アグネス商会

 Side:アグネス商会


 ぐふふっ、ついに塩田を手放す気になったか、あの小娘め。

 話があると突然商会にやって来たのは、以前騙した商会の一人娘だ。

 何をしに来たのかと思えば、取引があると言い出した。

 塩田を差し出すから、我が商会の取引先を寄越せという。


 ワシは内心ほくそ笑んでその条件を受け入れた。

 最初は渋ってみたが、金も追加で出すというのだ。それも大金だ。

 マヌケめ、この小娘は交渉のことをなにもわかっちゃいない。


 それに、あの取引先にはほとほと困っていたのだ。

 使えないものばかり寄越す取引先だ。酒はうまいが、それしか取り柄がない。

 それよりも塩だ。国内で海と接するのはこの領地だけなので、ワシが国内すべての塩の生産を握ることになった。

 他の領地は必然的に我が商会の塩を求める。たとえ、他国に塩を求めても割高で、塩がなければ食事は味気ないものになり、領民がいずれ暴動を起こす。

 その矛先は領地を治める領主だ。ワシはで売っているのだからな。

 これでようやく、我が商会は塩だけで商売が成り立つことになった。


 交渉で手放した酒だが、嗜好品の酒よりも日常的に使う塩の方が利益はある。

 酒は単価は高いけれど、平民は貧乏だから買った酒を薄めて飲む。

 だから、次の酒を買うまでに必ず期間が空くため、購入回数が減る。

 ワシのような富裕層であれば、湯水のごとく酒を飲めるのだがな。


 それに比べ、塩は永遠に需要があり、消費され続ける調味料だ。

 塩があって困ることなんてことはまず起こりえない。

 それだけ塩は生活に必需品なのだ。


 ついでとばかりに、抱えている在庫の商品も小娘に色々と押し付けてやった。

 押し付けられた商品に娘は慌てていたが、なにやら覚悟を決めて受け取っていた。

 後から難癖を付けられても困るので、さっさと契約を済ませることにする。


 娘は契約書の内容をすべて読み、納得した様子で署名する。

 まったく、愚かな女だ。

 先代も愚かだったが、長や代理と名乗るのであれば、賢くなくてはいかん。

 この契約書はだ。もうワシにもこの契約は反古には出来ない。

 つまり、この小娘にとっては、手遅れという状態になる。


 魔法の契約書は、この世界を創り、見守っているという女神との誓約書でもある。

 女神との誓約書なので、騙すような嘘の内容を書くことはできない欠点はあるが、そんなものは今回は関係ない。

 小娘の商会が持つ塩田さえ手に入ればいいのだから。


 本当に愚かな交渉だった。酒の中には売れもしない酒もあったのだ。

 あんなものをあの小娘が売りさばけるはずがない。

 まあいい。国内の塩の生産はすべてワシのものになったのだ。


 領主がなにやら若い塩職人を数人引き抜いておったが、この地に新たに塩田を作るための土地はもうない。

 なにか策があるのかもしれないが、先手を打つとするか。

 使える労働者を大量に雇って、塩田の世話をさせよう。

 資金は潤沢だ。多少使っても、これからいくらでも回収できる。




 あの領主はワシとの取引を打ち切ったのだ。

 だが、これで領主に仲介料も取られずに、お貴族様に塩が売り込める。

 大金がワシのもとに転がり込むのが手にとるようにわかる。

 そのうち、領主がワシに借金する未来すら見える。

 いけ好かない領主の悔しさに歪んだ顔を拝めると思うと、笑いが止まらんわい。


 しかし、小娘のところに忍ばせたネズミからの連絡が遅いの。

 まあ、そろそろあれも始末しようと思っていたところだ。

 連絡がなくなろうが、すでに塩田はワシのもの。

 もはや、ワシの商会に集まる金の流れは誰にも止められはしない。




 今日になって、塩の売上が徐々に悪くなっていると報告を受けた。

 塩の生産は間に合っているのにも関わらずだ。

 今までは少し砂がまじった質の悪い塩で、誤魔化しながら対応していた。

 だが、今は塩田も増え、職人の手足となる労働者もたくさん雇ったはずだ。

 それなりに良質な塩で対応ができているはずだ。


 売り上げが悪いのは、どういうことだ?

 酒を飲んでいたので、このときはそういうこともあるかと楽観視して放置した。

 仕事中に酒を飲むワシから、従業員の心が離れ始めていることにも気づかずに。




 塩の売上がさらに下がったと報告を受ける。

 さすがにまずいと思い、部下に市場の調査を任せることにした。

 あとは調査結果を待つだけだ。酒でも飲むとしよう。

 売上が下がった原因が、きっと見つかるだろう。




 今日は職人たちが仕事を一斉に放棄して辞めたという報告を受けた。

 塩田にいる老人どもに難癖をつけられ、言い争いになったのが原因のようだ。

 職人たちがいなくなった結果、塩を作れるのは素人の労働者だけになった。

 塩の生産は職人でなくとも、労働者たちがきっとなんとかするだろう。

 職人たちに払う分の給金が減るから、売上が下がっている今は助かるな。




 部下が市場を調査した結果をワシに伝えるのだが――。

 原因となるものは見つからなかったそうだ。


(そんなバカな!?)


 資料を見ながら部下に説明を求めるが、それ以上のことはわからなかった。

 ワシのもとに報告が届くまでの間に、調査結果が捻じ曲げられたか?

 だが、資料に不備は見つからなかった。

 納得は出来なかったが、ワシにはどうすることも出来なかった。

 仕方なく、引き続き調査をするようにと部下に指示を出した。




 塩田は職人が抜けたことで、現在は労働者たちだけで塩を作っている。

 老害どもの指示で動いてるそうだが、労働者に不満は溜まっていないだろうか。

 労働者たちに任せてできた塩の質は、以前の砂が混じった粗悪なものだった。

 どの塩田の塩も同じ状況らしく、早急に改善しなければならない。

 このままだと大赤字だ。


 仕事ができない口ばかりの老害どもには、これ以上銅貨一枚だって払いたくない。

 だが、払わないわけにはいかないのが現状だ。

 職人たちが戻ってきてくれさえすれば解決するのだが……




 完全に経営が傾き始めた。商会で働く従業員に払う給料だけで精一杯だ。

 どうにかしたいのだが、我が商会の稼ぎはもう塩田しかない。

 王都や各領地に塩を運ぶ運搬費だけでも完全に大赤字だ。


 塩田の状況も最悪だ。ついに、労働者たちの不満が爆発した。

 口だけの老害たちに罵詈雑言を浴びせて、労働者たちは次々と辞めていった。

 塩の生産量は見るからに減り、質も最低を通り越して最悪という状況だ。

 砂が大量に混じり、もはや商品にもなりそうにない。


 大量にいた労働者がいなくなって、老害どもが仕方なく働き始めた。

 労働者たちに任せていた力仕事も、自分たちでしなければならない状況。

 残された老害たちはすぐに身体を壊していった。当然の結果だ。

 奴らは治療費を求めていたが、働けない奴はその場で解雇にした。

 我が商会は働けない奴にまで払う資金なんて、とっくの昔に底をついていた。




 もうダメだ、おしまいだ。我が商会の塩を買ったところから、次々と苦情が来る。

 従業員の給金を支えていた貴族との取引もすべて打ち切られた。

 挙句の果てには、王都にある支店の従業員も職場を放棄して消える始末だ。

 それが発覚したのは、王都の支店に塩を届けた御者からの報告だった。


 詐欺まがいの塩を買った客からの苦情に対応するのは、もちろん商会の従業員だ。

 従業員が塩を作ったわけではない。だが、そんなことは客には関係ない。

 謂れのない暴言にさらされ続けて、支店にいた従業員たちは消えていった。


 御者は店に人がいないことを不審に思い、周囲の人からその情報を得たそうだ。

 店に人が一人もいないため、仕方なく店の前に塩の入った袋を置いてきたと言う。

 貴重な情報を持って帰り、かつ重労働をこなしたことで、手当を要求してきた。

 その御者は言うまでもなく、その場で解雇にした。




 最後の砦となる我が商会の中でも不満が溜まっていた。

 まだ巻き返せると思って、給金を減らしたのが悪手だったようだ。

 直接給金の文句をワシに言う奴もいたが、もちろん解雇した。

 あれ以来、ヒソヒソとこちらを見て話す奴らも解雇にし続けた。

 職場の浄化だと思っていた。職場の雰囲気をいたずらに悪くしただけに終わった。

 従業員が仕事を辞めていく。職場にはワシを含めて、もう三人しかいない。


 塩田の様子を確認させるために従業員を向かわせたが、誰もいなかったそうだ。

 ついに塩田で働く者はいなくなった。

 調査に向かった従業員は、そのまま仕事を辞めると告げて帰っていったらしい。


 その報告を聞いたワシは頭が真っ白になった。

 報告をした従業員も「私も辞めますね」とため息をついて部屋から出ていった。

 ワシは呆けたまま、商会を去る従業員の背中を見送った。




 ワシはガランとした店内に一人佇んでいた。

 こんなはずではなかった。明るい未来が待っているはずだった。

 どうして、どうしてこうなった。どこから間違えた。いつから間違えた。


(わからない、なにもわからない……)


 膝から崩れ落ちて、店の中でワシは静かに泣き続けた。

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