誰にも期待することはない

三鹿ショート

誰にも期待することはない

 他者と関わるからこそ、自身の感情が乱され、余計な問題が発生するものである。

 相手が何かをしてくれるだろうと期待しながらも、何も起きることがなければ、相手に不満を抱いてしまうものだが、それは己が勝手に抱いていた期待が原因だった。

 それを理解していながらも、他者を責め、時には喧嘩してしまうと、関係が終焉を迎えるばかりではなく、自分の厄介な人柄が別の人間たちの知るところとなり、肩身が狭い思いをしなくてはならなくなってしまうという悪循環に陥るのだ。

 ゆえに、私は友人や恋人などといった存在を作ろうとはしなかった。

 会社でも出しゃばるような真似をすることはなく、与えられた仕事だけをこなし、同僚から食事に誘われたとしても、存在していない先客を理由に断り続けていた。

 寂しいかと問われれば、迷うことなく寂しいと答える。

 笑顔を浮かべながら会話をしている人々を目にすると、其処に自分が入っている姿を想像してしまうのだ。

 だが、想像するだけで、実行することはない。

 一人の人間と親しくなるだけで、どれほどの問題が発生するのか、考えただけで恐ろしかったのだ。


***


 呼び鈴が鳴ったために応ずると、笑みを浮かべた女性が立っていた。

 話を聞いたところ、どうやら隣に引き越してきたらしい。

 頭を下げてきた彼女に短く返事をすると、私は扉を閉めた。

 隣人のよしみでそれなりに親しくなることも可能だろうが、私は彼女と関わるつもりはなかった。

 もしも彼女に恋人が存在し、私と親しくしているということを知った場合、嫉妬に狂ったその恋人が私や彼女に何をするのかが分からないからだ。

 今日以降、偶然会うことがない限りは、私から声をかけることもないだろう。

 その日の私は、そう考えていた。


***


 飲食店を出たところで、道を歩いていた彼女と目が合った。

 彼女は私に向かって駆けてくると、困惑した表情で告げてきた。

「自宅まで、共に歩いてくれませんか」

 突然の依頼に面食らったものの、その表情から察するに、何らかの事情があるのだろう。

 隣人からの頼みを断っては、今後の生活にも支障が出る可能性も存在する。

 私は彼女に頷くと、共に歩き始めた。

 それまで緊張した面持ちだったのだが、集合住宅が見えてきたところで、彼女の表情が明るくなった。

 彼女は頭を下げると、即座に己の部屋の中へと消えていった。

 一体、どのような理由で私に依頼をしてきたのだろうか。


***


 翌日、彼女の部屋において、私は事情を説明された。

 いわく、何者かに尾行されているような気がしたということだった。

 気のせいではないかと思ったが、それは昨夜だけのことではないらしく、ここ数日は常に見られているような気がしているらしい。

 おそらく、一方的な好意を抱いた人間が彼女を尾行しているのだろう。

 親しい人間ならば、わざわざ黙って尾行する必要は無い。

 彼女が笑顔を向けてきたことで己に好意を抱いていると勘違いした人間か、遠くから彼女を見ているうちに夢中になってしまったのか、私には分からない。

 彼女と関係が深ければ、彼女のために何らかの策を講ずるのだが、ただの隣人である彼女に心を砕く理由は無いと言って良いだろう。

 然るべき機関に相談するべきだと告げようとしたところで、私はあることに気が付いた。

 自分にその気が無かったとしても相手が勝手に想いを抱くということは、他者と関わる限りは避けられないことなのではないか。

 私が他者に期待することがないように避けていたとしても、飲酒運転の自動車が突然襲いかかってくるように、問題の発生は私の意志に関係しているわけではないのだ。

 それならば、これまで寂しさを覚えながらも孤独に生きていた自分が阿呆のようではないか。

 生きている限りは何らかの問題を避けることができないというのならば、わざわざ苦しむような道を選ぶ必要は無い。

 私は、過去の愚かな自分を、其処で切り捨てた。

 そして、彼女の部屋の窓から外を眺め、逃げるように立ち去っていく男性の存在を確認すると、即座に後を追った。

 捕らえた男性いわく、同僚である彼女に心を奪われたために尾行するようになってしまったということらしい。

 その行為が彼女を悲しませているのだと告げると、男性もまた己の愚かさに気が付いたらしく、二度とすることはないと私に頭を下げ、その場を後にした。

 部屋に戻り、彼女に報告すると、彼女は明るい表情のまま、私に抱きついてきた。

 彼女の感触に意識を奪われそうになりながらも、このような思いをすることが可能ならば、今後も他者と関わりを持つべきでは無いかと考えた。

 そのことに気付かせてくれた彼女に対して、私は感謝の言葉を述べた。

 彼女は何故自分が感謝をされているのかが分からないといった様子だったが、彼女と出会わなければ、私は自分を変えることができなかったのだ。

 恩人に感謝の思いを伝えることは、当然である。


***


 人間が変わったような私に対して、ほとんどの人々は驚いたような様子を見せたが、やがてそれも消えた。

 今では、週末には友人と外出し、食事をすることが多くなった。

 これほど充実した人生を送ることができるようになったことは、喜ぶべきことだろう。

 もしも老人になってからこのことに気が付いていれば、後悔に苛まれたに違いない。

 今日もまた、私は気分よく起床し、家を出る。

 まるで、世界の全てが輝いて見えているような気がした。

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