エンドロールが聞こえない。第十二話

 今夜も家の中には、沈んだ空気がいる。長い廊下や畳の上を這っていて、じいちゃんと兄ちゃんがいない空間を埋めようとしていたのだろうか。父さんは難しい顔をする事が多くなっていた気がする。母さんは、その逆で明るく話すようになっていた気がする。ばあちゃんは、ため息を吐く事が増えていたような気がする。ぼくは家の中にいる違和感に気付きながら、自分の感情に手一杯だったのだ。


 お風呂であかるの胸やお腹、頬に触れた手を眺めていた。不思議。すごく不思議だ。あんなにどきどきするやわらかさが、あかるの身体にあったのに上手く胸の膨らみの大きさが思い出せない。


「頭の奥にはあるのにな………」


 頭の奥の奥、一番後ろにある白くて、少し桃色の膨らみとひどく激しい興奮。触れ合った時、二人の息づかいは同じだったから、きっと、ぼくらは“恋の使い方”を間違ってなんかいやしないはずだ。あかるの家から帰る道で、ずっと、そう言い聞かせて、何か大きなものに追われているような恐怖を紛らわせていた。そんな思いをしたばかりなのに、頭の奥の奥にある興奮と白く丸い膨らみだけを引っ張り出してきて、身体の中に溜まって、毒していく“あれ”を一生懸命に外に出す。


 ぱたぱたとタイルに落ちるそれを見て、うつむき、前髪をくしゃっと握った。


 お風呂から上がっても、いつもより体が熱くて、ぼうっとする。冷蔵庫から出したサイダーをコップに注いぎながら覗く、水よりも透明に思える液体。サイダーの中をゆらゆらと上がっていき、ぱちぱちと弾ける炭酸がいやらしく感じるのはどうしてだろう。そんな事を考えながらコップを灯りにかざして見ていた。明日の準備をする母さんが「明日は早いのね?」と聞くから「うん」とだけ答えて、サイダーを口に含む。


「藤原さん」


 今日という日に母さんから出たあかるの名前に、サイダーが喉の変な所に入ってしまいむせてしまった。しばらく咳き込んだ後「っあ、あかるが、何っ?」とぶっきらぼうに言葉にする。ぼくの考えている事を見透かしているみたいに、母さんが微笑んだ。


「もし、藤原さんと“そういう事”になってもいいように、準備をしておきなさい」

「そ、そういう……事って、何…………っ!?」

「セックス。学校でも習っているでしょ?」

「そ、そんなの……っ!ぼ、ぼくらはまだ中学………わ、分かってるっ、よ!」


 しどろもどろになりながらも、声だけは小さくならないように答えているのが動揺している証だなんて、もう声にした時には分かっていて、心許なく、何故か不安になるからシャツの胸元を握る。母さんは真っ直ぐに目を見ると、二人の事が二人で守れるなら反対はしない、しっかりと二人の為に“避妊”の準備をしておく事、もし、その時に少しでもあかるが嫌がるようであればやめなさい、と、ひとつひとつの言葉を強く使って、エプロンのポケットから出したお金を握らせた。


「分からなかったら、お母さんが教えるから」


 あかると“そういう事”をする時が来た時の為に、薬局で買っておく為のお金。


「コンドーム。分かるわね?」

「……………うん」


 こういう事を母さんから聞くなんて、すごく嫌で気持ちが悪いな、と思いつつも、耳を傾けていた。あかるを好きで大切にしたいと思っているなら、しっかりと準備をしておくのも“大切な人を守る事”なのだと真剣な顔で言った後、早いなあ、眞昼がもうそんな歳かあ、と、笑う。


「………でも、ぼくは……ぼくらは、まだまだ子どもだよね?」

「どうかなあ?そうねえ。あと五年くらいは子どもと大人を行ったり来たりするんじゃないかな?」

「そんなの………なんか、ずるくない?」

「全然、ずるくない。大人になったみんなもそうだった。母さんを含めて忘れている大人が多いだけよ」


 母さんもキスとかセックスとか……そういうのを、ぼくらくらいの歳に知ったのかもしれないなんて考えると、急に気分が悪くなり残りのサイダーを一気に飲み込んで、弾ける泡と一緒に消そうとした。


 今夜も一眞兄ちゃんの布団を敷いたけれど、兄ちゃんはいない。どれくらい兄ちゃんの寝顔とやさしくて飄々とした声を聞きながら眠りについていないだろう。色々と話したい事と聞きたい事があるのに、いない。足の裏をくすぐる扇風機は独り占めしてしまえばいいのに、兄ちゃんの布団にも風が行くように首を振っている。蚊取り線香からする草のような匂い、火を点けるのにも慣れた。今年も夏が来たのに、何か足りない。兄ちゃんと何か。そういえば、まだ庇に風鈴を下がっていない。足りないと思っていた何かは、毎年、兄ちゃんが下げている風鈴の音だ。


 ひどく、ひとりの夜だ。昨日だって、その前だってそうだったのに、今夜は寂しくて仕方がないのはどうしてだろう。あかるとキスをしたからかな。あかるの、女の子の身体に少しだけ触れたからかな。胸が内側から締め付けられて苦しいから身体を折って丸くなり、タオルケットに顔を埋めて大声で名前を呼んだ。


 一眞兄ちゃんじゃなくて、

 あかる、って。


 手や身体中に残るあかるの体温と形。あかるが触れてくれた感覚。今頃、あかるもぼくを思い出しているのかな。身体に触れた感覚を追いかけているのかな。こんなに悪い事をしている気分になるのは、まだまだ、ぼくたちがどうしようもなく子どもだからなのかな。今夜も兄ちゃんはいない。どうしようもなく苦しいのに、何も話せない。どうして、家にいないんだろう。ずっと、そんな事を考えていたら朝になっていて母さんに起こされたから、いつの間にか眠りについていたんだと思う。


「っあ……ま、まひるくん、お、おはよお」

「……うん、おはよう」


 いつもの待ち合わせ場所、“さよならの神社”の鳥居から少し離れた短い橋の上で、あかると顔を合わせた。明後日から行われる夏祭りの準備で神社の前にはトラックが停まっていたから、背のちんまいあかるは危ないと思って場所を変えた。橋の上で挨拶をしたっきり、ふたりとも真っ赤になって互いの靴を見ながら固まる。意を決して顔を上げると、ちょうど、あかるも上目遣いに視線を上げるところだった。


「昨日はさ……っ」

「ひゃっ、い!ちがう!はい!」




「え、映画、よく観れなかったから……また、観たいね」

「っあ、あ…………っ、はいっ、はい!」


 その言葉だけなのに、何かが溶けたような気がして「行こう、あかる」と足元が軽くなる。夏の風が吹いて、あかるの長い髪とその先が軽くさらわれる。ぼくの歩に合わさるよう、きみが四歩跳ねて並ぶと、左手にちいさくて、やわらかな手が忍び込んできた。


「昨日はあかるが邪魔をしたから、映画がよく観れなかったね」

「ひゔ。ま、まひるくんはいじわるだっ」


 あかるの頭をくしゃくしゃと撫でて笑う。ぼくらは歩幅を気にする事なく、並んで歩けるようになっていた。


 夏祭りの朝は町がそわそわしていて、何度も小学生たちが路地をはしゃぎながら走っていく声が聞こえた。今朝も家に兄ちゃんはいない。それどころか、布団すら敷かれたままだ。蝉がわんわんと鳴いていて、ぼくが下げた風鈴が鳴る。


きりん、きりりん、きりん。


 夏祭りは神社の鳥居から本殿まで伸びる細い参道に屋台がたくさん並ぶ。だから、鳥居の前や付近の道、近くの橋は人が多くて、あかるを見つけきれないと思い、夕方五時前にあかるを迎えに行く事にした。ざわざわと人が溢れる道を歩きながら、今朝、一眞兄ちゃんが家にいなかった事、誰も兄ちゃんの話をしなかった事、それを誰にも聞けなかった事を考えていた。兄ちゃんは飄々としていて、猫みたいな人だから……いつの間にか、どこかに行ってしまいそうな人だから心配なのに、少しずつ慣れてきている自分がいる。


 頭の上、まだまだ明るい夏の空にもくもくと育ち続ける積乱雲と、そのはるか向こうでぼくらを閉じ込めようとしている大きなお椀が、今もいる。


 白いタイルが貼り付けられた門柱のチャイムを押して、あかると待っていると少しだけ玄関のドアが開き隙間から顔だけがひょこっと出てくる。何だろう?と首を傾げていると、あせあせと小動物みたいにしながら、きみが言うのだ。


「あっ、あのっ?ぜ、絶対に笑わ、笑わ……ないで、くださいねっ!?」

「笑う?どういう事?笑わないけど?」


 淡い菖蒲が描かれた浴衣をまとうあかるが、門から五段上の踊り場でもじもじと立った。恥ずかしそうにするきみに何も言えず、背の低い門の扉に手を掛けて、ただ、見ていた。


「変…………じゃ、ないですか?」


ごくっ。


 大きく喉を鳴らし、口の中に残っていたわずかな水分を渇いた喉に送り込む。


「変なんかじゃない。綺麗だ」

「ひゔ」


 最近、よく言うその声は何?あかるが両手で顔をおおいしゃがみ込むから、門の扉を開けて階段を昇る。本当に変じゃないですか?似合ってなかったら言ってくださいね、とか、そんな事を言うきみの手を取り引っ張ると顔を近付けた。


「本当に、似合っているから。すごく綺麗だから」

「信じますよ、信じますからねっ」


 あかるは、ぼくと一緒に歩く時に、ぼくが恥ずかしい思いをする格好はしたくないんだと教えてくれた。そんな恰好の良い事を言うあかると歩いて恥ずかしいわけがないでしょ。手を繋ぐ左手にあかるの熱くて、ちいさい右手が繋がれている。いつも夏祭りは一眞兄ちゃんの手が繋がれていたように思う。でも、今年は違う。きっと、兄ちゃんの手にも違う手が………、






 今年もぼくの手の先に、温かな“きみ”の笑顔がある。


…………………………


エンドロールが聞こえない。

第十二話、おわり。

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