第8話 協力


「はーい、飴食い競争の参加はこちらからですよ~」


 ホール二階。現在時刻は14時前。

 しかし、アナウンスをしている長身男性は訳の分からない競技の案内をしていた。


「いや~、なにかの間違いだったかな。まさか女児用玩具にあそこまでの競技は……」

「優勝景品はなんとお子さん大喜びのドールハウス! 顔を粉まみれにしてプレゼントしたいっていうガッツのあるお父さんはこちらに来てくださいね~」


 長身男性は張り切った面持ちでメガホン片手に客を呼び込んでいた。

 明らかに競技間違えてると思うんだけど。特に子供は参加不可と書いてある時点で。


「本末転倒だろ……」


 店員さんが執拗に勧誘していた謎が今解けた。

 ホール二階に集まる人間はほとんどが子供連れの親で、そのほとんどが父親と娘。

 時刻はそろそろ締切の時間帯。参加者は俺を除いて五人の父親しかいなかった。


「勝つんだろうな?」

「この競技でそこまでの自信があると言われれば、ないな」


 宅浪は目線を前に見据えたままで返す。


 サヤカのやつ、口調から腕組みで尋ねてきてるのが容易に分かるな。

 勝負事にはうるさいタイプだろうなとは分かっていたが、やはりか。


「勝つという気持ちだけは誰よりも強く持てよ、人生の浪人生」


 だから、浪人はしたことないって。


「ところで、飴食い競争とは、どういう競技なのだ?」

「俺が知ってる飴食い競争は、まず顔に水を付けるだろ」

「それで?」

「手を使わずに粉の中に入ってる一つの飴を口で取り出し、ゴールまで走る競技だな」

「…………それをする意味はあるのか?」


 サヤカの口から困惑気味の声色が発せられる。


「たしかに……口で説明するとくだらないけど。競技だから、競技」


 おぼんの中に顔を突っ込んで、顔を粉まみれにしながらゴールを目指す競技。

 実際に競技として行っている学校は減っているみたいだが、それも時代だろう。


「足は速いのか? 浪人」

「足は……速くないな」


 宅浪は虚勢を張ろうとするも、会場に整備されたコース形態を見て、正直に言った。


「……今なんと?」

「足は遅い方だと言った。この会場のコース形態だと俺の不利は大きく出るだろうな」


 まず、最初に飴が入った粉ボックスがあるブルーシートまで若干の距離がある。

 仮に運よく早めに飴を見つけたとしても、ゴールまではコーナーが二つあるほどの長距離走。ホール全体を使ったコース形態は200メートル近くあるように見える。


「自信満々に言うな。競争だというのにそれでは勝ち目がないではないか」

「まだ勝ち目がないとは言ってない。正攻法とは言えないやり方を使えば」


 宅浪の目が光る。

 そんな光ったように映った宅浪にサヤカは訝しげに尋ねる。


「なにか作戦が?」

「作戦と呼べるものじゃないな」


 その言葉を使うに値しないことをこれからやり、勝利を掴むこと。


「必要なのは覚悟だけだ。俺とサヤカの覚悟だけ」


 具体的な作戦は明かすことなく、今はそれだけを伝えることに専念させた。


 ※ ※  ※


 胸ポケットにある膨らみが体勢を変えて動く。

 同じくスタートラインに立った宅浪はこれから競う相手らを見る。


 結局、俺含めずに全部で六人のお父さんが集まった。

 年齢層はまちまちだが、いかにもスポーツ派で若い奴が二人。

 その二人の胸に記された番号は1番と4番……あの二人は要警戒すべきだろう。


『位置について……用意』


 いよいよ、スタートの合図を出す長身の男が掛け声を言い始めた。

 俺たち七人は腰をグッと下げたり、膝をついたりと各々の臨戦体勢を取る。そして、


『スタート!』


 娘の玩具のために戦うお父さんたちの闘いの火ぶたが、切って落とされた。


 わけだが。


「……っ、やべ」


『おおっと、スタートから波乱だ~! 無職の6番さんバランスを崩して出遅れ~』


 宅浪はタイミングを見誤り失速した。

 駆け出した父親たちは我関せずと、ブルーシートに向けて颯爽と背中を見せつける。

 ただでさえ長距離走では分が悪い俺にとって、序盤の短距離走での出遅れは致命的。


「何をしている!」


 サヤカは潜めた声でよろめく宅浪を咎める。


「だ、大丈夫。これも許容の範囲内」


 声は慎重に。

 ただ、身体は慌てるようにバランスを崩しながらどうにかブルーシートに辿り着いた。


「準備……しとけ……よ!」


 宅浪は息を乱しながら、誰もいない空に向かって叫ぶ。


 遅れは四秒弱ってところだろうか、他の父親たちは既に粉の中に顔をうずめていた。

 慌てる宅浪も負けじと水に顔をつけ、即座におぼんに入った粉の中に突っ込む……


 その瞬間。


「ちょ……っ」


 右手を胸ポケットに突っ込み、目にも止まらぬ速さで断末魔が微かに聞こえた何らかの物体を粉の中に放り投げた。


 粉は想像していたよりも深かった。顔三つ分の横幅に耳まで埋まりそうな厚底。


『この粉の中から飴を見つけるのは至難の業。運も味方にしてくださいね~』


 だが、俺にとっては好都合のステージ。

 サヤカを忍び込ませるには絶好の、ね。


 事前に話しておけば、サヤカは協力的な姿勢を見せなかっただろう。

 彼女は私欲よりも礼儀を重んじる相手だと、俺は十分に知っていたから。


 だから、協力せざるを得ない状況を作り出した。


 サヤカが砂塵ならぬ粉塵から何もせず出てきて、いきなり投げられたことに対して文句を言ってきたら、それは俺との約束を破ることになる。

 確証なんてもちろんない、了承ももちろん得ていない。けど、


 同じ日に同じ約束を二度破るなんて、サヤカにはできないだろ?


 数秒後、放り投げられた小人モグラは察したのか、外野からでは判断できないほどの小さな盛り上がりが粉塵の中を突き進んでいるのがわかった。そう、宅浪の思惑通りに。


 悪かったな、サヤカ。

 俺って社会に捨てられただけのことはある畜生な奴なんだ。


 だから、お前は畜生な俺に従ってくれ。自分の欲しいものを手に入れるために。


『おおっと、公務員の2番さん。飴をつついたか~? しかし、息が続かない~。だが、飴の場所は分かった様子だぞ~』


 俺は目でその姿を追えばいい。そうすれば、モグラがじきに宝を見つけてくれる。


 じきに……。


『さて、続々と見つけていくぞ~。先に駆け出したのは公務員の2番さん』


 じきに…………。


『次に見つけたのは清掃員の3番さん。飴を加えたが、靴紐が絡まって上手く走れない』


 じきに……………。


『おっと、快速自慢の4番さんがついに見つけた仕草をした~!』


 4番⁉ 4番はまず――


「浪人っ!」


 目を一瞬横に逸らした瞬間、飴を両手で掲げたサヤカが粉塵の中から飛び出した。


 後悔も焦燥も杞憂であることを思い知った。


 そこには勝負事には絶対に勝つ、と心に決め、想いの込もった真剣な瞳があったから。

 だったら、やることは一つ――。


「……ぇ」




『さあ、無職の6番さんも見つけたか! だが、前を走る公務員の2番さんと快速自慢の4番さんとはだいぶ距離が離れている~。これは巻き返せるか?』


 宅浪は飴を口に含むと、地面に跪き、履きなれたスニーカーの靴紐を初めて締め直す。


 焦らず、着実に。

 だけど、


『冷静でいすぎちゃうと、負けちゃうよ?』


 わかってますよ、先輩。

 だから、今だけは俺に力をください。


 2番との差はだいたい50メートル。4番との差は20メートル……。

 短距離走のときのあのスタートダッシュの速さ、二人だけ全然初速が違った。


 宅浪は地面に手をつき、膝を折り曲げる。

 精神を水の中に浸して、研ぎ澄ます時間……それを終えると折り曲げていた膝を張る。


 バイクの一速から四速まで一気にギアを上げる感覚、あれを思い出せ。

 現役と、どこまでやれるか勝負だ――。


 宅浪は地面を思いっきり蹴って、スタートさせた。

 胸を突き出すようにし、腰を高く持ち重心を逃さないように地面を踏み込んだ。


『なんと、無職の6番さん、3番さんをあっさりかわし、猛然と追い込んできたぁ⁉』


 宅浪の身体は段々とスピードに乗り始め、最大出力の六速までギアが上がる。

 足は宅浪の想いに呼応するように、ピッチを上げて踏み込むことを繰り返す。


 前との距離は縮まっているようで縮まらない、ただ確実に埋まってきてはいる。

 だが、呼吸が……ままならない。


『快速自慢の4番さんが2番さんをかわした~。数秒遅れて無職6番もかわす~』

 尻目に2番を見ると、距離はどんどん遠ざかっていく。


 後続に追いつける者は既におらず、白い粉まみれの顔で呼吸を荒くしていた。

 なのに、俺の前にいるほとんど重心がずれない背中は淡々と足を動かさない。


『残り50メートル。4番と無職6番のデットヒートだ~! 差は3人分ほどあるぞー』


 4番がラストスパートと言わんばかりに上半身を前に屈めた。

 風圧を感じるような踏み込み、突き放すという強い意志が4番から滲み出ていた。

 宅浪は食らいつくように4番の真後ろに位置づける。


 ワンチャンスに賭けるとしたら、条件が満たしてない。


『4番さん突き放しにかかった~。無職6番大丈夫か? あと数秒の決着だぞ~!』


 だからこそ、だ。


 宅浪は4番の後ろで半開きに閉まっていた口を一瞬だけ大きく開け、息を吸い込む。


「……ぐっ」


 瞬間、宅浪から声にならない声が漏れ出る。それは、痛みに伴う悲痛の本音。

 長年のブランク。急な激しい運動。それらが祟った痛みだと信じたい。


 だが、宅浪は若干の体勢のズレを修正するように頭を低く下げた。普通ならまともに追い風の抵抗を受ける前傾姿勢。だが、前に壁があることを考えたら有効的な走法だった。


『あ、あれは……』


 スリップストリーム。前方で走る人の真後ろに入ることで、空気による抵抗力を自分だけが受けずに、風除けとして働く長距離種目で多用される手法。

 口の状況と自身の得意走法。それらを上手く活かすための俺の、最後の切り札。


『さあ、どうなるか~! ゴールはもう目の前だぁ~!』


 宅浪は前傾姿勢のまま、4番の後ろから抜け出すように、外に回す。

 風の抵抗を受けなかった宅浪がその勢いのままジリジリと、4番との距離を詰める。

 2人分、1.5人分、1人分……だけど、ゴールテープは間近に迫っていた。


 頼む、一瞬だけ。


 一瞬だけ、前に出てくれっ――。




 ゴールテープが切られた後、ゴールした二人はその場で同時に倒れた。

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