第25話 


 彼女は個室に入ると薄暗い照明の中、ポケットから手鏡を取り出した。

 前髪を右手でかきあげると、折り畳み式のくしで分け目を整えていく。


 大人の女性を目指す彼女にとって、これは必要なこと。

 たとえ、それが女子トイレの個室の中でやることであっても、必要なことだった。


「由里はいつも、こうして整えてたんだね……」


 そして、ナヤカは幼い友人の偉大さに気付いた。


 夜の学校は思ったより怖くはなかった。


 校内を照らす照明は一階の職員室と隣接する事務室しか照らされておらず、廊下から差す光は、グラウンドの外灯と月が照らす夜光だけ。

 数時間もすれば夜勤の警備員があたりをうろつき始める時間帯だろう。


 昼間に廊下を歩くとき、こんなに足音が響いただろうかと疑問に思うほど床は鳴った。

 コツ……コツ……と鳴らす足音は人の数も分かるほどに鮮明に聞こえた。

 そして、現在進行形でわたしのいる女子トイレに向かってくる足音も、容易に分かった。


 足音は一つ。


 長居をし過ぎたのか、彼らの一人が迎えに来たのだろう。

 わたしはそう推測すると次に出す台詞を頭の中で考える。


 頭の中で軽くシミュレーションしながら足音が残り数歩で着くというところで扉を開ける。


 遅くなってごめん、紙がなくて時間かかっちゃって……


「快便、だったか?」


 飛び出したその先には、この聖域にはいないはずの顔が薄っすらと月の光に照らされた。


「……宅浪」

「お仲間なら帰ったぞ。俺を警備員と勘違いしたらしい」

「そう……」


 慌てて荷物をまとめてとんずらする彼らの様子が目に浮かぶ。

 わたしが抱いていた疑念は確信に変わっていた。


「で、用件は?」


 そう訊くと、宅浪はちょっと動揺しながらも息を整えて咳ばらいをした。


「きょ今日、参観日だったろ? 面談もあるって聞いたからそっちには間に合うかなって」

「面談ももう終わったよ。今が何時か知らないの?」

「うん……下校時間は過ぎてそうとは思ってた」


 外を見ればわかることでしょ。


「だから、用件ないよね?」

「用件はある。生徒じゃなく保護者からの、な」

「……?」

「面接。してくれないか? 俺、就活中だからさ」




 ※ ※  ※




 教室に入ると、宅浪は中心にあった机と机をくっつけ始める。

 周りの机をどかすと、限られた空間の中で四つの机と四つの椅子だけが存在した。


「始めよう」


 宅浪は端的にそう言うと、今日わたしが座っていた席の位置に座った。

 宅浪が座ったのは生徒側の席、つまり、これからわたしは先生でいいみたいだ。


「まずは自己紹介から?」

「そう……だな。新卒六年目の星石宅浪、趣味は……」

「堅苦しい」


 思わず遮るように口について出る。


「初手から指摘かよ⁉ だって、面接だから……」

「わたしが訊いているのは自己紹介。ありふれた自己紹介なんて印象にも残らない」

「そりゃ印象には残るかもしれないけど……」

「新卒六年目なんてデメリットでしかない。正直にデメリットは言うのはいいことだけど悪い印象を都合よく忘れるようなもう一つの印象も欲しい」

「つまり……悪い印象と良いか悪いか迷う印象をぶつけて相殺させる……みたいな話か?」

「……宅浪がそう捉えたのなら、やってみれば?」

「うわ、俺の嫌いなタイプの指導者だ。自動車学校の先生タイプの」


 こんなところで躓いてる場合じゃないんだよ。

 社会復帰を目指す意思があるのなら、宅浪は立派な社会人にきっとなれるんだから。


 …………なんてね。

 なにを熱くなってるんだろう、まるで……


 働かないことを悪だと断言し、彼を頭ごなしに彼女と罵倒していたあの頃の自分みたいだ。


「特技は、インドに行って本場のカレーを食べたことがあるのでカレーに詳しいです」

「…………」

「どうかしたか?」

「いや、なんでも。突然、旅行マウントを取られたからちょっと動揺した」

「昔にな。機会があったら今度行ってみるといい。香辛料の味付けが苦手ならあれだが」

「そう。で、本番の自己紹介は?」

「……まだ考えてない」

「そんなふざけた回答はダメだよ? いいね?」

「はい」

 強く釘を刺すように言うと、宅浪はそっぽを向きながらも肯定の返事をした。

 前までは妹と自分で言い張っていたのに、今では姉みたいだ。

「じゃあ、次は志望理由……」

「それは後回しにしよう」

「なんで?」

「ガクチカって分かるか? 学生時代に力を入れたこと略してガクチカ。それを試したい」

「宅浪、学生じゃないよね」

「絶対言うと思ったけど、話の腰を折るな」


 何を今更という気持ちが一つ……と、やっぱりこういう話かという気持ちが一つ。


 ナヤカは眉をひそめて嫌悪感をもろに出す。


『もし、ナヤカになにかあったら、俺のことは忘れてほしい』


『ナヤカはナヤカの新しい人生を歩むべきだ。それが本音』


『このケーキを食べたら、この家を出て新しい人生を始めてくれてもいい』


『このショートケーキは、そんな誓いのクリスマスケーキだ――』


 たぶんそれは、わたし自身が、昨日のことにわだかまりを抱いているから。

 有無を言わせずにそう言い切った彼を、まだ許せていなかった。


「おーい、理解したか?」


 眼前で手を振られ、思わず手を弾く。


「……つまり、努力したこと?」


 ナヤカは棘のあるような言い方で訊ねた。そんなつもりじゃなかったのに。


「そ、そうだ。この数ヶ月間、一応ずっと暮らしてきたわけだろ?」

「三ヶ月と半月」

「だから、訊いてほしい。パートナーとして、俺の話を」


 暖房のない冷たい空気の中で、もう一つ空気が引き締まるような感覚を覚える。


「……それは」

「ダメ、か?」


 人生観の話。


 わたしと宅浪の間には明確な違いがそこにはあった。

 いや、正確に言うと、わたし一人の問題ではない。


 わたしたちの問題。


「変なこと言ったら、わたし……」


 蚊と人間にとって、絶対に避けては通れない価値観の話。

 そんな耳が痛くなるような話をすると思っていた――。


「8月の蒸し暑い日、突然人間の言葉を話す蚊が現れた。最初はいがみあって、ろくに話すこともできない状態だったけど、時間が経つにつれて親交を深めていったのがサヤカだった」

「それは……」


 想定外の展開に動揺の言葉を漏らす。


 宅浪が話したのは昔話だった。

 表情はずっと穏やかで、トイレで対面した緊迫した顔とはかけ離れた優しい顔で語る。


「一緒にショッピングに行って、服を買ってやるために飴食い競争にも出た。たぶん一番身近な人だって見たことないような顔を見せてくれて、あのときはサヤカが俺の生きがいだった」

「一番身近な人は……わたしのこと?」


 だから、確かめるために口から零れ出た。

 わたしの想いを上回るくらいなんて、答えは出ているものだというのに。


「そうだ。俺の方がサヤカのいろんな顔を知ってると思う。ま、サヤカのことが大好きすぎて、一ヶ月探し回っていた幼馴染も最初は警戒してたみたいで、慣れるのは大変だったな」

「サヤカにお邪魔虫がつくのはいつものことだったから」

「前々から言ってるが、そんなになのか?」

「うん。わたしみたいな下女とは違って格が違うから」

「そう自分のことを下げるなよ。俺だってあんたのことは……」


 彼から初めて使われた敬称。


 そのときのことを以前から空想していたわたしは、イメージ通りの思考に陥る。

 まず、ここぞとばかりに、そのことについて訊ねる。


 そして、わたしは悲しそうにではなく、楽しそうに彼の反応を見たがるだろう。


「あんたって……誰の事?」

「それは……」


 いじわるしてくれるなよとバツの悪いような顔で、彼は頭を掻く。

 という想像をして、彼の顔を下から覗く。


 ここまでは思い描いていた空想通り。一つ違ったとすれば、その後――


「そんなの……知るか」


 宅浪が正直に、嘘をつかなかったことだろう。


 ひっそりと点いていたストーブが突如として、音を消して息を吐かなくなる。

 温かい風が教室内を覆っていたはずなのに、彼のその一言で背中に悪寒を走らせた。


 背中に流れる冷や汗が、指を這うような感覚を錯覚させて、不安を煽った。


「……知らないの? わたしの名前」

「ああ、俺は君を知らない。君は誰だ?」


 淡々と疑問を口にする宅浪。

 鬼気迫った様子……にも見えない冷静な疑問を解消するために宅浪は訊ねてくる。

 寒い空気が足下を這い、段々と膝元までに昇ってくる。


「苗字は星石」

「俺と同じだ、名前は?」

「カで終わる三文字、だよ」

「サヤカ、か?」

「……違うよ。サヤカじゃない」

「じゃ、じゃあ……もしかしてそういう相手か? やばいな、俺……未成年は犯罪だろ~」


 着火しようとフリント式のオイルライターを回しても、中身が空じゃ火が点かないように。

 宅浪の記憶は空っぽになってしまった。


【もう宅浪は、わたしを思い出せない――】


「そう……思い出せないんだ、宅浪」


 用意していた勝者の台詞を吐いた後、横に置いていた荷物を肩にかける。

 教室内を覆い始めた肌寒い空気は、素肌をつんざくように冷気を無慈悲に浴びせてきた。


 足に、手に、首元に、頬に。


「おい、帰るのか? 誰かは知らんが送っていこうか?」

「いいよ。わたしもじきに、忘れるから」

「……なにを?」

「宅浪を、忘れてあげるから」


 そうして言い切った後、教室を出たときには既に駆け出していた。

 大粒の液が脇の下から零れ出て、両手で覆っても溢れんばかりに涙は後ろに飛んで行った。

 暗闇の昇降口に着くと、灯りのない中で下駄箱を三つほど開け、自分の下駄箱を探し当てると、ローファーを地面に叩きつけ、慌てるように急いで靴を履く。

 片方の足は踵を踏んづけながら、昇降口を出てそのまま逃げるように走り、校門を抜けた。

 後から知ったのが、その日は、星がよく見える絶景の夜だったらしい。

 失恋以上の喪失を経験した直後の女のコに、そんな余裕があるかは想像に容易いだろう。


 願うならば。

 願うならば、わたし、星石ナヤカが人として一人の男に恋をしていたこと。


 その事実だけは、消さないで――。


 夜道を駆けていた少女は足を止めると、自身の頬に伝う雫を指でなぞった。


「あ……れ……?」


 困惑と焦燥が混じるように頭の中をかき乱し、混乱を招かせる。


 時間、場所、所在理由、名前、簡単なことが耳から抜けるように思い出せなくなると、


 わたしの記憶は、ブレーカーが落ちるみたいにポツンとそこで途絶えた。


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