エンドロールが聞こえない。第八話

 翌朝、目が覚めると、いつも通りに一眞兄ちゃんの布団は無く、当たり前のように長く伸びる廊下をぺたぺたと踏み、ぎしぎし鳴らして居間に向かう。途中、立ち止まりガラス戸から曇天の下で青々と葉をつける桜を見た。小さな頃、この廊下を走ってじいちゃんに怒られたように、じいちゃんも子どもの頃に廊下を走って怒られたことがあるのだろうか。その姿をこの桜は見ていたのだろうか。そして、もうすぐじいちゃんの想い出を屍体として栄養とするのだろうか。


「眞昼?どうしたの?」


 廊下の奥から母さんに問われた。ぼくは「何でもない」と言って居間に向かう。そこには新聞に隠れた父さんがいて、その向こう側から「おはよう」と声がする。父さんとばあちゃんがテーブルの両端にいて、一番奥、真ん中にいるはずのじいちゃんは今日もいない。


 台所に取りに行ったお弁当が、今日はうれしくなかった。多分、昨夜のうちに何が入るのか見たからだと思う。洗い物をする兄ちゃんと冷蔵庫の中を覗く母さんが、何かを話し込んでいるようだったけれど、その姿が……すこし気持ち悪くて。お弁当をカバンに入れた時、冷蔵庫の扉が閉められ「眞昼、傘を持っていくの忘れないようにね」と思い出したように母さんが言ったのだ。だから、ぼくも思い出したフリをして、こくり、と、頷いたけれど、返事はしない。スニーカーを履いて、傘を取り、戸を開けて踏み出す一歩。すこしだけ頭の中や胸の真ん中にある“もや”を感じて、目を閉じ、家の中にあるもう片方の足を外へ運んで、戸を閉めた。


 今朝は“いってきます”のひと言が、言いたくなかった。


 いつもの町が、通学路が、すこしだけ違って見える気がする。何かが違う。昨日と違う。何かが。それを見付けようと目を細めて眉を寄せた。それでも分からないから、すこし、苛つく。神社の前にあかるが立っていて、ぼくを見付けると「まひるくんっ、おはよお」と軽く跳ねた足音で寄ってきた。そのあかるの姿に立ち止まらずに進むぼくに、きみが軽く駆けて「どうかしたんですか?」と聞くから、何でもないよ、と、嘘を言う。盗み見るあかるの顔が悲しそうだったから「何か言おうとしていなかった?」と話題を変えた。


「中学校に入ってからクラスも違うし、部活もあるから、あまり一緒にいられていない」

「うん、そうだね」


 あかるは下校の時だけではなくて、登校も一緒にしたいと言い、やわらかく笑ったのだ。しばらく、歩いていると聞こえていた、ちいさな、ちいさな足音が鳴っていないことに気付き、振り返る。あかるが電信柱と電信柱の間、その向こうの電信柱からぼくをその大きな瞳で見ていた。いつの間にか二人で歩いてなんかいなかった。きみのちいさな口がちいさく動いて、何かを言ったみたいだけれど聞こえるはずがない。だから、早足で戻って「何?どうかしたの?」と伺う。


「まひるくん、怒ってる……ご、ごめんなさい」

「え。いや、怒ってなんかないよ」


 あかるの唇がきゅっと強く噛まれ、こく、こく、と二回頷く。


「本当に怒っていないんだ。すこし考えごとをしてて」


 また嘘を、吐いた。大丈夫、あかるは一眞兄ちゃんじゃない。だから、嘘を吐いてもばれるなんてことはない。そう自分に言い聞かせないといけないくらいに、手に汗をかいて、心臓が強く打ち始め、口の中が渇いていく。きみが俯くと強調された長いまつ毛のまま、ぼくの左手を、そのちいさな両手で取って微笑んだ。


 まひるくんは、嘘が、下手ですね。


 ぼくの“恋の使い方”はそもそも間違っていて、きっと“嘘”どころか、感情の使い方や言葉の使い方も間違っているんじゃないだろうか。


「行こう?まひるくん。学校遅れちゃう」


 今も手のひらに残るあかるの熱が、何年経ってもこびりついて取れないんだ。


 土曜日の朝十時、十五分前。古い駅舎を隠すように覆う竹藪。湿度と長い風雨でモルタルの壁にカビが生えているから、より古く、よりくたびれて見える。バスロータリーから半地下の西改札に向かうと、あかるがちんまりと立っていた。ぼくを見付けるなり、と、と、と、と軽い音が駆け寄ってくる。そして、ぼくの二メートル前で躓き転びそうになったのを反射的に支えた。


「び、びっくりしたっ」

「なんで、いつも躓くのに走るのっ?」


 そう叱っているくせに、ぼくだって、あかるが躓くって知っているじゃないか。だから、支えられるように反射的に体が出たんだろ。ぎりぎり打たなかった膝、ぼくに身を任せたままのあかるを抱え上げる。あかるは………こんなに軽いんだと知ると、途端に切なくなる。それなのに、いつも通りにきみは「おはよお」と微笑む。あかるは、いつもより近くにいるって気付いているの?ぼくの心臓の音は聞こえてなんかいないよね?急激に上がった体温が伝わってなんかないよね?


「待ち合わせ時間の十五分前だよ。いつからいたの?」

「えっと…………九時にはっ、着いていました」


 さすがにそれが意味することが分かるのか、いつもとろんと笑うあかるが気まずそうに、上目遣いで苦笑いをして「あの……っ、まひるくんとお出掛けするのが、その、えと、楽しみで…………」と、あせあせと小動物みたいにしていた。


 あかるが座席に座り、ぼくはその前に吊り革をつかんで立って、流れる建物を眺めていた。いつもより風景が白んで見えるのはどうしてだろう。空調が冷えているのは土曜日だから出掛ける人が多くて蒸すからかな。つん、つん、とシャツが引っ張られて「まひるくん?大丈夫?」ときみが心配そうな目で見上げている。大丈夫だよ、と、すぐに答えたけれど………あかるは何に対して“大丈夫”って聞いたんだろう。


 大きな病院の待合室に置かれた長椅子は、奇妙なまでにつややかな茶色で座るとビニールの音と匂いがした。薄暗い、半分消された蛍光灯の下でしばらく待っていると、看護婦さんに車椅子を押されてじいちゃんが「眞昼っ、あかるさん!」と声を上げる。ぼくが指を口の前に立てて表情と小さな声で「静かにしてっ」とすると看護婦さんが笑う。病院と駐車場の間に申し訳ない広さである散歩道を、ゆっくりと車椅子を押す。白い光の下、じいちゃんが機嫌良さそうに、ぼくの、あかるの、ぼくらの学校生活や“ぼくたちが付き合っていること”の全部を聞かれた。凄く恥ずかしいような、凄く嬉しいような、よく分からない不思議な気分と一眞兄ちゃんが言っていた“覚悟”というものが頭の片隅、身体の真ん中で想う感情を押し潰しそうとしている。


 じいちゃんは、ぼくたちが病室まで送ることを拒み、ロビーで看護婦さんと車椅子を押すのを交代した。眞昼、と手招きされて強く握られた手。それにすこし首を傾げ「また、来るから。あかるも」と不確実な約束をする。じいちゃんが腰の辺りをごそごそとすると「ほら、二人にお駄賃だ」と、美味しい物でも食べて帰りなさいと幾らか貰ってしまった。それじゃあ、またね、と言ったぼくらを、にこにこと見送るじいちゃん。振り返るとずっと手を振っていて、入り口の自動ドアのガラスが反射して見えなくなるまで、にこにことしていた。真っ白で大きな病院を背にバス停まで歩いていると、すこし頬を染め「元気そうでした」と言うあかるに「そう……だね」と歯切れの悪いぼく。じいちゃんは、いつも、あんなに元気に話さない人、なんだよ。いつも、あんなにはしゃぐ人、じゃないんだよ。手のひらを見ると凄く真っ赤になっていて、車椅子を押す手が無意識に強く握っていた事を知った。左手の骨が少し痛い、じいちゃんが両手で強く握ったからだ。心がすこし痛い、じいちゃんって軽かったんだなあ、と知ったから。その後、駅前でじいちゃんからもらった“お駄賃”であかるとふたりでご飯を食べた。


 太陽という恒星から重たく熱い光が降り注ぎ、ぼくらの肌を小麦色に焼いていく。今朝、梅雨が明けたのだと天気予報で言っていた。あの日以来、家を出る時に言っていた“いってきます”は言っていなくて、それが馴染んでいって普通になっている。神社の前で待ち合わせるあかるの姿も普通になっていた。あかるのぶかぶかな夏服に、そのやわらかそうで、すこしふくらんだ身体を想像させる生地の薄さに、息が止まるほど心臓が早く打つ。それが苦しくて、どこに目を向けたらいいのか分からないくらいに、あかるから目が離せなくなっていた。雨だからって、暗闇で雨宿りをして手を繋ぐ関係なんだから身体に触れたって…………なんて思っている。本当にぼくは、


 汚らわしい。


 こんなに暑い日が続くのに中学校の廊下はひんやりとしていて、休みの時間になるとクラスメイトたちで、どっと溢れ、皆、涼を取るのだから結局は暑くなってしまった。サッカー部で仲良くなった半井と、いつものように廊下で話をしていた。話題は昨日観たテレビと漫画雑誌、それから音楽とサッカーがほとんどだ。半井は音楽に詳しくて、ぼくは半井に知らない世界を教えてもらっていた。彼からカセットテープを借りて聴いてみたのだが、ぼくの知らない世界のはずが、どれも知っている音楽ばかりで凄く驚いた。


「知っている曲ばかりだった」

「だろ?」


 昨日借りたレコードのジャケットには、建物の吹き抜けを覗く四人の写真を、青く縁取ったものが印刷されている。とても、有名らしい四人だけれど、ぼくはグループ名くらいしか知らなくて、それなら一度聴くべきだ、と、半井に勧められたのだ。ぼくの知らないところで、いつもそこにいた音楽と彼ら。


「メジャーでは八年しか活動していないんだ」

「八年?」

「うん。おれらで言うと小学校に入って、来年?来年には解散してる感じだな」


 こんなに知っている曲や綺麗な曲が多くて、今でも人気があるって聞くのに、たった八年。どうしてだろう。もっと、いっぱい歌を作ればいいのに、どうしてだろう。


「解散した理由?そうだなあ、喧嘩…………かな?」


 喧嘩。そんな事で、と、この時は思っていた。だけど、歳を重ね色々な経験や感情の湧き方を覚えていくと、喧嘩どころか、ほんの二、三の言葉の履き違えで会えなくなるという事があると知っていく。そうやって会えなくなった人がいる。


…………………………


エンドロールが聞こえない。

第八話、おわり。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る