パンデミックの正体

森本 晃次

第1話 オリンピック問題

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年7月時点のものです。パンデミックに関しては、似たような事例がありますが、あくまでもフィクションです。「あくまでも」です。お察しください。


 あの時、誰が世界を恐怖のどん底く叩き落すかのような、パンデミックが起こるなど、想像したことだろうか?

 今から約5年前になるであろうか? その年は、日本では、国際的な大イベントとして、

「オリンピック、パラリンピック」

 が開催されるということで、世間も盛り上がっていた時代だった。

 ただ、それが本当にいいことなのかどうなのか、若干の不安が付きまとっていたのは、ウソではない、

 かつて、日本では、

「戦後復興を世界に知らしめるという意味を込めて」

 ということで、今から、約60年前くらいに開催された、

「東京オリンピック」

 であった。

 インフラ整備や、競技場建設、さらには、街の見栄えをよくするために、道や住宅の整備など、人手は、

「まるで猫の手も借りたい」

 というほどに必要だった。

 そのために、今ではあまり聞かない、

「日雇い労働者」

 というのが、溢れていた。

 彼らは安い賃金で、近くの下町のようなところに、下宿のような、木でできたベッドだけを借りる形で寝泊まりをしていた。

 正直恰好も、シャツにズボンにヘルメットというだけの、いわゆる労働者と呼ばれる人たちで、

「その日一日を暮らせれば、それでいい」

 という感じだった。

 また、田舎から出稼ぎという形で出てくる人も結構いた。

 都会で、日々、土方のようなことをやって、そのもらえたお金を田舎に送金していたのだ。

 そうなると、自分で使える金はそれほど残らない。食事や酒で、そのほとんどが消えてしまったことだろう。

 それでも、職はいくらでもあった。

「ここの工事が一段落すると、俺は、次の職はもう決まっているんだ」

 といっている人も結構いたことだろう。

 建設業者が、同じであれば、再度雇用する必要もなく、何人かは、ここから連れていけばいいからである。

 実際に、一つの業者が、いくつもの工事を請け負っているということは少なくはなかった。

 それだけ工事の数に対して、建設業者の数が少なかったかということか。

 いや、建設会社の数が追いつかないほどに、オリンピックという行事に対して、相当にいろいろな手が加えられることになったかということである。

 何しろ、

「オリンピック開催」

 ともなると、それは、国家の権威であり、体裁、つまりメンツなのである。

 そんな中で、いくら戦後復興の時代の名残だからといって、バラックなどが残っているのを見られるわけにはいかない。何と言っても、

「戦後復興を世界に示すイベント」

 という意味でのオリンピックなのである。

 そのことを政府も業者も分かるだけ分かっている。東京都も、それだけの覚悟を持って当たらなければいけないということになるであろう。

 そんなオリンピック開催において、まずは、約開催7年くらい前に、その時の開催地が最終決定されることになる、

 そのためには、それ以前から、候補の国が、それぞれ候補地を国内で決める必要がある。それまでに、また数年がかかるというもので、オリンピック開催の年からさかのぼること、十数年が、開催までの期間ということになるのだ。

 そのために、まず候補国の中で、開催都市を決定する必要がある。

 いくつくらいの候補地があるのかは、その国の規模、国土の大きさ、さらには、候補となる自治体の規模や財政など、いろいろ考えられることになる。

 ただ、オリンピック開催ともなると、全員が全員、手放しで賛成ということはないだろう。

 何かのイベントや、それまでの体制を変えるということになると、いろいろな問題が浮かび上がってくる。

 例えば、

「一つのルートに新幹線が開通することになる」

 といえば、その土地の住民や、産業界の人たちが、手放しで喜ぶとでも思っているのだろうか?

 そのためにはいくつもの、段階がある、新幹線を通すということは、

「在来線をどうするか?」

 ということであり、今までそこを特急が通っていて、特急の停車駅が発達していったのか、発達しているところに特急が停車するようになったというパターンそれぞれがあるのだろうが、そこに新幹線が走るからといって、同じ線路の上を走るわけではない。

 別に新幹線用の線路を敷いて、そこに新幹線を走らせるということになる。

 今全国にあるほとんどの新幹線がそうであるように、ほとんどは、在来線とはまったく別で、山間をトンネルで結び、そちらを走るようになる。

 かつての在来線とは別に新幹線の線路を作るわけだから、その費用も、バカになるものではない。

 さらに、今まで発達してきた、特急が停まってきた駅での街は、完全に、過疎化することは目に見えている。

 なぜなら、

「新幹線があるのだから、従来の特急列車を走らせる必要はない」

 ということで、在来線に特急が走ることはないのだ。

 しかも、山間を走る新幹線の駅は、山間にできる。そこから、近くの大都市には、バスや、在来線にて向かうことになるので、とてもではないが、少々の距離があれば、わざわざ今まで流行っていたとはいえ、そちらに出向くことはしないだろう。

 何か、観光するものが揃っていれば別だが、会社や住宅があるだけでは、衰退の一途を辿ることになるだろう。

 さらに、在来線も、客が減ってくると、今度は、JRとしての経営もままならなくなっていき、最期には、

「第三セクターへの移行」

 ということになる。

 学校もあれば、会社や、病院などもあるので、いくらJRが赤字だからといって、廃線にはできない。これまで、新幹線が開通してきた他の土地同様に、地元自治体に買い上げてもらって、後は、自治体運営を行うしかなくなるわけである。

 そんな状態で、新幹線が開通しても、地元は苦しむだけである。

 つまりは、新幹線の維持費であったり、第三セクターの運営、さらには、過疎化していく街の問題など、さまざまな問題が山積されることになるのだ。

 それらの掛かる費用は、市県民税で賄われるわけだ。

 国が、

「新幹線を通してやる」

 といっても、最終的には、地元人間が苦しむだけになってしまって、

「何のために新幹線を敷く必要があったんだ?」

 ということになる。

 下手をすれば、地元政治家の、宣伝のために利用されたということも考えられる。

「新幹線をこの街に通す」

 という格好いいことを言って、それを公約にでもしようとしたのだとすれば、すでに、新幹線の開通は決まった後だということであり、実際の県民は騙された結果になったといっても過言ではないだろう。

 さすがに、オリンピックは、この新幹線ほどひどいものではないかも知れない。

 いや、実際には規模からいうと、もっとたくさんの人や、建築事業が絡んでいることから、こちらの方が深刻なのかも知れない。

 どちらにしても、

「甘い言葉には、必ず裏がある」

 ということであろう。

 オリンピックの時もそうだったが、需要と供給というものが経済学にはあり、オリンピック開催前は、

「需要が相当な数あり、人手不足なくらい」

 だったことで、どんどん、公共事業や、ゼネコンなどが、儲かる時代だった。いわゆる、

「オリンピック特需」

 と言われるものだ。

 しかし、これも、当然のことながら、オリンピックが終わるまでのことである。

 オリンピックが終わってしまうと、もう需要の必要はなくなり、オリンピックのために作った競技場や選手村は、その役目を終えると、跡地でしかなくなってしまうのだ。

 もちろん、政府も、その跡地の運営に関しては、いろいろ考えていただろうが、競技場などは、プロのチームに使用してもらい、活性化させたり、いろいろなイベントを催して、集客するなどということである。

 しかし、実際には、それは、完全に、

「取らぬ田向の皮算用」

 であり、オリンピックが終わると、使用していた会場の多くは、廃墟と化す場合も多かった。

 中には、遊園地や公園に改造したり、マンションなどを作ることで、再利用ができたところもあったが、実際に、そこまでうまくいったところはそんなにもないだろう。

 それこそ、新幹線が開通した後、誰も注目しなくなった、在来線の元特急が停車していた街と同じである。

 少々のイベントや何かをしても、そもそも、特急が停まるから賑わっていたのだ。

 温泉にしても、交通の便がいいから、後は、他の観光地と併用するから、来てみようと思うのであって、それがなければ、ただの廃墟とした街でしかないのだ。

 しかも、新幹線の運営を県民に任せるということで、税金を今までに比べて多く取られることになる。

 地元が繁栄するならまだしも、新幹線を作ったということだけで、とばっちりを食らうことになるのだ。

 始発と終着駅の街は賑わうかも知れないが、途中にある、

「ただの停車駅」

 は、ロクなこともないのだ。

 それを思うと、

「新幹線開通にしても、オリンピック招致にしても、勝手に国が体裁だけを考えてやっただけのことで、地元のことは何も考えてはいないのではないか?」

 と言いたくなるのは、当たり前のことであった。

 政府が地元のことを何も考えていないのは分かっていた。しかし、これが、さすがに首都ともなるとそうもいかない。しかも、

「元、オリンピックが行われた土地」

 ということで話題になり、海外にも公表されると、何のためのオリンピックだったのか、分からないというものだ。

 そんなオリンピックというものが、最近になって、

「世界オリンピック委員会の私利私欲のために行われるのだ」

 というウワサが流れた。

 それは、日本で開催されたオリンピックの時、ちょうど、世界的なパンデミックが襲ったことで、最初、本来行われる年から、延期したのだが、その翌年、さらに、パンデミックが猛威を振るい、さらに、ひどい流行となり、しかも、医療がひっ迫し、医療崩壊を起こしている日本で、

「今年は開催」

 などということをほざく連中が増えてきたのだ。

 しかも、その開催理由として、

「パンデミックからの脱却と復興」

 ということであったが、実際には、まさに流行が著しく、バタバタと人が死んでいくのを横目に見ながら、

「オリンピックを開催する」

 といっているのだから、これほどひどいことはない。

 さらに、世論調査を行えば、

「中止、再延期という意見が国民の、七割を超えている」

 という状況で、政府や、開催都市の知事は、開催を強硬するということだったのだ。

 そんな状態で、国民は政府の体制を批判していた。ネットでは政府批判などが横行し、

「そもそも、オリンピックが得になるのか?」

 という、

「そもそも論」

 が出てきた。

 これは、新幹線計画と同じで、国家や自治体が、オリンピックを招致したことで、いかにロクなことにならないかということを、いまさらながらに感じさせるものだった。

 実際には、オリンピックが終わって、一年くらいが過ぎてから、世間がオリンピック自体を忘れかけている時、当事者たちが、その後始末をさせられるという理不尽な状態で、県民も、やっと、その時になって、オリンピックというもののカラクリや、特需だったということに気づくのだ。

 それは、まるで、値上げ前の、

「駆け込み需要」

 に似ている。

 例えばガソリン代が値上げするとなると、その数日前からガソリンスタンドには長蛇の列ができることになる。

「少しでも、安い間に入れておく」

 ということなのだろうが、考え方を変えると、これもバカみたいなことである。

 ガソリン代がリッターで20円上がるとしよう。満タンで40リッターだとすると、その差は、千円にも満たないものではないか? そのために、ガソリンスタンドにわざわざ並んで入れるということは、下手をすれば、1時間待ちということにもなりかねない。

 1時間、千円未満というと、普通の労働の時給よりも安いではないか?

 つまり、1時間を買ったと考えると、その値段では安すぎる。他のことをしていた方が、建設的だし、なによりも、イライラして待たなければいけないストレスを考えると、

「駆け込み需要」

 というものに、何のメリットがあるというのだろう。

 実際に、値が上がってからのガソリンスタンドには、数日は誰も寄り付かない。ほとんどの人が満タンにしているのだから、一日で、満タン分走るのであれば分かるが、そうでもなくて、休みの日にちょっと乗るくらいの人は、かなり経ってからでしか入れにこない。

 つまり、そもそも、使う金がそれほど高額でないのであれば、何も、並んでまで入れる必要があったのかということだ。

 よほど、家計簿もキチンとつけていて、一円でも無駄にしないような神経質な人であれば、それも仕方がないともいえるが、しょせん、

「生活の一部がガソリン代というだけだ」

 と思っている人には、そこまで考えることはない。

 要するに、

「まわりが皆、こぞってガソリンを入れにいくので、自分も同じことをしないと、損をした」

 と思うからではないだろうか?

 それこそ、

「集団意識のなせる業」

 というものである。

 そんな値上げの瞬間が、オリンピック期間だとすれば、

「駆け込み需要」が、「オリンピック特需」

 であり、そのあとに訪れるのが、

「閑古鳥が鳴いていて、誰も見向きもしなくなった競技場や、ガソリンスタンドのようなものだ」

 といえるのではないだろうか?

 だから、値上げのシステムによって、社会現象がどうなるかということは、絶えず世の中で値上げが行われているので、分かりそうなものなのだが、やはり、値上げ前にはガソリンスタンドに長蛇の列を作るという、

「学習しない連中」

 が、そのまま、

「オリンピック特需」

 を見逃し、その後に訪れる、不況とインフレが一緒に襲ってくるような、雁字搦めになった経済困窮を、ただ待っているだけになるのだ。

 数回前のオリンピックを開催したことで、

「経済破綻してしまった国がある」

 といって、世界的に問題になったことがあったではないか。

 それでも、何がよくてオリンピック招致をしようというのか、それは、もう考えられることは一つであり、

「一部の特権階級の懐が潤う」

 というだけのことである。

 いわゆる、

「中抜き」

 というやり方がある。

 これは、子会社や孫会社に丸投げしたりした時、その利益を親会社がそのまま抜く場合などがあげられるが、今度のオリンピックの場合では、

「人材に関しての費用の中抜き」

 だった。

 というのも、

「オリンピックのような一大イベントともなれば、かなりの人材を必要とする、アルバイト、ボランティアを含めてのかなりの人数になるだろう」

 ということが、まず前提で、

「そのために、アルバイトなどを派遣する人材派遣のために、国から、一人時給として十数万円という金を受け取っておいて、そして、実際には、当然のごとく、二千円くらいの時給を、労働者には支払う」

 というものであり、その差額を、人材派遣会社が懐に入れるという仕掛けだった。

 それをマスゴミにすっぱ抜かれ、

「いったい、誰のためのオリンピックなのだ?」

 と、世間は紛糾した、

 しかも、その会社の社長が、元々、かつての政治家であったことで、

「政府から、金が流れている」

 とも言われていた。

 そもそも、この男は、

「日本経済をダメにした男」

 ということを言われてきた人間でもあったことが、相当、世間から反感を買い、

「なるほど、オリンピックを政府が強引に強行しようとしているのは、このためだったのか?」

 と言われるようになると、

「日本の政治と経済の癒着」

 さらに、

「国内外のオリンピック協会との癒着と金儲け」

 ということがクローズアップされたのだ。

 アメリカの大統領から、オリンピック委員会の会長は、相当な言われ方で、

「金の亡者」

 とまで言われているほどだった。

 それでも、何とかオリンピック開催にこぎつけ、日本選手の活躍ということもあって、一応の成功という形で幕を下ろしたが、癒着などの解決は一切なされず、すべてがうやむやに終わった。

 結局、政府が掲げた、

「パンデミックからの復活」

 というスローガンは曖昧になってしまったが、結果、大きな問題を引き起こすことなく終えたということになった。

 ただ、今回のオリンピックは、実際に悲惨だった。

 それも、開会の一か月前から、スキャンダルが次から次に起こり、スタッフが数名辞任に追い込まれるという、

「異例の事態」

 が発生したことも忘れてはいけない。

 人権問題に発展しそうな、人道上の問題を抱えた人間を、オリンピックのスタッフに加え、それが、開会の一か月前にも迫って発覚したというのだ。

「ひょっとすると、リークは最初からあり、オリンピック開催の反対意見が過熱し、熟した時期に合わせて公表する」

 という、磁気を狙ったかたちのリークだったのかも知れない。

 それを思うと。

「本当に、今回のオリンピックの何が成功だったというのか?」

 といえるだろう。

 そもそも、オリンピックというのは、

「何をもって成功した」

 といえるのだろうか?

 そんな問題提起をした大会でもあっただろう。

 実際にオリンピックが終わってから、すぐにあった解散総選挙で、与党は負けはしなかったが、その後の総裁選で、

「今のままのソーリが続いたら、党の票が減って、比例代表で残った我々が、今度は議員になれなくなる」

 ということから、総裁交代という意見が多く出た。

 それに対して、さすがに当時の幹事長が、続投を望まない趣旨の話を、ソーリにしたことで、ソーリは、次回の総裁選に出馬しないということになり、少なくとも、

「オリンピックへの強硬開催が、ソーリ辞任に繋がった」

 ということであり、

 それが、今回のソーリ交代になったとして、本人は、どちらがよかったというのか?

「ソーリを辞めてでも、金が入った方がよかったのか?」

 あるいは、自分のソーリ在任中に、オリンピックを開催することで、

「オリンピック開催時のソーリ」

 という名が残ることをよしと考えたのか、

「辞任しなければいけなくなる」

 という状況になることを想像していなかったのか?

 さらには、もう一つ考えられることとして、

「オリンピック開催は、すでに決定事項で、世界オリンピック協会のトップが儲かるためには、一国のソーリごときに、逆らうだけの力がないということで、国民を担保にして、ソーリをしていたような人間が、最期には、その国民の犠牲をいとわない形で、オリンピック委員の一部の人たちに対する、まるで奴隷のような駒として扱われただけなのか?」

 ということなのであった。

 つまり、政府として、世界で暗躍している、

「オリンピック協会」

 という巨大組織の言いなりになり、国民を犠牲にしてでも、彼らの金儲けにしたがわなければいけなかったということなのだろう。

 そういう意味では、

「政治家も犠牲者だ」

 という人もいるかも知れないが、

「国民を盾にした時点で、情状酌量の余地はない」

 と言われても仕方がない。

 あれだけ、

「安全安心」

 という言葉を口にしていたのだが、実際には、かなりの数の感染者を出したのも事実だった。

 本来なら、あの頃に、もっと徹底して感染対策を徹底する形を国が指導していれば、その後の爆発的な感染、そして、決して収まることのない時間が積み重なっていって、結局、誰も何も言わず、最期には、果てしなく変異を繰り返す病原菌とのいたちごっこになってしまい、国民も、そんな状況に慣れたのか。医療崩壊しても、

「自分が罹らなければいい」

 とでもいうかのように、医療法愛している中で、関係のないふりができているのが、現実だった。

 それを思うと、

「あまり長引かせるというのは、ロクなことにならない」

 といえるだろう。

 つまり、そんな中において、ソーリは交代させられ、

「そういえば、そんなこともあったな」

 と、一年もしないうちに、まるで何があったのかということを皆が忘れ去っているということになるのだ。

 果たして、強行までしたオリンピック。

「ソーリを辞めさせられることになってまで、一体自分はどんな存在だったのだろう?」

 と、当時のソーリは、今では大いに後悔しているかも知れない。

「せめて、国民が、悪評を口にしていたとしても、さすがに忘れられるよりはマシだったのではないか?」

 といえるのではないだろうか?

「一体、オリンピックというのは、誰のための、目的は何だというのか?」

 それを誰が証明してくれるというのか?

 少なくとも、一年経った頃には、そのソーリの存在感も、オリンピックがあったということすらも、

「遠い過去」

 と化してしまったのだということであろう。

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