第3話 F大学伝染病研究所

 そんな知事がいる、F県では、独自にウイルスを研究している研究所があった。

 この知事は、今までの経験と勘から、

「どうせ、国家はそのうちに投げ出して、自治体に丸投げすることになるだろう」

 ということは、大体予想がついていた。

 実際に、今までの自治体の対応を見ていると、

「最初は、国主導でやろうとするだろう。何しろ、国にはプライドと、それだけの金があるからだろうが、それも、半年、一年と長引くと、お金の問題もそうだが、有識者の人たちとの確執も出てくるだろうから、医療、経済の板挟みになり、しかも、自治体ごとに体制が違うとなると、国では手に負えなくなる」

 と考えたのだ。

 まさにその通りだった。

 時期的なものも、知事が考えていた時期とある程度まで一緒だったこともあり、知事の方では、いきなり丸投げされても、対応ができるような体制は取っていた。

 一番大きな問題は、

「医療崩壊を防ぐ」

 ということである。

 まずは、病床を相当数増やすこと。

 その問題と平行して、独自にウイルスの研究チームを作ることだった。

 もちろん、国には極秘であった。下手に国にいうと、国のプライドを傷つけるということにもなりかねないし、さらにそれによって、国からパンデミック関係以外でも、目をつけられて、ロクなことにならないのではないかとおもうのだった。

 そんな状態だったので、

「なるべく国は刺激しないように、そして、自分たちだけの独自ルートで情報収集ができるような組織を持つ」

 ということを、かねてから水面下で動いていて、実際に、パンデミックが起こる数年前には、十分にできていた、

 この知事が、

「F県知事」

 となってから、6年が経っていた。

「今までで、最高の優良知事」

 という触れ込みで知事になった人は、F県をはじめとして、いくつも例があったことだろう。

 人気だけが先行している人もいたが、それまで悪政だったことで、知事が変わり、

「前に比べれば」

 という、前置きがあるが、それでも、新しい知事は、結構いい人がなっていることが多かった。

 それでも、ほとんどの人が2期というのが、多いのではないだろうか?

 知事の任期は、4年なので、2期だと、最長、8年ということになる。

 しかし、実際は、

「対抗馬がいない」

 あるいは、タレントだったり元アナウンサーだったりという、

「ただの、人気だけで、長期政権」

 という人もいる。

 しかし、F県においては、別にタレントだったわけでも、メディアに登場するような人気があった人ではないが、地道な努力と、県民に訴えかけるその心意気というものが、それまでの知事と違って、人気がある証拠だった。

 前の知事が、不正をしていたということもあり、辞任したことからの、知事選で、彗星のように出てきたのが、今の知事だった。

 1期目で、かなりの実績を上げた。災害時の対応の素早さや、被災地を訪れるタイミングなど、実に、

「県民に寄り添った」

 というところで、その力をいかんなく発揮したのだった。

 それまで、あれだけメディアへの露出が少なかったにも関わらず、こと災害が起こると、露出度は、激しくなる。

 かといって、闇雲にテレビ出演するわけではなく、県民への報告や、激励、さらには、警鐘と、必要な時には、素早く対応するのだった。

 そんな知事が、パンデミックになった時、ちょうど、2期目の自治線のすぐあとだった。知事選は、他を寄せ付けないほどの得票差で、ぶっちぎりの当選だった。

 下馬評もまさに、

「現職優利」

 という形だったが、マスコミなどは、最初から、

「再選確定か?」

 とまで言われていた。

 選挙が終わり、2期目にもいろいろ公約をしたこともあって、その準備をしている時に、パンデミックが襲ってきたのだ。

 1期目の時の公約は、いくつか果たされた。

「公約なんて、破るためにある」

 という開き直りのような知事が多い中、何も言わず、いきなり公約にあったことが達成されたと、マスコミが発表することで、サプライズ感があるからか、県民の指示を十分に受けていた。

「これだけの知事だから、対抗馬として、誰が出てきても一緒なんじゃないか?」

 と言われてきたが、野党側は、どうしても、この知事を引きずり下ろしたいと思うからなのか、いつも対抗馬をぶつけてくる。

 ただ、的外れなのだ。

 実績があって、ゆるぎない地位を築こうとしている現職の知事に対して、人気だけのタレント銀をぶつけて来るなど、

「身の程知らず」

 と言われても仕方が合いだろう。

 そんな、野党は、完全にこの県では、

「悪役」

 である。

 それなのに、わざわざいつも対抗馬を出してくるのは、何かあるのだろう。

「きっと、今の知事に続けられると、困るようなあくどいことをやっているんだ」

 というウワサもあるくらいだった。

 あまりにも、善良な知事が就任したことで、居心地悪いと思っている県議員もいることだろう。

 しかも、それは野党だけではなく、同じ党である与党側の議員の中にも、胡散臭いと思っている人もいるからだ。

 だが、それも、悪いのは自分たちで、

「下手に動かれると、自分たちがやってきたことが明るみに出る」

 と思っているのだろう。

 それは、法律ギリギリのところでのことなのだろう。黙っていれば、見逃してもらえるところなのだが、どうもこの知事は、妥協を許さない人のようだ。

「議員たるもの、普段から、襟を正して」

 と自分でも言っていて、それを皆にも、半分強制をしていた。

 しかし、これは、知事として、最低の仕事の一つではないだろうか?

 それをわきまえた上で、

「時には悪者になることもある」

 とたまにそのようなことを口にしているが、まさにこのことを言っているのだろう。

 県知事をやるうえで、

「一人では、十分なフォローはできない」

 ということも十分に分かっていて、副知事も自分の手足となって動いてくれる人が就任したことで、かなり動きやすかったのだ。

 パンデミックの時も、知事がいつも表に出て、メディアの露出も今までと見違えるほど多くなり、パンデミックの対応だけでも大変だった。

 他の知事業務のほとんどを副知事と、その配下の議員に任せて、自分はパンデミックに集中していた。

 というのも、彼は他の県の知事とは違い、最初からいろいろ見越して行動していた。

 他の県の知事たちは、

「国の方針が示されるまで、何もできない」

 ということで、ほとんど、様子見の状態だった。

 しかし、

「先手を打っておかないと、いざという時に、間に合わなくなる」

 というのが、まずは、病床の確保だったのだ。

 まず最初に、

「今自分たちで何ができるか?」

 ということを考え、さらに、

「国にはできないが、自分たちがしないと先に進まない」

 という発想から、まずは、

「病床の確保」

 だったのだ、

 こればかりは、国が手配してくれるわけではない。ただ、問題は病院に対しての保証だった。

 これは国が方針を決めてから、知事が実行するというもので、保証がハッキリしていないために、なかなか病床確保も難しい。

「とりあえず、キープしておく」

 というくらいしかできなかったが、それでも何とかキープだけはできた。

 その時はそれで十分だった。

「今できることを、できるだけ考えて実行する」

 というのが、知事をしていてのモットーであり、

「パンデミック」

 という非常事態でも、それは変わらない。

「逆に、緊急事態だからこそ、普段からできることをするというのが、そのやり方の基本だ」

 といえるのではないだろうか?

 そのおかげで、実際に他の県で、病床の確保が困難なほど、急激に患者数が増えてきた時も、医療ひっ迫を起こさなかった県として、また、知事の人気を上げることになったのだ。

 実際に、医療ひっ迫が起こった県は、その反省から、F県を見習うところが増えてきた。F県としては、

「最初からできることを、そして、その優先順位を考えて、実行しただけ」

 と言ったが、まさにその通りであり、

「それ以上でも、それ以下でもない」

 といってもいいだろう。

 知事の考え方として、それ以上何も言えないのだが、少なくとも、

「私の考えが、他の県でも共有されるのは有難いことです」

 といっていたが、それは本音だということだろう。

 パンデミックという緊急時において、他の県と連携を取ることは大切であるが、のんびりもしていられない。

 他府県との話になると、どうしてもまとまらないことも多く、下手をすると、

「こんな会議、ムダでしかない」

 とおもえる時もあるが、そんな時は、自分も右腕となってくれる補佐役、

 副知事は、他の案件で大変なので、副知事以外の腹心の部下に、大体の考え方は示しておいて、自分の代わりに動いてもらえるように対応していた。

 おかげで、病床の確保、あるいは、救急体制の充実という、今の時点では、後ろ向きではあるが、そんな体制を築いておけた分、他の県に比べて、死者の数は、圧倒的に少なかった。

 そんな知事を、県民が辞めさせるはずもない。

 いくら野党が、候補を擁立しようとも、圧倒的な大差で、現職知事の勝利は、決まっているようなものだった。

 そんな状態なので、県民も安心して、知事に県政を任せることができる。

 おかげで、知事と県民の関係は、他の県にはないほどの結びつきで、企業も、法人も、完全に、現職知事を推薦している。

 そういう意味で、この県は圧倒的に与党が強く、野党は、ほとんど支持者がいなかった。野党を全部合わせても、支持率が10%にも満たないという体たらくである。

 さすがにここまでひどい県はない。それを思うと、他の県がマネしたがるのも無理はなく、実際に、モデルにしている県もあり、その県から、

「このあたりの地方の県で、密約のようなものを結びませんか?」

 という申し出があったこともあった。

 もちろん、県知事には、大っぴらにそれを公言できる力はない。だから、この密約が効力を発揮するのは、

「非常事態の時だけ」

 ということで、依頼してきた県もあった。

 さすがにそれに対しては、他の県からも、

「時期尚早」

 という話になった。

 それは当然のことであり、

「国に知られるわけにはいかない」

 というのが大きかったのだ。

 ウイルスの研究所ができたのは、実は、今回の世界的なパンデミックができる前だった。

 さすがに、県のお金を普通に使うわけにもいかず、民間の研究所として開設し、県の予備費のようなものから、研究をサポートしていた。

 本当は、県内のある大学の教授が、

「近い将来、世界的なパンデミックが起こる」

 ということを大々的に話していた。

 だが、実際に起きる気配もないことから、教授は、まるで、

「オオカミ少年」

 と化していたのだ。

 最近では、台風などもそうだが、

「くるくる詐欺」

 などと言って、

「数十年に一度の台風」

 ということで備えていると、実はたいした被害がなかった。

 ということがあり、安心していると、その二つ後の、普通の台風だと思っていたことが、数十年に一度の被害をもたらしたことがあった。

 前の台風が、大したことがなかったので油断をしていたが、実際に警戒していれば、ここまでの被害はなかったということで、

「まるで、オオカミ少年台風だ」

 と言われるほどだった、

「天災なんて、そんなものだよ。忘れた頃にやってくるっていうじゃないか?」

 と、いう話もその時に皆が話していた。

「備えあれば憂いなし」

 とよく言われるが、F県というと、台風災害や、水害が多いところなので、災害としては、毎年、何かに見舞われていたのだ。

 そんなことを考えると、台風だけの問題ではなく、線状降水帯というのも、大きな問題だった。

 ということで、県の方針として、

「災害を未然に防ぐ開発に、金を掛ける」

 ということを目的として、大学の研究室が、災害予測、および、対策研究所というものを建設するということで、県からも出資をすると、国に願い出て、了承を得たことで、研究所解説に、県が一役買うことになったのだった。

 さすがに、すべてを県で賄うというわけにはいかず、一番の支援者が、県ということで、研究所も、半分、県公認のようなものだった。

 そういう意味では、

「県が出資した」

 といってもいい研究所で、実際に、研究内容の発注は、県からのものが多かった。

 天災が中心だったが、最近では、

「自然界のバランスが崩れている」

 ということで、伝染病の発生を懸念する声が大きく上がっていて、実際に、絶滅種が多い中で、

「虫の異常発生」

 などという状況も続いていたりした。

 異常気象による、洪水や水不足などは、毎年のことであり、電気が足りなくなりそうな年もあったりして、

「今の世の中、何が起こっても不思議はない」

 と言われる時代になってきた。

 そんな中で、F県知事の気がかりが、パンデミックだった。

 世界では、いろいろな伝染病が蔓延しているが、日本に入ってきて、そこまでひどい蔓延はなかった。

 数か月くらいは、皆が気を付けた時期はあったが、実際に日本で蔓延し、隔離患者がいたということはなかったのだ。

 だが、F県知事は、パンデミックが起こる、3年前に、

「数年後には、まったく未知のウイルスが流行り出して、世界を席巻する時期が必ずやってくる」

 という予言をしていた。

 ただ、本人もまさか、こんなにズバリ的中するなどと、思ってもいなかっただろう。

 実際に、研究所の建設の話を聞いて、いきなり飛びついたというのは、間違いではないが、

「研究所の所長と、県知事が昔からの知り合いだった」

 というのは、本当にただの偶然であろうか?

 ただの偶然だというのであれば、パンデミックに対しての話を、所長から県知事が聞いていた話だったのかも知れない。

 ここの所長は、名前を、宮本所長という。

 宮本所長は、下の名前が宗次郎。今年で45歳になる。

 F大学の大学院を卒業し、そのままF大学の生物学を研究し、特に、細菌であったり、伝染病関係の研究では、世界でも名が知れた博士だった。

 特に、15年前くらいに、アフリカで流行った伝染病に関しては大いなる研究結果をの推していて、特効薬の開発にかなりの助力をしたのだった。

 まだ、当時20代だったので、何かの賞を受賞というわけでもなかったが、その実力と才能は、生物学会では、

「日本に、宮本博士あり」

 と言われたほどだったのだ。

 もっとも、この研究の評価もあったことから、博士として、名実ともに認められたのであって、日本の学界でも、その発言力はかなりのものだった。

 だから、そんな宮本博士が、

「伝染病研究の研究所を作る」

 と言った時、大学も反対することもほとんどなく、しかも、県知事のお墨付きということもあって、研究所ができたのは、結構早かったのだ。

 研究所員も続々と集まってくる。

「あの、宮本博士が作った研究所」

 ということで、他の大学を辞めてまで、こっちに移ってくるという人もいたくらいだった。

 そんな研究員もいたくらいなので、研究員の募集は、それほど苦になることでもなかった。集まってくるのは、

「宮本博士を慕ってやってくる研究員」

 ということなので、宮本博士のことを、最初から分かっている人たちばかりなので、すぐに馴染めたことであろう。

 研究所は、作り始めてから、2年くらいで、運用できるくらいにまでなった。

 一番の難関は、

「最新機械をいかに手に入れるか?」

 ということだった。

 それには、宮本博士の知識が必要で、そういう意味でいけば、

「どこの業者のどの機械が一番いいか」

 ということは、やはり実際に運用する博士が一番よく分かっていることだろう。

 宮本博士は、F大学を卒業してから、しばらくは、海外の大学に留学していた。日本に帰ってきてから、F大学の大学院に進み、そこで博士号を取得。そして、そのまま大学で、研究を続けていたのだ。

 助教授となってからは、しばらく、研究から離れていた時期があった。海外の大学にいた頃の仲間が、ある薬を開発しようとしていて、その補助に回っていたのだ。

 その時、日本と、海外とを忙しく行き来していた。

 そのため、入国の際に、伝染病の検査などの面倒さから、

「彼の開発が一段落したら、今度は、伝染病関係の研究をしようか?」

 と考えた。

 どの伝染病というわけではなく、世界的なパンデミックが起こった時、どのようにすればいいのかということを、考える研究所である。

 空港などの検査の手間を、もう少し簡素化できたり、伝染病が新たに生まれた時のノウハウをどうすればいいのかなどということを、研究するグループである。

 もちろん、今ある伝染病を一つ一つ片づけていくのも大切なことである。

 しかし、そちらは、どの研究員も行っていることではないか。

「伝染病が起こって対処するのも大切だが、未然に防ぐことができれば、すばらしい」

 と考えるのは、宮本博士だけではなく、誰でも感じることなのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、4年前にやっと日本で落ち着けるようになると、宮本博士には、

「教授の椅子」

 が待っていた。

 甘んじてそれを受け取り、その勢いをかって、

「研究所を作りたいんですが」

 ということを学部長に直訴すると、すぐにOKの返事があった。

 その時、宮本博士は、

「まさか県知事が、助力してくれた」

 とは思っていなかった。

「ああ、あの県知事ね」

 と宮本博士は、後から知ると、知っていたのに、初めて聞いたかのような白々しい言い方をした。

 宮本博士は、それまでにも、いろいろな人から援助を受けてきた。

 さすがに、

「パトロン」

 というところまではなかったが、

「宮本博士になら、出資してもいい」

 という法人や企業もあるくらいで、やはり、学会でも名前が知れているだけのことはあるというものだ。

 特に、F大学では、

「絶対に、宮本博士を手放したくない」

 と思っているようで、何しろ、大学院時代にはかなりの研究を、F大学の名前で発表しているのだ。

 世間でも、

「F大学助教授、宮本博士」

 と言われていたのだ。

 それが、40歳になってから、教授に昇進した。

 本当は、博士として戻ってきた時に、教授として迎えることもできたのだが、宮本博士自身が、

「助教授の方が研究しやすい」

 ということで、敢えて、教授にならなかったのだった。

 それでも、研究所の所長ともなると、教授の肩書がいるだろうということで、

「今度は、受け取ってもらうよ」

 という学長と学部長の推しで、それならばと、

「分かりました。ちょうどいい機会ですね」

 ということで、博士は、教授のポストになったのだった。

 そんな彼が、伝染病研究所の所長だった、

 最初から、伝染病研究について、方針が固まっていたわけではない、漠然とした考えはあったのだが、

「何をどうしていいのか分からない」

 と思っていた。

 実際には、

「研究所のようなものを作って、そこで研究する」

 というのが、一番いいということなのだろうが、研究所をどのようにするかということは、ずっと研究しかしてこなかった人間には、どうしようもない。

 だが、今回は、県知事の力添えもあって、

「君の力にきっとなってくれるさ」

 ということで、県の中には、元研究員という人もいて、さらに、その人は、前の研究所発足の際に、所長と一緒になって、いろいろ勉強し、設立に至った経験から、

「君はこれから研究所を作ろうという大学のサポートにも回ってくれるようになってもらえれば、ありがたい」

 という県知事の話から、彼は、県で仕事をしながら、裏では、研究所の研究を進めていた。

 それは、その研究所が必要な施設かどうか、県で見定めるという役目を持った人であり、これから研究所をつくるというところには、アドバイザーのような形で協力できるという立場の人だった。

 そういう意味で、自由に動けるということから、どこの部署にも所属せず、

「県知事預かり」

 という形でフリーになっていた。

 たまには、知事の秘書のような仕事もしてもらっていて、ある意味。

「便利屋」

 という様相を呈していることから、まわりの目は、

「あの人は何をやる人なんだ?」

 と怪しがられていたが、それは、好都合なことだったのだ。

 研究所の方も、すっかりスタッフが揃ってきた。宮本教授は、所長としての仕事もあるが、研究員としての手腕の方も捨てがたい、

 ということで、県から派遣された研究員が、今では、所長の秘書のような仕事をするようになり、事務的なことなどは、すべて、彼に任せていた。

 そもそも、県にいる頃も、どちらかというと秘書的な仕事に手腕を発揮することが多く、県から派遣されたところで、秘書的な役割になることも少なくなかったので、こんな形になることは、県の方でも、最初から承知だったようだ。

「却って、この方がいいだろう」

 県知事は思っていた。

 なぜなら、知事は宮本博士の考え方や、行動パターンをよく分かっていたからだ。

「逆も真なり」

 ということで、所長の方も、県知事のことは、よく分かっていた。

「宮本県知事」

 と呼ばれた知事は、返事をして、執務室に、来客を招き入れた。

 そう、この県の知事と、F大学の宮本博士とは、実の兄弟だったのだった。

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