エンドロールが聞こえない。第七話


「あかる、部活はどう?」

「まだ基礎練習ばかりですよお……」


 すごく意外だったのは中学校に入学する前、あかるが「演劇部か合唱部があればいいなあ」と言った。すごく恥ずかしがり屋だから、すごく人と話す時にゆっくりだから、もっと堂々と自分のことを伝えたいのだと、すこしだけ伏せた長いまつ毛で言っていたのだ。


「でも、声が大きいのと、言いたいことを言うのは違うと思うけど……」

「え……っ、え……っ、でも……声、大きく……ならないですか?」


「心配するの、そこ?」


 相変わらず、あかるのずれた心配と「でも……もっと、自分のことを伝えたいというのは、ほんとうです」という本音。いざ、入学すると合唱部は部員が少なくないから吹奏楽部内にあり、普段は活動していないということだった。しかも「わたし……肺活量……………なぃ」と管楽器への不安から合唱はあきらめ、演劇部への入部を希望する。演劇部は演劇部で人気があり、上級生の層も厚くて、二年生から転部する生徒もいるくらい倍率が高かった。しかし、またあかるはあかるらしくない行動に出る。体験入部が終わり、配られた入部希望を記入するプリント。第三希望までの枠があるその枠、あかるは第一希望の欄に『わたしは演劇部にしか入りたくありません』と書き、他は空白のまま提出した。その熱意が通じたのか、先生に呆れられたのかは知らないけれど、今では演劇部で発声練習や体力作りをしている。


「運動………、ずっと腹筋痛なんです」

「そういえば、あかるがきびきびと体を動かしているの、見たことないなあ」


 小学校の体育で、いつもゆっくり動いていたもんね、と、揶揄うと「ううっ、精いっぱい動いていたんですよっ」とのんびり答える。こんな風に互いに互いの学校であったことを話すのが楽しくて仕方がなかった。


 いつもの神社、いつもの鳥居が見えてくる。あとすこしで別れなければいけなくなると、ふたりの歩調が重なっていく。ゆっくりと歩く、歩調が重なっていく。あかるが「そろそろですね」と言ったから「そうだね」と返した。どちらかがという訳ではなく立ち止まって「なんだかね?いつも……“別れたくないなあ”なんて思っちゃう。わたしは、まひるくんに我儘だ」と閉じた瞳と長いまつ毛、微笑む口許の気持ちは、ぼくだって、たぶん、同じなんだ。でも、ぼくらはまだ、どうしようもなく子どもだから、家族に心配をかけちゃいけない、から。“恋の使い方”を間違っちゃいけない、から。お腹の底、奥の奥が、ぎゅうっと、ごちゃごちゃの感情に押しつぶされそうになる。アスファルトと脚が同じ温度になっていくのに身体が熱くなって、喉を鳴らして、泣きそうになるから鼻の奥がすこし痛い。明日も会えるのに、毎日、毎日、初めて経験するような感情に苦しくなる。


「……あかる。家族に心配かけちゃ、駄目だから」

「かぞく……?はい、そうですね」


 かぞく……はい、そう。

 家族には心配をかけちゃ、いけないから。


 恋の使い方は、ぜったいに間違っちゃいけないから。


 きみは「まひるくんと付き合いはじめて、たくさん一緒にいるようになって、もっと“一緒にいたい”って思ってる。わたしはわがままだ」と言って、しゅんと下を向いた。やっぱり、あかるはすこし先に大人になっていて、ぼくには背中しか見えないんだと思う。だから、きみの表情が分からず、不安になる。明日もまた会えるなんて強がりを、自分の為に言おうとした、その時。重たい空から大きな雫が、ぽつ、ぽつ、と、アスファルトに点を描きはじめた。


「雨………」


 そう言って空を見上げ、両手をすこし広げるあかるの姿が、小学校六年生の夏休みに大きく真っ白い帽子と真っ白いワンピースを着たあかると重なり、濡れると良くないと思った。


「あかる!こっち!」


 多分、これがぼくの“恋の使い方”を間違えた最初の日だ。


 きみの手を引いて神社の鳥居をくぐり、参道の脇にある物置の軒先で雨を凌いでいた。ざあああっ、と、鳴る世界でリズムを取るように、とてん、とてん、と、どこからか鳴る雨水の砕ける音。雨が叩き付けられ煙る町の灯りを、境内に植えられた木々の間から覗く横顔。あかる、すこし身長伸びた?髪もすこし伸びたよね?元々、やわらかそうな唇をしていたけれど、なんだか…………今はもっと………。きみの唇がちいさく開き、ちいさな舌で潤される。そして、下唇をすこしだけ、やわらかく噛み、ちいさな口で言った。


「まひるくんも…………わたしに我儘になってほしい」


 ちいさな声なのに、はっきりと聞こえたのは混ざりもののない心の声だったからだと思う。


 “誰かに我儘になる”っていう意味を藤原あかるに教わった。


 白く煙る世界を見たまま、すこし濡れた左手できみのちいさな右手を探す。ちんまりとしたきみとぼくの身長差。手の高さも違うから腕に触れてから、手をたどる。きみも指を絡めに、ぼくの指を求める。


 雨のせい。雨が騒がしいから、きっと心臓の音も負けじとやかましく騒ぐせいだ。きっと、すこし息がしにくいのは、雨で湿度が高いせい。ぼくは“恋の使い方”を間違ってなんかいやしない。雨のせいだ。あかるのやわらかそうな頬や唇に触れたくなる、すこし伸びた長い髪に触れて、指で髪をとかしたい。すこし……すこし、ふくらみ始めた身体にやさしく触れてみたい。そのちいさく、ちんまりとしている身体を抱きしめてみたい。そんな事ばかり考えてしまう。今日は、今日だけは雨のせいだ。夏の日にきみが求めたことはいけない事だと思った。きみが一足跳びに伝えた感情は、恋人になった今……出来ることになっている。


 でも、あかる。ぼくたちは、まだ、どうしようもなく、子どもでね。


「きっ、キスとかはっ、まだ先だからね!」

「う、うんっ?うん!まひるくん、わかった!」


 我儘になって欲しいというきみの言葉に、不意に出た“強がり”と“本音の裏返し”。焦って返ってきた返事と繋がれた手から伝わる何度か高くなった体温に、同じ強がりを知る。


 あかるのうなじが、真っ赤になっていく。


 帰りが遅くなった事は「友だちと雨宿りをしていた」と嘘を吐いて、お風呂より先に夕食を食べた。お風呂に入り、温まった身体で居間を覗くと、父さんが九時のニュースを難しい顔で見ていて、台所では母さんが明日のお弁当に入れるおかずの下ごしらえしていた。明日のお弁当の偵察と母さんに聞きたい事があった。


「今日、じいちゃんはどうだったの?」


 じいちゃんは中学校の入学式を観に来るはずだった。だけど、式の三日前に体調を大きく崩して入院をした。二週間ほどして退院したけれども、今、二度目の入院をしている。


「元気だったわよ。病院はご飯が美味しくないって言ってたわ」

「じいちゃんらしいね」


 ぼくは知っているんだ。じいちゃんは味の濃い食べ物が好きなんだよ。だから、家のご飯だって美味しくなかったはずなんだ。お湯みたいに薄い味噌汁とか味のしない煮付けとか。ぼくは母さんが言った言葉が、なんとなく、ぼくの為に用意されたもののようで胸がざわざわとした。


 締め切った窓、カーテンの向こう、雨戸を打つ雨が鳴っていた。蒸して暑いから薄手の掛け布団から足を出していると、足の裏をかすかにくすぐる扇風機の弱い風があたる。中学生になり寝る時間が一時間程遅くなって、十一時過ぎに部屋の灯りを消すようになったのだけれど、白藤や別の友達に言わせれば、これでも早いらしい。


「兄ちゃん、起きてる?」

「起きているよ、どうかしたの?」


 じいちゃんは大丈夫かな。ぼく、知っているんだよ。じいちゃんの味噌汁は、お湯みたいに薄くって、大好きだった醤油味の濃いお煎餅も何年も食べていないって知っているんだ。あと、たまに、ばあちゃんが寂しそうな顔をするんだよ。


「あの人は、相当、無理をしてきた人だから」

「……何だか嫌な予感がする」


 じいちゃんが入院した夜、どうしてなのかは分からないけれど「ああ、やっぱり」と思い納得する自分がいた。いつも朝起きて居間に行くと、当たり前のようにじいちゃんが新聞を読んでいて、日曜日の午前中には庭の低い木の手入れをしていたのに、もう二ヶ月も居間や庭にいない。小学校から中学校に入るまでの休みに、二度遊びに来たあかると話すじいちゃんは、すごく楽しそうに話していて、ぼくを仲間に入れてくれなかったんだ。それら全てにも「ああ、やっぱり」がいるんだよ。


「あの人は眞昼を可愛がっていたから、特に気丈に振る舞っていたのかもしれないね」


 どうして、兄ちゃんはそんなに落ち着いていられるのだろう。もう二ヶ月近くも入院しているのに心配にならないのかな。敷布団が擦れる音。兄ちゃんが横向きになり頬杖をついて微笑んでいた。


「眞昼はやさしい。だけど、やさしさというものがいつも報われるとは限らないんだ。“覚悟”、というものもそろそろ覚えなければいけないね」


「………覚悟?」


「そう、覚悟だ。人は……いや、物事はなるようにしかならない。生きていく上で覚悟しなければいけない事に嫌という程に突き当たる」

「……………諦めなければいけないって事?」


 叩く風と雨が強くなり雨戸を叩く。台風の騒がしさとは違う騒ぎ方で、ぼくの耳に嫌がらせをする。一眞兄ちゃんが目を見て、すこしだけ首を振って言った。


「違うよ、眞昼。諦めと覚悟は違うんだ。手放し捨てる事と抱えたまま朽ちるのを見届けるくらいに違う」

「じいちゃんは……」

「今、真昼に出来る事は何?」


 そう言って、頭を支えていた肘を崩し、腕を枕に「結果がどうなろうと、しっかりと受け入れ、やれる事をやり、流れに抗わない。それが覚悟だ」と真剣な顔をする。ぼくに出来ること、もし、じいちゃんに会えなくなるとして、じいちゃんがぼくにしてほしいこと。ぼくがしたら嬉しいと思うこと。


「あのね、兄ちゃん。次の休みの日、あかるとお見舞いに行けないかな」


 そこから、しばらく兄ちゃんと話しをした。あかるとのこと、じいちゃんがあかると話して嬉しそうだったこと。ぼくがじいちゃんのこの先と、あかるのこの先に想うこと。それら、全て、ぼくが今、どうしようもなく子どもだからと分かっていても、望むこと。その全てを話したと思う。いつの間にか、ぼくは眠りについていた。


…………………………


エンドロールが聞こえない。

第七話、おわり。

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