第24話


 十二月になった。


 あれから四ヶ月。越冬する蚊もいるらしいが、十一月上旬までに活動するのが精一杯らしく、この穏やかで祝い事の多い十二月を過ごす蚊はほとんどいないらしい。


 彼女たちのいう、蚊としての責務(種の存続)がこの頃には終わっているのだろう。


 だけど、俺はそんな彼女たちにご褒美があってもいいんじゃないかと思う。

 延命とは言わないけど、存命が伸びるくらいのご褒美があってもいいんじゃないかって。


 そう、一ヶ月前から思っている。


「……ダメだ。出てこない」


 前傾姿勢でパラパラと資料をめくっていた男は背筋を伸ばして、目元を抑える。

 しばしばと目元をパチパチさせる小岩先輩は疲労を露わに見せた。


 時計の針は刻一刻と喫茶店開店の時間に近づいていた。


「こっちも特に目新しい情報は……」

「そうか……」


 刻一刻と迫る時間が開店の時間だけではないことに、二人とも気付きながら……。


「今日もありがとうございました」


 宅浪は店の前で深々と頭を下げる。

 扉に寄りかかる小岩は、寒そうに肩をすくめながら強めな口調で吐く。


「そんなのいい。明日の朝もここに来い」

「……わかりました」


 最低限の応対を捻り出した後、宅浪は重そうな挙動を取りながら、喫茶店を後にした。

 歩くスピードはまさに牛歩のようで、小岩先輩は寒い中、五分はいつも見守ってくれる。


「そんなに持ってく必要ないんじゃないか?」

「大丈夫です。お気になさらず―」


 宅浪は後ろを振り向かないまま、両手に力を入れたまま足を進めた。

 両手には大量の資料が入った紙袋、ほぼ小岩先輩の私物がそこに入っていた。


 虫研究の過去資料、部の活動日誌。


 手がかりを少しでも見つけるために、小岩先輩の大学四年の歴史を振り返る必要があった。

 とてつもない紙の束。それでもこれはほんの一部に過ぎないのだから、おかしな話だ。


 彼は、サークル長は、一体、虫にどれだけ情熱があって、ここまでできたのだろう。

 そんなことを考える暇はないというのに、疲れのせいか放心するとつい思ってしまう。


 つい、ため息を着いてしまう。


 一番弱音を吐いてはいけない人間が、一番弱音を吐こうとしている。


 小岩先輩が喫茶店開店の前に時間を作ってくれてから、結構な時間が経つ。

 結構な時間っていうのはたぶん、結構な時間だ。月日の月の部分しか直視することができない、現実から逃避している俺からすれば、時間、分、秒は数えるだけで億劫な気持ちになる。


 自分を嫌でも攻めたくなる。


 時間はどんどんと吸われていくのに、それに見合った功績は一つも挙げられていない。


「…………ただいま」


 分かるのは時間が経ってから、結果として分かることばかり。


 染みついた挨拶を誰もいない家にしたまま、宅浪は自室へと向かう。

 扉を開けて早速紙袋を物色すると、一つのノートを取り出す。


 部の活動日誌。

 サークルを存続させるために必要なノートで、虫に熱心だった小岩先輩が義務的に書いていたノート。ここからも結果論として、見えてくるものがあった。


 別れ際に蚊人の存在が曖昧になるということ。


 それが後になって分かった、どうしようもないこと。

 うさぎが昼寝をしてカメに追いつけないように、物理的にどうにもならないこと。

 だから、何をどうこう言い訳しようだなんて考えてもいない。

 考えられる時間にいない。


 思うことは死ぬほどあるけど。


 後は……環境の変化によって個体の成長が早まる可能性があることだろうか。


 今年の夏は特に暑かった。

 暑かったから、一緒にいる時間まで短くなった。


 そうして、いろいろな可能性が、解釈として出てくる。


 やり場のない憤り、感じたことのない無力感。

 冷や汗が背中を伝い、身体の温度は冷たくなる。

 頭の端から足のつま先まで、全身が痒くなるのにそう時間はかからない。


「外に出よう……」


 宅浪は苛まれることになる現実から目を逸らすように、外へ出た。

 資料は自室に置いたまま、出てきてしまったが、昨日の様子だと今日は帰ってくるのが遅いだろう。


「はぁ……」


 ため息の吐息は白く曇り、暗くなる街に溶け込んで消えた。

 例年より早い初雪が数日前に来たことから、靴は最悪な想いで地面を鳴らしている。

 その早く感じる冬の訪れに、去年までは忌み嫌っていた煌びやかに輝く装飾が突然街中に生えた木や建物にいくつも飾られ、あたりはすっかりクリスマスムードだ。


 宅浪は到着地に着くと、入り口のマットに靴を擦りつける。

 床を滑らないように擦りつけた後、手馴れた手つきでかごを持つと、見知った顔が視界に入る。


「あ」


 早速、バンダナを被った彼女を見つける。


「あの、こんにちは。刀谷さ――」

「離してください! このおたんちん」


 店に入ると、なんとあれだけ温厚そうで親切な刀谷さんが声を張り上げていた。

 見ると、刀谷さんの肩に身体ごと寄りかかり、纏わりつく白髪の男老人の姿が。


「あ、星石さん! 助けてください。このナマポが纏わりついてきて最悪なんです!」

「ナマ……っはい! ちょっとおじさん! って、酒くさっ⁉」


 腕を脇の下から通し老人の肩を持つと、老人は何の抵抗をすることなく刀谷さんから離れ、今度は力なく体の赴くままに臭い頭とともにこちらに寄りかかってきた。


「星石さん大丈夫? その人、たまに来る厄介な人で……」

「とりあえず、外に置きに行きます。酩酊しているみたいだし」


 容赦ない言い草に思わず動揺してしまったぞ。


「終わりました」


 手を叩いて目に見えない汚れを払うと、刀谷さんが訝しげに入り口に立っていた。


「茶碗蒸しって言ってましたか?」

「え?」


 訊き間違いかと自分の耳を疑った。


「茶碗蒸し、です! ボソボソと言っていませんでしたか?」

「え、ああ……どうだったかな。お茶漬けと言っていたような……」

「お茶漬け、ですか?」

「はい……。まだそこで寝てるので訊いてきたらどうです?」

「それは結構です。じゃあ、今度は烏龍茶か……?」


 脈絡のない会話に加えてこれまでにないくらい考え込む刀谷さん。


 一体、何の話だろう? いわくつきの迷惑客だったりするのだろうか?


「ああ、ごめんなさい。こちらの話です。もう警察は呼びましたから」

「は、はあ……」


 それにしては適切な対応もしている。分からんな。


「ところで、星石さんは買い物ですか? 今日はまだ昼なのに早いですね♪」

「いえ。今日は刀谷さんに言いたいことがあって……」

「私に?」

「はい。実は昨日のケーキのお礼と謝罪をしたくて……」


 宅浪の声は小さくなって態度も小さくなる。


「お礼はされましたけど、謝罪ですか?」


 刀谷さんは真摯に向き合ってくれている……と思う。


「はい。その、せっかく応援してもらったのに結局喧嘩しちゃって……妹と」

「喧嘩?」

「いや、すみません。こんなこと部外者の刀谷さんに言うことじゃないとは分かってるんですけど……一応、付き合ってもらったし、その申し訳ねーなーって思って」

「喧嘩、したんですね?」


 重々しい声が石抱となって膝にのしかかるようで、罪悪感に苛まれる。

 ああ、白状しよう。自分の罪を全部吐き出すつもりで……。


「怒ってますよね。いやーすんません。たとえ値引きするものとはいえ、三十分も前に値引きしちゃあ駄目ですよね。しかも半額で。あのケーキは幸せを呼びませんでした。だから、俺が刀谷さんの代わりに罰を受けます。無給で二日くらい働いて償うこともできます。三日からは考えさせてください、あ、別に俺も暇ってわけじゃないので――」


「ちょ……ちょっと落ち着いてください。私の台詞が言えませんから」


 自分を責めるように口を止めない宅浪に、刀谷さんは眉を困らせて吐息を漏らす。

 電源を切られたように制止した俺は、また地面と見つめ合って彼女の返答を……


「こっち向いてください――」


 顎に手が掛かり、顔をグイっと上げられる。

 自分より、背の低い女性に顎を持ち上げられたのはさすがに初めてだ。


「っ……な、なんだか今日の刀谷さんは強引ですね?」


 肌が透明で息がかかるくらいに近い。

 とにかく目鼻立ちが整っていてまさに美人って感じだ……ってこのありきたりな美人の表現をしたのはアイツ以来だな。


「浪人……さんは、そう簡単に諦めのつく人間ですか?」

「……まあ、割と諦めてきましたよ、俺は」

「でも、真摯ですよね」

「俺は新卒六年目のニートですよ。社会不適合者ってよく言われてましたから」


 ――ビート板一つじゃ到底泳ぐことのできない荒波。


 いいや、泳ぐ必要のない荒波。

 腰まで浸かった海は俺に遠慮することなく、試練を与え続けた。


 爪の中に入り込む泥のような砂鼓舞したやる気を削ぐ一番槍の志望理由


 そこら中に散りばめられ、まるで足裏を痛めるまきびしのように選択の余地を奪っていく貝殻。履歴書を読み込まれ、赤の他人に個人情報を教えなくちゃいけない苦行


 唇を渇いていく塩水息が詰まるような、内定者懇親会


 だから、泳ぐ必要のない荒波に向かう必要は……ない。

 変化は無意味だと理解した。


「社会不適合者、と言われていたんですか? どなたに」

「それは……今はいない古い友人です。たぶん、本当にいなくなった友人……」

「その友人はもうそんな酷いこと言わないと思いますよ」


 さっき、社会弱者に滅茶苦茶言ってた刀谷さんに言われても説得力薄いよ……。


「その友人も、星い……浪人さんと一緒に変わったと思いますよ」

「俺は昔から変わってないですよ。俺のままです」


 あのとき、そのときに一番楽しかったことができていれば、変わらないままでいい。

 だから、変化を辞めて現状維持を選んだ。


「私はそうは思いませんよ。浪人さんは男前になりました」

「それは前の俺を知らないだけですよ。最近、また太ったし」

「知らないだけですよ。男の人って、そうやって予防線を張るんですね」

「女みたいでしょ? 俺は昔からこうですよ~」


 普通に日常を過ごして、寿命が尽きるまで抑揚のない人生を送る。

 ただ、それだけでいいんだよ……俺は。


「いいえ、貴方は私に話しかけた」

「はい?」


 もう一歩踏み出すと、強い口調で言葉を紡ぐ。


「貴方は妹さんのことを想い、私に話しかけた」

「まあ、そうかも」

「だから、貴方に報いた人たちが作った海を架ける橋を渡ってあげてください」

「海……? 俺は一言もそんなこと……どうしてそれを?」

「今日は授業参観日なんですよね?」

「えっ……なんでそれを……」


 保護者でしか知らない情報のはず……。

 彼女は畳みかけるように次の言葉を発する。


「貴方がここに来たということは、妹さんはまだ迎えを待っているんですよね?」

「だから、それもどうして知ってるんだ……」

「行きましょう。……小心こごころさんの息子さん」

「……ちょっと待って。刀谷さん、あなたは一体……」

「…………」


 宅浪の動揺とは裏腹に、彼女はピクリとも表情を動かさない。

 その沈黙の中には懐かしい面影も見えたような気がして、うっかり彼女が口に出した人名を頼りに宅浪は理解が追いつく。


「もっと早く言ってくれればいいのに人が悪いな、刀谷さん」

「私、秘密主義なんです。だから、打ち明けるには勇気が必要だった……」


 なんだ。そういうことかよ。

 やっと分かったよ。違和感の正体が。


「まさか――母さんの知り合いだったなんて」

「…………」


 刀谷さんは俺の推理に呆気にとられたのか、固まった様子でこちらを見る。


 小心というのは母の名前だ。


 母の交友関係は計り知れないほど広いと近所からは有名だった。

 だから、刀谷さんも近所のスーパー店員として気に入られて親しくなったのだろう。


「だって、刀谷さんさ、どうみても母さんの真似を――」

「あ、はい。実はそうです、真似てました。小心さんとは昔からの付き合いなんです」

「だよな~」


 やけに棒読みっぽく聞こえたけど彼女はまざまざと白状した。

 そうして違和感の正体の答え合わせを、流れで決行してしまおうと試みる。


「じゃあ、やけに俺に気を遣ってくれたのも……」

「気を遣う……はて。なんのことでしょう?」

「えっ、気遣ってくれてましたよね?」


 答えをしつこく求めるように宅浪は催促する。


「刀谷……さん?」


 だけど、彼女は俯いたまま答えを出そうとしない。

 微笑みをもらえたら、俺はそれだけで踏み出せるって、そう確信しているのに。


「そんな、私の好意を邪険にするようなこと言ったらダメです」

「え?」


 意味が分からず、疑問符をこぼしてしまう。

 だけど、余念を与えまいと彼女の口は付け加えるように言葉を告げる。


「今からお姫様を連れ戻しに行く人が、そんなこと言ったらダメです」

「ああ、そういう意味か……」


 てっきり刀谷さん、俺のことを好きなのかと。


「妹さんをここに連れてきてくださいね。私も話してみたいので」

「たぶん、失礼なことしか言わないと思いますけど……連れてきます。閉店までに」

「約束ですね♪」


 顔の横で上機嫌に人差し指を天に突き上げる。


「約束は重い……かな。ハハ」


 曇りのない笑顔の裏には純粋な好意が秘められていることを俺は改めて感じる。


 助けられてばっかりだ、俺は。


 そんな彼女に厚かましくて図々しいけど、願望だけは伝えたかった。


「でも、俺も刀谷さんにアイツを紹介してやりたいです」


 否定の後に切り返すようにそう言うと、咎めようとした刀谷さんの顔が若干和らいだ。


「……そんなに気難しいコなんですか?」

「はい! きっと、アイツとは……」


 言葉が。


 発しようとしていた言葉が言い淀み、宅浪の顔は渋みを見せる。


 それは、確かにそこに置いていたモノが、途端に雲隠れしたような腑に落ちない感覚。

 もう取り戻すことのできない、場所まで近づいていることに気付く。


 


「アイツとは?」


 刀谷は嫌味も見せないまま、眉を上げて首を傾げる。


「アイツとは……相性がいいんじゃないかなって。なんとなく!」


 こうして宅浪は母親とグルだったスーパーの店員に後押しされて、学校を目指した。


 下校はとうに終わっている時間帯の学校。

 それでも。


 それでも、背中を押してくれた二つの手のひらを裏切るわけにはいかなかった。


 吸い込まれそうな夜闇の中、宅浪は空に光る星を目指すように駆け抜けた。

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