エンドロールが聞こえない。第九話
エンドロールが聞こえない。
第九話
…………………………
すこし前から夜に一眞兄ちゃんがいない。夜十一時、布団のなかに入るぼくの隣、今まで必ずそこにいた兄ちゃんと兄ちゃんの布団がいないのだ。朝になって、ぎしぎしと鳴る長い廊下の向こう、居間にいる父さんとばあちゃんに「……おはよう」と言って台所を覗くと、いつも通りに兄ちゃんが母さんを手伝っていて、安心する毎日。
「おはよう、眞昼。昨日は、ぼくの為に布団を敷いていてくれたんだね」
「あ……うん」
「ありがとう、眞昼」
猫みたいで、飄々としている兄ちゃんだから、突然いなくなりそうな気がして怖くなり、布団を敷いておけば、ちゃんと帰ってくるんじゃないかと思ったんだ。
「最近……どこに行ってるの?」
「アルバイトだよ」
アルバイト……。
「何の仕事をしているの?」
「家庭教師」
兄ちゃんは勉強を教えるのが上手だから、きっと頼りにされている。ぼくも兄ちゃんがいなければ、今の成績になんかなれなかったと思う。朝ご飯を食べて弁当を受け取り、玄関戸を開けて、今日も“いってきます”を言わずに敷居をまたいだ。神社の前にあかるが立っていて「おはよお、まひるくん」と、そのとろんとした瞳と声で挨拶をしてくる。そんな、あかるには笑顔で「おはよう」と言うくせに、家族には挨拶をするのが億劫になっていく。
「あかる?今日、雨が降るの?」
あかるのちんまりとした体に似合わない大きな傘。話によると昨日の天気予報では曇りだと言っていた天気が、今朝になって雨が降るのだと伝えていたらしい。ぼくの家族は誰一人、そんな事を教えてくれなかった。
「あ、あの……っ。これ!傘、ね?大きいのでっ」
一緒に入れますよ。
どうして、あかるは顔を真っ赤にしないと言えないことも、一生懸命に伝えられるのだろう。ぼくなら、きっと恥ずかしくて壊れてしまうのに、本当にきみは、誰より一生懸命だ。
ぼくの家族や昨日の天気予報とは違い、あかるの傘のほうが正しかった。お昼に弁当を食べ出した頃から空が暗くなり、今日の授業が終わった時には雨が大きな音を立てていた。ベランダからグラウンドを眺めると所々に水たまりが出来ていて、いつもなら準備を始めている野球部や陸上部もいない。サッカー部はどうするのか聞きに行く為に職員室へと降りる階段の途中で、半井と、数学の長野先生に会った。
「よお、関口。お前も半井と同じでサッカー部だな?今日、休みにしたから」
「え?でも、長野先生は顧問じゃ……どうして、休みにしたんですか?」
「グラウンドを使う部活が軒並み廊下を使うからなー」
長野先生が淡々と理由を説明し、校舎内で運動をする生徒が多いと事故が起きたときに「面倒くさいだろ?だから、怪我をさせる前に休ませる」と左右非対称の意地悪な表情で笑う。ぼくらはまだ子どもだから手加減を知らないから、と。
先生と別れて、ぼくたちは教室へ戻る為に階段を昇っていく。半井に、ぼくは長野先生が苦手だという話をした。すると、やはり半井は長野先生は好きな先生に入ると返事をくれた。確かに長野先生はみんなから人気があるけれど、ぼくには不真面目な感じがする。ぼくらを見透かしていて、手を抜いて接しているような気がするんだ。使う言葉や態度が無責任に感じるのは、わざとぼくらを油断させるためなんじゃないかって思っていた。
「そうだ、関口?佐藤空ってやつ知ってる?」
「うん、小学校の友達。空がどうしたの?」
空は小学校に入った時からサッカーをして遊んできたひとりだ。中学校に入って空がサッカー部に入部できずに、すこし疎遠になっている。
「なんかさ、休みがちだったんだけど、ここ二週間はずっと休んでいるんだよな」
「そうなの?」
「よくサッカーの話をしてたんだけど……関口も知らないのか」
空は小学生の時もよく休むやつだった。あまり身体が良くないって聞いたことがあるけれど、本人はどうってことないって言って、いつも一緒にサッカーをしていた。帰り支度をして、半井と階段を降りながら空の話をしていた。すると、突然、半井が立ち止まり「部室にアンダーウェア置きっぱなしだったんだわ」と校舎一階の端にある部室へと向かうことになる。廊下でトレーニングやミーティングをする運動部の脇を抜けていき、シャトルランをしていた陸上部の二年生とぶつかりそうになった時、あかるの話を思い出した。確か演劇部は体育館の外、外廊下の下で練習しているって言っていた。
「半井、ぼく体育館のほうに行くからここで」
「おう、じゃあまた明日な」
半井が部室に吸い込まれるのを尻目に走りだす、鼓動。もし、一生懸命になったきみを見れたなら……。あかるとぼくのあいだは、雨で煙る通路で隔てられて、雨をしのぎながら発声練習をする数十人の中から、きみを見付けるなんてやさしいことだった。
誰よりもひと際、ちんまりとしていて幼い印象のぼくの彼女。
あかるの声が聴こえる。誰よりも大きく、綺麗に、そこにいると聴こえる。
ぱちん。
何かの音がしたと思う。
背中に誰かの声が当たって振り返ると忘れ物を持った半井が、ぼくの横、廊下の手すりに腕をかけて「へえ、あんなに声出るんだ」と微笑んだ。ぼくらはきっと歌を唄うなんてことは出来なくて、ただ地面の上を転がるボールを追いかけて走り回るだけだ。それがぼくと半井の似ているところ。それと、もうひとつは……、
「ねえ、半井はさ…藤原あかるのこと…………」
うん、好きだよ。
お前らが付き合っているのも知っているけれどね。
関口が思っているより前から好きだよ。
ばたばたとあかるの大きな傘に雨が落ちてくる。そのお陰で早く強くなっていた心臓の音は聞こえず、いつの間にか忘れていた。たまに触れるあかるの右腕とぼくの左腕。ぼくらのもう片方の腕は互いに傘を譲るから濡れていて「もうすこし傘をそっちにやるから」と寄せても、あかるが「まひるくんが濡れちゃう」と言って、ぼくが傘を持つ左手をちいさな力で押し返して譲らない。これじゃ、いつまで経っても二人とも濡れたままだと笑うと「まひるくんが濡れないなら、わたしは濡れてもいい。まひるくんが風邪をひかないならそれがいい」と真剣な顔をして、か細い腕をぶんぶんと振って訴えてくる始末。どうして、きみのぼくを想ってくれる気持ちは、そんなに真っ直ぐで変わらずいられるのだろう。
「今日、あかるが唄っているところを見に行ったんだ」
体育館の外、体育館の二階外廊下の下で発声練習や歌の練習をしているところを見ていたと伝えると、目を大きく開いて「え、……えっ?」と顔を真っ赤にして、薄ら汗をかく、ぼくの彼女。
「一所懸命で格好良かったよ、あかる」
「まひるくんは、ずるいですっ」
そう言うと、あかるは拳を握り子どもが駄々をこねるようにぶんぶんと振った。
「わたしはまひるくんがサッカーしているところっ、見たことがないんですよっ?」
「怒るとこ、そこ?」
すこしずれているのも、相変わらず、変わらないね。
ぼくらの帰り道が、いつもならまだ明るい時間なのに街灯が灯り、霞む町に点々と光を浮かべ始める。すこしずつ近付く“さよならの神社”。自然と緩やかになる二人の足並みに、
何故か、半井の顔が脳裏をよぎった。
ぱちん。
また、あの音が聞こえる。
「あかる?神社で雨宿りしていかない?」
「うん……………そうする。そうしたい」
鳥居をくぐった先、そのすぐ脇にある物置の軒先。初めて、あかるの手を握った場所で“雨宿り”をするのだと雨のせいにして、ふたりでふたりを縛りつける“雨宿り”。ばたばたと大きな音を立てて、はしゃぎまわる雨の世界で、リズムを取るように鳴っていた音は無く、ばしゃばしゃと溢れる音が響いていた。いつもは心地が良いと感じる雨音が、嫌に雑音だらけだから“恋の使い方”を間違えた、ぼくの汚らわしい気持ちの音みたいで寒気がする。ぼくの手を求めるあかるの右手。その手をお迎えするぼくの左手が前より少しだけ上手に繋がれる。絡めた指を、すこしだけ、きゅっと握り、すこし目を伏せた。半井はきみのことが好きなんだよ。きみが行っている塾に半井もいて、ずっと前から好きだったんだって。もし、そのことをきみが知ったらどうなるのだろう。ぼくより格好が良い半井が「好きだ」って伝えたら、あかるはどうするんだろう。
「まひるくん?」
「ん?……あ、うん。何?」
「本当はね、まひるくんが見に来てくれのうれしいの。本当にうれしいんですよ」
どうしてかは分からないけれど気付いたら、湿度の高い空気がすこし湿らせたあかるの髪を指でとかすように触れていた。きみが目をまんまるにして、ぼくを見上げるから、その真っ赤な顔を見て無意識にしていたことに、ぼくも顔を真っ赤にして意識する。
「あっ、いや!……ごめんっ………そ、そのっ、つい!」
あかるの大きな瞳に水分が溜まっていって、雨の世界にすこしだけある光を閉じ込めていく。瞳の中でゆらゆらと揺れる灯り。ちいさな唇をやわらかく噛んだ後、ちいさな声が鳴った。
「もっと……撫でてほし……ぃ………で…す」
息が喉を焼くように熱くなり、肺が焼かれる。心臓が壊れそうになる。
「うん」
あかるの頭を撫でてみたり、髪をとかしてみたり、指先が頬や耳に軽く当たり、ぴくっと肩をすくめてきみが微笑み、くすぐったいです、と言ったり、ぼくの手に擦り寄るようにしたり、あかるが甘える。そして、弱々しい声で、
「ねえ?まひるくん……」
「……なに?」
何か、小さなことでもいいから………わたしを褒めてくれませんか?
そう言った。
きん、きりりん、きりん。
どこからら、風鈴の音がする。
…………………………
エンドロールが聞こえない。
第九話、おわり。
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