第9話 余韻
周囲の喧騒がよく聞こえた。
白いチョークで敷かれた砂利の上を駆け抜けた。
赤黒く硬い床の上を敷かれたレール通りに走った。
だけど、地面が映り変わってからは、その喧騒は人を見るだけの目々に変わっていた。
走れよ、走れ。
その言葉に従うように俺は走って。
運良く、壊れてくれて。
大抵の人間は、見放すことを躊躇わなかった。
もうあの目に縛られないって、考えたらスキップしたくなるくらい嬉しくって。
俺はたしか……あの日の帰り、スキップをしながら家に帰った。
そして、土手に転んだ俺に手を差し伸べたあの人は……
「知らない天井だ……」
青い患者衣に身を包まれた宅浪は、上を見上げるとボソッとそう呟く。
白い天井に、グルグル巻きにされて吊るされた右足。
まるで……
「病人みたいだな」
「今更、何を言う。病人だろう」
すかさずそんな声が俺の耳元から聞こえてくる。
それは、いつもの新聞紙を巻いた、可愛い小人さんの声……
「な、なんだ? そんなにじっと見つめて」
そこには、俺がゴールテープを一番に切った証があった。
「いや……この台詞はお約束だろ? 後、病院の天井を撮ってネットに上げるのも」
「携帯禁止じゃなかったのか? ここは」
「たしかに。そうだったな」
宅浪は携帯をお見舞い用のりんごが二つ入った木かごの隣に置いた後、全身をゆっくりと力を抜き、斜め掛けのベッドに横たわった。
不思議なくらい素直に従う宅浪にサヤカは物見をしながら宅浪の肩に降り立つ。
「怪我は何度目だ?」
「三度目……かな。もともと足は靭帯やってて、悪いんだよ」
宅浪は膝をさすりながら正直に吐露した。
「医師が驚いてたぞ。足に爆弾を抱えている人間がここまで無茶をするまで、全力で走ることができるのか、と」
「聞いてたのかよ……って、そりゃあ、まあ聞いてるよな」
布団のぬくもりとくすぐったいリスが俺の全身を這っていた感覚を思い出す。
もどかしさを覚えて、俺はつい、頭に手を当てる。
「性格までおかしくなったか?」
「もともと俺は穏やかな人間だ。学生時代が上手くいかなかっただけで」
病室の窓から高い声の喧騒が漏れてくる。
今は昼休み、今いる病棟は三階で、下の中庭を見渡せるくらいに景色が良かった。
「学生時代……というのは思春期の頃か」
サヤカは汲み取るように、宅浪の視線の先を追った。
「俺も昔はあのくらい走り回ってた。おにごっこは得意だったし」
「運動など、浪人には無縁なのかと思ってたぞ」
「サヤカも気になってるんだろ? 俺の特技について」
「驚いたのだからな。まさか――」
「口に入れられるなんて……ってか。唾液まみれのあの顔は忘れな……」
「いいや、浪人の潜在能力にだ。私は貴公を本気で侮っていた」
サヤカは断言した後、宅浪の顔の前を飛ぶ。
「貴公のことを教えてくれないか? 私は私の株を下げたくないのだ」
胸に手を当て必死に懇願するその姿は、洋服のせいもあって、いたって真摯に見えた。
宅浪は二つ返事で返答した。
「悪くないものも見れたから、特別な」
「その話は別だ。後で、詳しくだ」
「そんなに話すことないと思うぞ、実際」
「そ、そこは気を利かせてどうにかしろ! 私も女子だぞ、まったく……」
サヤカはフリフリとスカートを左右に振りながら、顔を赤くした。
両手でスカートを抑えながら、こちらを涙目で睨むサヤカはどう見ても、異質。
「そんなこと言われても……」
だって、結局は女児用玩具のぬいぐるみが着る衣装だし。
ストラップにしたいサイズ感だな、くらいの褒め言葉しか出てこないぞ。
「それも考えておくように‼」
「え~」
宅浪は結構本気で音を上げた。
万年童貞の俺に一体何を求めてるんだ……というか、それこそネットで褒めてもらえ。
「でも、多分話す内容は同じくらいだと思うけどな~」
宅浪はいたって平凡に、いつもと同じテンションで、自分の過去の話題に触れる。
「……私に話せないことが多い、ということか?」
サヤカは若干の警戒をしながら、ピリピリした空気を作る面持ちの言葉で尋ねる。
「正確に言ったら話しても意味のないこと、だな」
「話してみなければ分からないだろう。そんなこと」
なんでもできるサヤカだからこそ、分からないこともあると思うんだけどな、俺は。
「周りが厳しかったんだ」
「周り……?」
「家族、先輩後輩、友人、先生、観客……ある一人を除いてすべてがそう見えてた」
「その一人、というのは母親のことか?」
「俺を救ってくれた救世主だ。結局振られちまったけど」
「だから、社会からも走って逃げた、のか?」
上手いこと誰が言えって言ったよ。
「俺の足が速かった理由は元陸上部だからで、その中でも偉才を放っていたから」
「そう言葉にされると、現実味がないな……」
「速かったんだ。だから、その分期待もされた」
宅浪の表情は穏やかに、過去の甘くはなかった日々を思い出す。
ノイズだった喧騒の中、イヤホンを分けて片耳に付けてくれた彼女に、また癒される。
「期待されることはいいことだ。仲間からの信頼を厚く感じられる」
「その信頼が俺にとっては重圧だった」
「そう……なのか」
宅浪の迷いのない即答に、サヤカは歯切れの悪い返答を残す。
いかにも腑に落ちない、隠しきれないそんな顔を垣間見た。
「分からないか? いや、分かろうとしなくてもいいんだけど」
「違う。決して、浪人を否定したいわけじゃない」
サヤカは意志を強く示すように、強く言う。
「とは言っても、同情なんかはできないだろ? サヤカは」
「同情なんてもってのほかだ。それに私は指導する側だった」
「あ、そうなの?」
宅浪が話を進めるために無知を装うとサヤカは威張るように、話を進めた。
「私の部隊は優秀だぞ。血液の貯蓄量もトップで私に尽くしてくれる者ばかりだった」
「血液の貯蓄ということは全員女の部隊か~。聞こえだけはいいな」
「全員が私に忠実で優秀な部下だった。ただ、貴公のおかげで変なことを考えてしまう」
サヤカは曇った表情は見せずに穏やかな表情のまま、そう言った。
「それは……」
「私の頭になかっただけで、そう思っていた同族はいたかもしれないと思っただけだ」
可能性の話。
にしても、それは俺が生み出してしまったと思われる可能性の話だった。
「そんなことはないと思うけどな」
宅浪はサヤカが否定したよりも、はっきりと否定を示す言葉を選んだ。
「私を納得させる言い分でもあるなら訊いてやる」
「その部下さんたちは、サヤカが強引で強気で勝手な性格だって知ってると思うぞ」
「知ってても嫌味は覚えるだろう」
「覚えるけど、
「…………それはッ」
しばらく考え込んだ後、サヤカが言い訳がましく発した言葉は既に弱々しく映った。
「その心当たりがあるんなら、いい組織じゃないか」
その自意識過剰で、自分に自信を持ちすぎてるところがいいって思われてるんだろ。
なんて、そこまで言うのはちょっとズルい気がしたから言わなかった。
当の本人はむず痒いような、そんな顔で眉間にしわを寄せた。
その表情から、ただの惚気を聞かされる羽目になると宅浪は確信した。
「ほ、本当は浪人に紹介したいくらいの仲間兼幼馴染がいるんだ」
「どんな奴なんだ?」
「そいつはいつも私に付きっきりで、私が居なくなったらどうなるのか分からない奴で」
「今頃、気が狂ってるかもな」
「その可能性しかない。後、他にはな。私のモノマネが得意な奴がいて――」
サヤカはその後も何分にもわたって、部下のことを教えてきた。
病室に他の患者が入ってきてもひそひそ声で話すことを止めようとせず。
母親が見舞いに来ても、布団に潜り込んで饒舌な口元を寄せてきた。
楽しそうに、嬉しそうに、時々寂しそうに。
でもそうやって心から解放して話せることを何よりも、楽しんでいるように見えた。
「俺なんかに話してよかったのかよ」
「なぜそんなことを言う」
「俺だぞ? 社会不適合者だと罵った俺にそんな私情を話してよかったのかよ?」
「浪人だから話したのだ」
「そんな直接的な……」
「伝えるべき時に伝えるべきだろう? 後悔はしたくないからな」
「……前々から思ってたけど、何でもかんでもはっきりとモノを言う性格は損するぞ」
「では、どういう場面で損をしない?」
「それは……大事な場面とか」
「大事な場面? 具体的に言うと、どんな場面?」
「それは……男女にとって大事な場面だよ! 女にもそういう場面あるだろ」
「いまの話?」
「だから、そういう意味じゃなく……て」
「浪人にとって、いまは大事な場面か? 教えてくれないか、浪人」
「おい、あまりからかうのも大概にしとけよ。俺は真面目に……」
「少なくとも、私は損をしてないな」
「いや、あの……」
「大事な場面が男女共通だったら、もっと損をしないで済むと私は思うんだがな」
無理をして痛めてしまった足を治すための入院生活は、
結局、サヤカとの楽しい入院生活を過ごしただけで終わりを迎えた。
それもいつもとはちょっと違う、わたあめみたいな空間の中。
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