんだ、と、彼女も空の事を知らない事に少し悲しくなってしまった。空はさ、お前の事が好きだったんだよ。小学校の時、二人のあいだに変な噂が流れたときだって、仲良くしてたじゃないか。もう斎藤のなかに空はいなくて、水泳部の先輩がいるんだなと考えながら階段の一段目を見ていた。ぼくの左脚にちょこんと乗せられた、ちいさな手。あかるが心配そうにぼくを見ていた。


「佐藤くんの、お家には行かないんですか?」

「………何だか、うん。遠い……って変だけど」


 家が遠いって同じ校区だ。しばらく遊んでいないからって言っても半年も経っていない。だけど、何だか足が重いんだよ。多分、あいつが入れなかったサッカー部にぼくが入れて、その辺りから何となく距離を開けられているように感じていたからだと思う。


「心配しているなら会っておかないと……伝えられ……」

「あかる?何か知っているの?」


「っあ、ちがう。そ、そういう事もあるっていう話ですっ」


 あかるの目が潤んでいて、少し辛そうだったから膝に置かれた手を握っていた。その手を覗き込むように、斎藤が見て「ふーん。そっか、そっか。あかるに話は聞いていたけれど、ほんとうに良い感じなんだねえ」と茶化す。


「ううっ、ちぃちゃん、はずかしいよう」

「いや……斎藤は何もしてないでしょ。手を握ったのは、あかるだし……」

「関口ぃ?あかるって、ほんと、この調子でしょ?」

「まあ………そうだね」


「大切にしてね。片想い、六年なんだよ」


 六年間。あかるがぼくを想い始めた幼稚園からの時間。


 電柱に点った灯りが、ぽつぽつと、あかるの家まで照らして、ぼくらはその光をなぞるように歩いていく。しっかりと握ったきみの右手、いつもと結いた長い髪、いつもとは少し違うけれど、二人は上手く歩けている。去年の夏に待ち合わせをした公園に差し掛かると、あかるが急に「こ、ここまででいいですっ」と、言った。きょとんとして、家は近いと言っても、まだ距離はあるからと言っても、あかるはぶんぶんと頭が取れそうなくらいに左右に振った。


「いや、でも。まだ家まで少しあるから」

「でもっ。楽しかったから、あ、えと、ひとりで帰れますからっ」

「えっと、あかる?ぼく、何かしちゃった?」


 また、ぶんぶんと頭を振って、それから、一歩だけ、とんっ、と、ぼくに近付き、きゅっとシャツの胸元を握ると、大きな瞳で見上げられる。


「き、キ……キスを、ください」

「……あ、え?」

「まひるくんのキスを、ください」


 一気に跳ね上がる心拍数と体温。それはシャツを握ったあかるの手からも伝わっていた。何故だか、その心拍数と体温が少しの差もなく同じだといい、だなんて、変な事を考え、きみの頬に触れる。ぴくっと肩をすくめ、目をぎゅっと閉じるきみのちいさな唇に、重ねた。


 背の低いあかるが、ぼくの首にぶら下がるように腕を回すから、それが苦しくて、腕をあかるの背中に回して、抱き上げるように力を入れる。短く熱い息が顔に当たって、すとん、と、目一杯、踵を浮かしていたきみの熱い顔が胸元に埋められた。


「大好きなんですっ。本当に大好きなんですよっ」

「うん。斎藤も言ってたね。六年間だって」

「そう。だから、今日も、毎日、いつも夢みたいに思えるの」


 夢、だなんて、あかるらしい大袈裟な表現だなと思いつつ、どこか六年という時間と半年も経たずに疎遠になった空との時間が、じゅくじゅくとした嫌な傷口になっていくように思えて、悪寒がした。


 その夜、あかるは公園から一人で家まで帰った。あなたと歩いていたら身体が冷えない、熱いままだから、だなんて、どきっとする映画のような言葉を言ったから、公園の前でもう一度キスをして別れた。


 その日は突然だった。

 雨が降りそうな夏休みの部活動。雲で覆われているのに酷く暑くて、乾かない汗が滲み出る。同じく部活があるあかるを“さよならの神社”の前で見つけた。


「まひるくん、おはよお」


 溶けてなくなりそうな“おはよう”も、笑顔も、キスとキスの前と変わらない。そのちんまりとした小さな背丈も変わらない。でも、少しだけ余計に意識してしまう“きみのからだ”。手も繋いで、ぎゅっと抱き合って、キスも、身体にも触れてみた。次は………、


 母さんが言った“その時が来たら”が頭から離れない。

 ぼくらは、ぼくは“恋の使い方”を間違っているのかな。これが普通なのかな。


「ま、まひるくん?その……っ、ご、ごめんなさぃ」


 突然、あかるが謝るから首を傾げ「ん?なに?」と気の抜けた声が出てしまう。


「あのね、うんとね………き、キス、せがんじゃって、はしたなかった。あの……っ、嫌いにならないでっ」


 そんな可愛いらしい事を謝られたから笑ってしまった。あかるの頭を撫でて「嫌いになんかならないよ」と言うと、ぱあっと明るくなる表情。だから……、


「あかるもあんな事が出来るんだなあって」


 そう意地悪を耳元でささやく。それなのに、いつもの「ひゔ」という声が小さく聞こえた後、瞳をうるうるとさせて「まひるくんは意地悪です」と言った声が、いつもより。


 ぼくらはどうしようもなく、子どもだったから。少しの違いが大きな違いのように思えて、期待したり、怖がったり、毎日が目まぐるしくて仕方がなかった。今、思えば、どうして、そのひとつ、ひとつを大事にしなかったんだろうと思う。


 最初は、一番始めの、一度なのに。


…………………………


エンドロールが聞こえない。

第十三話、おわり。

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