エンドロールが聞こえない。第六話


 かつて、ぼくらが過ごしてきた毎日はどこに行ったんだろう。ずっと探しているのに見付からない。だから、見付からないのは過去にあった毎日ではなく、ぼくが迷子になっているじゃないかと思えてくる。


 春という時間は過ぎても、夏にはまだ届かない六月。梅雨に入ったのだとニュースの天気予報コーナーでお姉さんが言っていた。それなのに全く雨なんか降らなくて、いつものように空が赤く染まっていく。中学校の部活動は希望した部に必ず入られるわけじゃなくて、希望する部を第三志望まで書き、あとは抽選で決めるという形だった。それなら……と、安直に考えたことも、すぐに担任の先生が帰宅部は許さないと第四の選択を消した。


 それって望んだ部活に入れなくても、文句を言うことも許さないってことだと思うんだけど………何か、すこし先生たちはずるいような気がする。


 ぼくは倍率が高いとされたサッカー部を第一希望に選び、残りはバレーボールと陸上。結果は無事にサッカー部に入部出来たのだけど、新入生は軽い練習試合にすら参加させてもらえなくて、部活動の大半をトレーニングとランニング、上級生たちの練習が滞りなく行う為のサポート、ぼろぼろのタオルでコーンやボールを拭くことに費やされていた。


 沈む夕陽の赤い光から逃れるように、雲の後ろに紺色の空が隠れている。その中を飛行機が飛んでいた。小さな頃から感じている大きな圧迫感は何なのか分からずに、どんどん増していくばかりだ。ぼくらが相手をするには大き過ぎて太刀打ち出来ない何かが、今日も空の上からぼくらを見ている。そんな気がする。


 入学式を終え二週間が終わった金曜日の下校時。学校の近くにあるたくさんの自動販売機が並んだ文房具屋さんの前で、帰宅する生徒たちを眺めていた。そのなかで一際目立つ新入生は、およそ中学生とは思えないほどちんまりとしていて、ぶかぶかの制服で歩く藤原あかるだ。彼女に声をかけると「……っ!?」と息を止められる。


「そんなに驚かなくても」

「でっ、でも……っ、でも……っ」

「ぼくが待ち伏せしているみたいで嫌だった?」

「そっ、そんにゃっ!……ちがうっ、そんなのじゃないですっ!」


 相変わらず、慌てると言葉が追い付かない藤原は、中学校の制服を着ていても藤原のままだ。話をしながら家路を歩き、藤原の話を聞いていた。きみとはクラスが違うから、すこし不器用で、おっとりしていて、ぽけっとしている性格が学校に馴染んでいるのか気になっていた。そのとろんとした笑顔から出てくるのは、この間までと変わらない“他人を褒めること”ばかりだったから安心はした。やがて、ふたりの帰り道が分かれる神社の前に差し掛かった時に、ぼくは“あのことの返事”をきみに伝える。きみは大きな瞳から大きな涙をぽろぽろと落とし、何度も、何度も「ありがとお。関口くんっ、ありがとお。これからよろしくね、よろしくねっ」と握ったぼくの手を上下に振ったり、涙を袖で拭ったりと忙しい。きっと、きみにもぼくの心臓のどきどきのようなものが起きていて、手から伝わるきみの熱い体温が、ぼくからも伝わっていればいいと泣き喜ぶきみを見つめながら思っていた。


 灰色の厚い雲が頭を覆うある日。昇降口の前で、ばったり会った藤原とは「今、帰りなの?」と話したくらいで、とくに何があるわけではなく、何となく校門を出る。変える方向は一緒だから、結局は一緒に歩くのだけど、いつもよりきみはもじもじとしていて、すこし斜め後ろからぼくを何度か見ては、すこし口を開いて“しゅん”と下を向く。それを何度も繰り返すもんだから、こちらから声をかけた。


 なに?どうしたの?


 それだけを言ったのに、心臓の音が早く、喉が熱い。

 すると、ぽつり、ぽつりと、ちいさな声が出ては消える。


「あの……ね?関口くん……もし、嫌だったら………ごめんなさぃ……」

「うん。何?」




「あなたのことを名前で呼んでもいいですか?」


 真っ直ぐな言葉を使ったきみが顔や耳まで真っ赤にしてうつむく。付き合ってみて“藤原あかる”に感じたことは、いつもぼくより一歩前を歩いていこうとしていること。一歩分だけ、大人。手を伸ばせば届く距離にいるのに、見えるのは、いつも一歩前を進む背中なんだ。


「………あかるって、呼んだらいい?」


 勇気を出して生まれて初めて恋人になった人の名前を、生まれて初めて発音する名前で呼んだ。ただ、それだけなのに心臓が激しく跳ねて、体温が上がる。


「うんっ、うんっ……うん!そうしてくれるとうれしい!ありがとお、まひるくん!」


 きみから呼ばれるぼくの名前に体温がまた勢いよく熱くなる。きみは告白の返事をした時みたいに大粒の涙を落とし始めて、ずっと帰り道はあかるの顔がぐちゃぐちゃのままだった。


 土曜日。目覚める朝が平日より早いと知ったのは、一眞兄ちゃんが布団を畳んでいるところを見たからだ。兄ちゃんのやさしい「まだ寝ていても大丈夫だよ、眞昼」という声が心臓の音で半分聞こえない。水を飲もうと台所に行くと母さんと父さんが暗い顔をして、何かを話していたように思う。


 思えば、あの顔でする話なんて……。気付かないぼくが子どもだったのだと、今なら分かる。


 まだ上着を持っていないと冷える春先。生まれて初めて、藤原あかるとデートの約束をしていた。朝ご飯を食べるときに母さんと兄ちゃんが顔を合わせて、くすくす笑っていたのは、兄ちゃんが、ぼくの秘密を見破る転載だからだ。家を出る時間まで落ち着かなくて四十分近くも早く待ち合わせ場所に向かった。


「い、いまっ、いま!来たところっ、ですからねっ!」

「うん?……うん」


 そう言う耳まで真っ赤な彼女は一秒でも四十分以上前からここにいることになるはずだ。そして“今来たところ”なんてのは、そのきょろきょろしている大きな目と、真っ赤な頬と、嬉しそうに微笑む口許を見れば、嘘だと分かるのに。


「まひるくんはやさしい」

「……?どういうこと?」


 脈略のないあかるの言葉がよくわからず聞き返したのだけど、あかるは目を閉じて微笑み、すこしだけ首をかしげて、内緒です、としか言わなかった。これは付き合ってみても分からない、きみの不思議なところ。


 その日のぼくらは商店街でお菓子や飲み物を買って近くの公園で話をしよう、くらいしか決めていなかった。そもそも、ふたりとも“デート”というものが何かは知らない。マンガとかアニメ、映画、テレビで見るように、電車に乗ってどこかに出掛けるなんて怖くて言えなかった。ゾウの顔がついているコンクリートでできた大きな滑り台の上に座り、お菓子の袋を二人の間に置いて、学校であった出来事や、ふたりの知らないふたりのこと、互いの名前を呼び、そわそわ、どきどきするだけで、電車に乗らなくても今までにしたことのないことが、そこにあったんだ。


 ぼくらが付き合い始めたことは、小学校からの友達にも内緒にしていたのだけれど、付き合って一ヶ月経った頃にサッカー部の抽選から外れた白藤から「土曜に藤原とイチャイチャしてるの見たぞっ!」と揶揄われる。月曜日の朝、昇降口で靴を履き替えながら、ぼくは顔を真っ赤にして文句を言いながらも、嫌な気分ではない……のが正直な気持ちだ。だけど、恥ずかしさで身体が一杯になり熱くなる。この話題の矛先はあかるにも向き、しばらくの間、ぼくよりもあかるが揶揄われることになってしまうのだけど、そんなことにすら嬉しそうなきみがいて、それにみんながつまらなくなったのか、自然とぼくとあかるが付き合っていることは当たり前という言葉に溶けてしまった。


 六月の暗い曇り空からジェットエンジンの重い音が響いて、大きく広げた翼の先にある光だけを点滅させて飛んでいく。あの雲の中の飛行機は国の中なのか、それとも外国まで飛んで行くのかと考えていると、ぶぅうん、と、背中から自動販売機の何かが動き出す音がした。文房具屋さんの前、たくさん並べられた自動販売機のどれかが動いた、音。それとちいさく息を吸う、音。


「まひるくん、待っていてくれたんですかっ?」

「お疲れさま、あかる」


 ありがとお、と、深く頭を下げる背中からは、いつかみたいに教科書やノートが、はざばさと頭を打って落ちることは無い。そこにあるのはすこし赤い頬をした溶けそうな笑顔だけだ。行こうか、と言うと「はい」ととろんとしていて、綺麗な声が鳴る。付き合い始めて一ヶ月半ほど、ぼくらはぼくらの歩く速さがまだ分からなくて歩きづらい。ぼくの一歩は、あかるの二歩くらいだから下手にペースを落とすとあかるの二歩が追いついて、ぎくしゃくして、たまにきみは躓いてしまう。


「きゃっ!」

「っと!!」


 躓いたきみが転けないように抱えるぼくの腕にかかる、きみの嘘みたいに軽い体重。引っついているのが恥ずかしいから、ぶっきらぼうに「何やってんのさ」と言って、きみがあせあせと「まひるくん、ごめんね」と謝るのに、どうして、ふたりとも口許は笑っているんだろうね。ぎくしゃくしながらも歩調を合わせようとするのが、このぎこちなさが、何だか楽しくて、ただ楽しくて仕方がないなんて思う。あかるも、ぼくの歩幅に合わせようとしているんだなって、そんなことが嬉しくて、仕方がない。


…………………………


エンドロールが聞こえない。

第六話、おわり。

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