第2話 パンデミック全体
そもそもそのパンデミックが生まれたのは、ある国の某都市で、いきなり流行したのが始まりだった。
日本での流行は明らかにその時、水際対策を怠ったのが原因だった。
さらに、その病気を甘く見ていたのか、その伝染病の流行が始まっても、政府は、その国の国家主席を国賓として招こうなどという暴挙だったわけだ。
水際対策さえしておけば、もう少し国内パニックも抑えられたかも知れない。
慌てた政府のやり方は、まず、やっと重い腰を上げ、水際対策を行い、さらには、最初にやった大規模な作戦として、
「学校、保育園の閉鎖」
だった。
子供が、学校や保育園に行っている間、親が仕事に行くという、現在は、母親も働かなければいけないという経済状況になっているのに、学校や保育園を休みにされると、預けるところがなくなり、仕事にでるわけにはいかないという家庭が、相当数増えたことだった。
しかも、この政策は、ソーリが勝手に決めたことであり、他の政府要人は知らなかったというではないか?
このような時こそ、政府が話し合う必要があるのに、いくら緊急とはいえ、
「これでは、民主主義への挑戦ではないか?」
と言われたものだった。
さらに、それから一か月して、政府は、
「緊急事態宣言」
を出した。
他の国でいう。
「都市封鎖」
「ロックダウン」
というものとは違い、国家が国民の自由の一部を制限するというようなものではない。
日本の憲法では、
「基本的人権の尊重」
があるため、いくら行動制限を行おうとしても、あくまでも要請でしかないのだ。
他の国であれば、都市封鎖ともなれば、正当な理由のない外出は、処罰の対象となり、罰金刑が課せられたりした。
日本ではそんな罰則はなかったが、店舗の営業を自粛してもらったり、店舗によっては、休業要請ができないので、その分、
「時短営業」
などで、対応してもらうようになった。
さらに、コンビニやスーパーのレジには、透明のビニールシートが貼られたり、飲食店のテーブルやカウンターには、アクリル板の設置が勧められたりした。
そんな店舗には国が補助金を出すという形で、緊急事態宣言の解除後は、国や店ができるだけの対策をしていたというところであろうか。
しかし、実際には、そこまでうまくいかせるわけにはいかず、
「補助金が安すぎる」
あるいは、飲食店だけに補助金を出して、
「それらの、飲食店休業における、納入業者などへの補償はそこまでするのか?」
という問題もずっと尾を引いていた。
どこまでの対策を取るかなど、国家として、どこまですればいいか、そのあたりが大きな問題だったのだ。
最初は、医療や経済の専門家で形成していた、有識者団体を、国家の相談役として、さすがに国家も、本腰を入れて対策を取るようになった。
「パンデミック対策大臣」
なるものをおいて、
「国家の一大事」
ということで、事に当たらなければいけないと、国家だけではなく、国民も感じるようになった。
特に、死者が増えてきて、芸能人や身内に死者が出てくると、さすがに他人事のようには見ていられなくなったのだろう。
「平和ボケ」
の日本人もさすがに目覚めたというわけだ。
戦後、75年、さすがに、戦争を肌で知っている人は、もうほとんどいない。そんな時代になって、いきなり襲ってきた世界的なパンデミック。
「戦後以来の緊急事態」
と政府も言っているがまさにそうであろう。
それまでに、災害としては、未曽有の大災害に襲われてきたが、ある都市や、地方だけに限定されてきたが、全国、いや、全世界を巻き込んだ、このような緊急事態は初めてだからである。
とにかく、最初は行動制限で、
「経済よりも人命」
ということで、
「いかに、国民の命を守るのか?」
ということが、重大であった。
しかし、ウイルスが変異を繰り返し、それによって、感染の波が訪れる。
最初は、
「寒い時期のウイルスで、インフルエンザのように、冬の流行となるだろう」
と言われていたが、実際に、夏の間も流行してくる。
特に延期されたオリンピックが強硬開催された年は、夏に医療崩壊を招いた波が襲ってきていたのも事実だった。
「救急車を呼んでも、なかなか来てくれない。さらに、救急車に載せても、今度は受け入れ病院がないということで、そのまま、救急車の中で死んでしまう」
という事例や、
さらに、病棟がひっ迫し、宿泊施設もいっぱいということで、さらには、軽症者という認定から、自宅療養を余儀なくされた人が、急変し、救急車を呼んでも間に合わなかったという例、もっとひどいのは、急変したことを誰にも知られずに、結局そのまま自宅で死んでいたというのを、後から発見されるという例が、後を絶えなかったということであった。
かたやオリンピックで盛り上がっているのに、かたや、そうやって人知れず死んでいく人がいる。
知らない間に。人がバタバタを死んでいくのだ。
政府は、
「安全安心のオリンピック:
といい、さらには、
「パンデミックから立ち直った」
というスローガンであるオリンピックの裏で、医療崩壊を起こして、人がバタバタと死んでいく。
そんなことがあってもいいのだろうか?
政府のいう、安全安心というのは、オリンピックが安全であればいいということなのだろうか?
それではまるで。
「国破れて山河あり」
とでも言っているようなものではないか。
それこそ、これから復興を始めなければいけない状況であって、間違っても、
「パンデミックからの復興」
などという言葉は、口が裂けても言ってはいけないセリフではないだろうか?
逆に、そんなスローガンというのは、延期を決めた時。
「もし、再会できるのであれば、復興なった日本を世界に知らしめる」
ということで最初から決まっていたものを披露しているだけだ。
そういう意味では、たまたま大事にならなかったというだけで、復興もなにも、
「ちゃんちゃらおかしい」
といってもいいだろう。
ある意味、世界に日本という国を知らしめたとしても、それは、復興などという欺瞞に満ちた言葉で、世界を欺こうとしているが、そんなあからさまなことは誰もが分かっていて、日本政府のバカさ加減を世界に知らしめるだけになった。
犠牲になるのは国民で、ただ、
「オリンピックをすることで、巨万の富が飛び込んでくる」
という一部の実業家や政治家、そしてオリンピック委員会の連中のために行ったオリンピックだった。
選手によっては、
「呪われたオリンピック」
と思っている人も少なくはなかったであろう。
だが、これも不思議なことに、オリンピックが終わってその秋口くらいから、急に感染が下火になり、晩秋の頃には、
「もう、パンデミックは終焉といってもいいのではないか?」
とまで言われてきたのだった。
だが、その時期は1カ月くらいのもので、実際には年明けから、今度は別の変異株が襲ってきて、
「重症化はしないが、感染者は、軒並み、過去最高」
ということになった。
そして、政府は形ばかりの緊急事態宣言をまた発令した。
しかし、今度は、もう休業要請は行わない。時短営業は要請しているが、ただそれだけだ。
「じゃあ、何のための宣言なんだ?」
ということになる。
「国民への注意喚起」
というだけであれば、これほど滑稽でバカバカしいものはない。
要するに、それだけ、国民がバカだということを言っているようなものであり、しかも、さらに国民は政府が思っているよりも、さらにバカで、宣言が出ても、次第に感覚がマヒしていて、
「ああ、また出たか」
というだけで、別に自粛をすることも、本当に自分で、注意をするということもなくなってきた。
まるで、
「オオカミ少年」
の話のように、要するに、
「危ないぞと言い続けているうちに、みんなの感覚がマヒしてきてしまって、少々であれば、どうせ要請でしかないということで、誰もいうことを聞かなくなった」
というのが、本音だろう。
つまり、この話の結末のように、
「本当の悪夢がやってきた時には誰もそのことに気づかず、気が付けば、国家が破滅していた」
ということになりかねない。
少し前までは、核戦争の脅威というものが残っていたが、今は各国政府の思惑に関係のないところで、その足音は迫ってきている。
つまり、相手は人間ではないので、人情に訴えることもできない。
起こってしまえば、止めることはできるはずもなく、
「黙って、死を待つ」
という時代が襲ってきているに違いないのだった。
そんな時代が目の前に迫ってきていても、誰も気づかない。今回のパンデミックがその警鐘であったはずなのに、一度、オオカミ少年としてやり過ごしてしまうと、もう誰も気づかないだろう。
気づいた人はいても、それは少数派であり、大多数は、完全に、オオカミ少年の術中に嵌ってしまっているのだ。
まるで、旧約聖書の、
「ノアの箱舟」
のようではないか。
世の中がおかしくなってきたことで、神が、また新たに世界を浄化し、世の中を再度作り直そうとしているのを、ノア以外には誰も信じようとしない。
それが、
「慣れ」
というものから生まれてきたのか、それとも、他に原因があるのかは分からないが、少なくとも、集団意識で、全員が楽天的に考える世の中というのは、その修復は人間にはできない。
神も、かなり強引な方法でなければできないということなのだろう。
大規模洪水によって、人類をほぼ死滅させ、再度イブたちが、新たな、
「アダムとイブ」
として、新たな歴史を作るということなのだろう。
そういう意味で、歴史の大きな最初の節目は、この、
「ノアの箱舟だ」
といってもいいだろう。
そのうちに、国家は、ほとんど対策を打たなくなった。
要するに、
「国はお前たち国民のためには、もう何もしないから、自分の命は自分で守れ」
といっているのと同じである。
だから、急激に感染者が増えても、これ以上の経済の困窮は、経済界からの反発が大きくなり、選挙での票が他に流れてしまうのを恐れ、そして、自分たちの私腹を肥やしてくれるお金も入ってこないのは、政治家によっては、困るからだった。
要するに、
「国民の命よりも、私利私欲が大切だ」
というわけだ。
そして、そのため、今度はその役目を押し付けられたのが、各自治体である。
自治体が、自分の都道府県の状況を踏まえて、国に宣言発令の依頼を掛け、そして、それを国が了承することで、背年を実施できるというものだ。
あくまでも、自治体主導。この考え方は、他でも結構あったりする。
たとえば、風俗営業などの特殊な業界などは、国が一つ一つの県の細かい事情を把握しているわけではないので、その方針は、すべて、
「各都道府県の条例」
に委ねられることになる。
だから、それぞれの県で事情が違うので、
「隣の県では通用していたのに、こっちでは通用しない」
というわけだ。
そもそも、細かいことは、各市町村で違うことも多いだろう。
例えば、ゴミの出し方一つでもそうで、
「物によっては、これは燃えるゴミ。こっちは燃えないゴミというやり方や、その分別も、すべてが、市町村で微妙に違っている」
ということであった。
しかし、この全世界的なパンデミックを、各市町村単位にまで落とすというのはどういうことであろうか?
「完全に、投げやりだと思われても、仕方のないことだろう」
といえるのではないだろうか?
確かに、すべてを国が見るというのは、実に大変なことだ。
国が指導するのは、実際に行う指針の基本部分を作ることであったり、ワクチンなどを手配し、各自治体に滞りなく送り付けることであろう。
しかし、今までに、ワクチンが遅延したり、予約を取っていてもキャンセルさせられたりなどと、トラブルも絶えなかった。
しかも、今度は、3回目の摂取後というのは、本当にリスクの高い人間にしか、摂取をしないなどといいきって、
「なんと、医療従事者にさえ、ワクチンを接種しないつもりだった」
というのは、滑稽を通り越して、空いた口がふさがらない。
その後、またしても爆発的な感染が進む中で、医療従事者のだけは、その範囲を広げたが、ほぼ、ほとんどの国民は摂取することができないという状態だった。
実際に、病床使用率は、危険水位を超え、医療は崩壊寸前だというのに、あくまでも、
「経済を回す」
「ウイズパンデミック」
ということで、今までとは違い、
「経済優先、人命二の次だ」
ということになってしまった。
「自分たちの命は自分で守れ」
などと言って、実際に守れる人などいるわけもない。
要するに、見捨てられた国民に、政治家は、私利私欲に走ったということになるのだろう。
もう、国民と、政治家の見ている方向は、まったく違うところを見ている。
国民もバカが多いのか、
「政府がいいというのだから」
と、どんどん警戒を解いていく。
国家が完全に割れてしまってきているのに、野党も、まったく機能しない。それどころか、こんな国民から、バカにされている底辺のような存在だ。
「日本も終わったな」
というと、
「いまさら何を。そんなの前から分かっていることじゃないか?」
と、すでに諦めの境地の人も少なくないのだった。
そんな時代になって、自治体が、結構力を持ってきたところもあった。
「これまでのように、中央にばかり、気を遣わずに、これからは、我々が主導権を握って、逆に国を動かすくらいの気概があってもいいのではないか?」
というところも徐々に増えてきたようだ。
さすがに、知事が前面に立って、それをやってしまうと、非常にまずいことになる。もちろん、最終的には、自治体の力を示すことが大切なのだが、そのためには、水面下で、いろいろな工作が必要だ。
それだって、中央が今までやってきたことであり、自分たちが事を起こすのに、慎重になるというのは、
「策を弄する人間は、自分がやられていることに案外気づかないものだ」
というもので、それだけに、水面下で動くことが絶対なのである。
「相手に悟られないことが、成功の秘訣であり、悟られさえしなければ、まず失敗することはない」
ということで、絶対条件は、
「秘密裡」
ということであった。
「下手に動けば足元をすくわれる」
というのもこういうことであり、何しろ政権を掌握し、実際に政治を行ってきたということでは、ノウハウにしても、自分たちよりもかなりたくさん持っている。
ということである。
ただ、一つ大きな追い風として、
「このパンデミックの時代を背景に、国家は次第に、面倒なことを、子会社として見ている我々に丸投げにしてきた」
ということである。
それだけ中央の力が落ちてきたということであり、いくら今まで半世紀以上も、一党独裁のような形でやってきたのにも陰りが見えてきたということであろう。
もちろん、その間には、一党独裁ではうまくいかない時は、
「勢いのある政党」
であったり、勢いというよりも、
「ただ、組織票を持っている」
ということで、票目当てだけのために、与党に組み込むことで、自分たちが与党でいられるという。いわゆる、
「なりふり構わない」
というやり方で、政治を行ってきたのだった。
実際に、与党を監視するはずの野党は実に情けなくなっている。
野党第一党と言われるところが、政府の批判ばかり、何かあれば、
「内閣不信任案」
という伝家の宝刀を、簡単に抜こうとするのだ。
いざという時のための伝家の宝刀なのに、そんなに簡単に抜いていては、相手に見透かされるということくらい、なぜ分からないのか?
そんな野党だって、肩書だけを見れば、大変な人ばかりではないか?
元弁護士、元医者。元科学者などと言った、有識者でもいいくらいの専門家団体の集まりなのに、どうして、こんな
「小学生の喧嘩レベル」
と言われるようなことしかできないというのだろう?
そんなことを考えていると、本当に情けない団体だ。そういう意味では国民もちゃんとわかっていて、そんな、
「批判ばかりするくせに、代替え案をまったく出そうとしない、行き当たりばったりの野党に政権を譲るくらいなら、まだ現状の方がましかも知れないな」
と思うのだった。
どうせ、政権を握っても、皆が皆、人に責任や対策を丸投げするだけで、誰も動こうとしないに違いないからだ。
それに、
「実際に動かれて、あらぬ方向に舵を切られでもすると、修復不可能なところにでも連れていかれると、国家の崩壊となる」
ということになる。
そういう意味で、自治体単位とはいえ、行政としての経験のある、自治体の知事が、政治を動かすというのは、野党に比べればよほどあてになり、信憑性があるのではないだろうか?
そんな自治体の中で、政府をうまく誘導することができるところが現れた。
元々は政府にいたこともある知事なので、中央のやり方や考え方が手に取るように分かるということであった。
政府にとって、いかに自治体に自分たちの仕事を任せるかということを、なるべく知られないように、自治体に移行できればと思っていたが、かといって、政府の方も、主導権を自治体に持っていかれると、政府の意向がまったく反映されないということも困るのであった。
そこで、知事会の中で一番力の強い知事と、政府の窓口とがうまく話をすることができればということで、この県の知事が選ばれた。
実際に自治会の会議の中でも、重鎮としての迫力のようなものがあった。
ただ、彼は会議の最中は、ほとんど自分から口を開くことはない。いつも最後まで目を瞑って、冷静に話を聞いているだけだった。
それだけに、迫力と威厳を感じさせる。そして、最後にゆっくりと目を開けて、自分の意見をいうのだった。
たぶん、この知事は、自分の立場というものをよく分かっていて、まわりの知事から意見が出てくるのを、妨げることはせず、話を聞きながら、自分の意見をずっと暖めていたのだろう。
かといって、彼は自分の意見を最初から持っているようで、最期に自分の意見を言いながら、他の人の意見を一つ一つ、どこが違うのかということをしっかりと述べてくれる。
まるで、どこかの予備校の、
「赤ペン先生」
のようだ。
と、若手知事から言われていた。
それだけに、知事の会議が行われている時、皆、活発に自分の意見をいう。
このような長老のような人が控えていれば、若手知事は気後れして意見が言えないものだが、逆に彼は、若手に、
「どんどん、意見を出しなさい」
と言っている。
とは言っても、そんなに簡単に委縮している人たちから意見も出てこないものなのだろうが、いつも最後に一人一人の意見と自分の意見の違いは同じところを、キチンと話すことで、若手の連中も、
「自分のどこが悪くて、どこがいいところなのか?」
ということが分かっているのだった、
しかも、彼のうまいところは、
「まず、悪いところ」
を先にいって、その後、
「とはいっても」
と言いながら、
「では、いいところとして」
といって、悪いところをカバーするような言い方をする。
普通に、評論することを商売としている人がよく使う方法であるが、下手な言い方をすれば、白々しく感じられてしまうだろう。
そうでもなく、相手に信用させる言い方を政治家ができるというのは、選挙でもなかなか使わない手法ということで、結構、政治家のような人に使いこなせないようなテクニックを使えるということで、中央との折衝には、十分な力を発揮できるようだ。
どうしても、地方と中央というと、中央の意向が生きてしまうが、地方の要求を最初にうまくまとめていれば、対等に話もできるというものだ。
それを考えると、この知事はうまい立ち回りをしている。さすがに中央の大臣やソーリであっても、なかなか一筋縄ではいかないと思っているだろう。
だが、逆に地方と中央の意見にさほど差がない時は、話が早い。
それだけの理解力もすごいものがあって、政府の言いたいことを、自分なりに、解読してそれを話し、そして、自分たちの主張の根幹を少し話すことで、政府要人にも、
「なるほど、言い方が若干違うだけで、言っていることは同じではないか」
ということで納得させることができる。
その時、少し大げさに知事側の意見を広げた形でいえば、同じ内容でも、少し知事側に歩みよった裁定を下してもらえるようになるようだ。
つまり、普通に台頭にしているつもりでも、普通に話せば、国側から丸め込まれる形で、自治体は結局、
「国の言いなり」
という形になりかねないのだった。
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