硝子の向こう
なぎまる
1
その日、写真展でいちばん注目されたのは、贔屓目なしにわたしの撮ったものだった。何度も自画自賛したから、お客さんが惹かれる理由はわかる。被写体はクラスメイトの水野あおり。その容姿があまりに美しいから、みんながわたしの写真の前で立ち止まり、きれい、と声を漏らす。
陳腐な言葉になるけれど、彼は言うなればひとつの作品のような見た目をしていた。よく人は顔が整った人のことを彫刻のようだと言うけれど、彼の場合は違う。もっと、輪郭が淡い、硝子のような青年だった。彼との会話はいつも穏やかで、言葉は水のようにわたしの中を流れていく。透明な硝子のような人だ。そして同時に、いつでも砕け散ってしまいそうな危うさも内包している。
スタッフパスを首から下げたまま、わたしはその人だかりの一歩後ろにいた。静かな館内はそれでも人で賑わっている。無名の高校の写真部が主催する写真展。そんなちっぽけなイベントにこんなにも人の足が向くのは、ひとえにあおりくんのお陰だとわたしは思う。もともと色素が薄いから、彼の薄茶の髪も陶器のような肌も、すべてが芸術作品のようだった。尤も、あおりくん自身が芸術作品になりたがっていたわけではなく、あくまでそうさせたのはわたしなのだけれど。
「
隣に立っていた小林さんが、わたしの脇腹を肘で小突いた。彼女はこのギャラリーのオーナーであり、わたしたち弱小写真部に貴重な会場を貸してくれた女神とも言える。わたしはなるべく得意にならないように、けれどそれでもやっぱり少し口角を上げながら「あおりくんのお陰です」と呟いた。
「その、あおりくんっていうのは映実ちゃんの同級生なんでしょう?」
「はい。クラスメイトです」
「写真のモデルになってくれるなんて、仲が良かったのね」
「いや、まったく。全然。一言も喋ったことありませんでした」
小林さんが「あら」と目を瞬かせる。わたしの母親と同じくらいの年齢である彼女は、茶目っ気のせいか歳よりも随分と若く見えた。
そんな彼女の言葉で思い出す。
わたしが、水野あおりと初めて喋った日のことだ。
あれはたしか、一昨年の夏だった。
◆
高校に入学して半年が経過した。梅雨も終わり、熱気が肌中にまとわりついてくる季節。わたしは、早々に新しいコミュニティに馴染むことを諦めていた。自分でも、自分が所謂変わり者の部類であることはよく分かっている。といっても、わたしから言わせれば世の中の全員が変わり者で、みんな必死に周りに合わせて普通を演じているのだ。けれど、わたしは違う。わたしには、友達と放課後にゲームセンターに行ったり、おしゃれなカフェでおやつを食べたり、一緒に好きなアイドルグループが主演する映画を観に行ったりすることよりも、大事なことがある。写真を撮ることがそれだった。そのことに、高校一年生の時点で気づけたのは幸せだったのかもしれない。学校なんて、適度に成績があればあとはどうにでもなると思っていた。現に、中学生までもそうやってなんとかなっていたので、母親もそんなわたしの生き方に口を出さなくなった。
写真に手を出したのは、本当に気まぐれだった。小学五年生の時に、父親からもらったお下がりのカメラをいじって何枚か写真を撮っていたら、いつのまにかどっぷりとその世界に全身を浸していた。きっかけなんてそんなものだ。人生、自分の大半を占めるなにかしらを得るタイミングが必ずしも劇的であるとは限らない。恋人であったり、趣味であったり、友達であったり。わたしにとって写真がそれだった。人生の大半を占めるものを、小学五年生にして得ることができて、とても幸せだと今も思う。
高校は、写真部があるところを選んだ。通学時間と学力の問題で今の高校しか行けるところがなかったので、落ちたらどうしようと合格発表前は眠れなかったのを覚えている。けれど、結果余裕で合格できた。その日は、ベッドの上でカメラを抱いて飛び跳ねた。
わたしの高校生活は全て写真に捧げようと決めていた。もともと、何かに熱中すると一直線になる人間だと自覚している。たとえば勉強を頑張って良い大学に行くとか、自分磨きをしてイケメンの彼氏を作るとか、そういうことをしながら部活を頑張る、なんて器用なことはわたしにはできない。よし、進路と彼氏は諦めよう、入学して三日でそう決めた。
人間、何かを捨てて何かに一直線になると、多分凡人を超えられる。わたしはそう信じていた。あおりくんと初めて会ったのは、わたしが一直線に全力で突っ走っていた、そんな夏だった。
夏休みに入る直前、わたしは部室の片付けをしていた。写真部はほとんど外で写真を撮ったり、題材を探すために遠出したりする。だから、部室を使うことはほとんどない。やるのは、こうして長期休暇に入る前に掃除することくらいだ。写真部の部室は一階にある。換気のために窓を開けたら、真下にあおりくんがしゃがみ込んでいた。
「あ、ごめん」
顔を上げた彼は、やはりわたしから見ても息を呑むくらいきれいだ。すらりとした鼻筋、太陽光をそのまま吸収しているんじゃないかってくらいきらきらした瞳に、薄くて細い茶髪。唇なんて女の子より赤くて、たぶんクラスメイトの女子たちから妬まれてるんじゃないだろうか。
「そんなことでなにしてんの」
「うさぎ見てた」
あおりくんと話すのはこれが初めてだった。イケメンっていうのはクラスの人気者だっていう世の中の決まりは、彼にだけは適用されていないようだった。あおりくんは浮いていたし(それはわたしが言えたことではないけれど)、友達もいないようだった。わたしが彼に唯一勝てているのは、友達の数くらいだろうか。
うさぎ、とわたしが繰り返すと、あおりくんはその細くて長い指で左側を指した。わたしの場所からは見えなかったので、窓から身を乗り出す。そういえば、この辺にうさぎ小屋があったっけ。
「生きがいなんだよね。これが」
「これって、うさぎを見るのが?」
「そう」
「飼えばいいじゃん」
「うちじゃ無理だなぁ」
しゃがんだまま、あおりくんは頬杖をつきながら言った。この距離からだと、若干の猫っけが、ふわふわ風に揺られているのが見える。
「
「そうよ。写真部なの」
「へぇ、今度見してよ」
「いいよ」
自分の作品を他者に評価してもらうのは好きだ。それが賞賛であっても罵倒であっても価値があると思う。あおりくんは、よいしょ、と膝に手をついて立ち上がる。
「うさぎもういいの?」
「うん。そろそろ帰んねーと」
親父が怒るんだ、と彼は頭を掻いた。あおりくんから発せられる言葉はなんだか全部が耳をするりと水のように抜けていく。飄々としていて掴めない雲みたいな人だ。わたしはもうこの時、すでに彼に惹かれていたのかもしれない。異性としてのそれではなくて、ただただ、わたしの世界に、あおりくんを映したいと初めて思った瞬間でもある。掴めない人ほど、留めておきたくなる人間の欲求みたいなものだ。
気づいたら、自然とカメラを持ってシャッターを切っていた。あおりくんは振り返って「なに?」と問う。
「盗撮しちゃった。消したほうがいい?」
「なんで? 灯山さん写真部なんだから、別にいいよ」
「いいの?」
「自分で撮ったんじゃん」
あおりくんが近づいて、わたしの持っていたカメラに手を伸ばす。爪までぴかぴかできれいだ。そんな指が、わたしのカメラに触れて、覗き込む。
「おれ、こんな顔してんだ」
ぱっと手を離したあおりくんは「じゃねー」と手を振ってわたしの視界から消えた。カメラの中にはさっきまで喋っていたあおりくんの姿が刻まれている。ポケットに手を突っ込んで少し気だるそうに振り返る姿。
しばらくその一枚を凝視していると、とんとんと人差し指で肩を突かれる。
「あれ、水野じゃん。仲良いの?」
「いや、今初めて喋った」
「嘘でしょ! あんたどんだけ友達少ないんだよ」
大口開けて笑うのは、同じ写真部の
「なんか言いたげやん」
「いや、水野有名じゃない? なんかいろいろと」
「そうなの? イケメンだから?」
「あ、やっぱイケメンって思ってはいるんだ」
「そりゃあ、わたしも普通の感性はあるので」
「なによりです。あとは、なんか家庭事情が複雑みたいよ」
茉莉絵はそこまで言うと「知らないけどね」と締め括った。他人の家の事情に軽く立ち入ってはいけないと思ったのかもしれない。わたしは、茉莉絵のその線引きは正しいと思う。あおりくんの家の事情についてはわたしも詳しくは知らないけれど、前に廊下でクラスメイトが話しているのが聞こえたことがある。父親が暴力を振るうとか、そんな話だ。
「だから、うさぎ飼えないのかな」
「なに?」
「ううん、なんでもない」
カメラの電源を切って、荷物と一緒にしまう。うさぎ、飼えばいいじゃんと軽率に言ってしまった自分を、少しだけ後悔した。
夏休みに入って、わたしはあおりくんのことをすっかり忘れて休暇を謳歌していた。ほぼ毎日のようにカメラを持って外に出る。晴れの日も、雨の日も。写真家にとって雨はファインダー越しの世界を百八十度変えてくれる魔法だ。水滴の一粒一粒が、見え方を変える鏡になり得る。写真って本当に奥が深いんだ、というのは雨の日に得た気づきなのだ。
その日もわたしは、二つ隣の駅まで歩いて写真を撮っていた。線路沿いの家々、踏切、そして路端の花。題材としてはありきたりだけれど、わたしは別に奇抜さを求めているわけではなかった。自分が価値を感じたものであれば、平凡でもそれは最上級になる。
あおりくんのことを思い出したのは、休憩がてら立ち入った喫茶店の窓から彼を見つけた時だった。「あっ」と思わず声が出て、持っていたカフェオレのカップをソーサーに置く音がやけに大きく響いた。あおりくんは、雨の中傘も差さず、パーカーのフードだけ被って喫茶店の前を通り過ぎた。わたしは立ち上がって、急いで会計を済ませる。あおりくんを追いかけながら、水たまりを思いっきり踏んでびしょ濡れだ。
あおりくんは駅前からどんどん遠ざかって、閑静な住宅街に向かった。声を張り上げれば呼び止められる距離だったけれど、わたしはそうしなかった。早足で歩くあおりくんの背中に、なぜだか声がかけられないでいた。彼はそのまま、吸い寄せられるように一角に建つ家に入っていく。表札には『植田』とある。
わたしは、その家の前で傘を持って突っ立ったまま動けないでいた。雨音の中、かろうじて聞こえてのは小さな男の子の声だ。わたしの耳が正しければ、その声は「お兄ちゃん」と嬉しそうに叫んでいた。あおりくんに、弟がいたなんて知らなかった。名字が水野じゃないのはどうしてだろう、と思ってから、茉莉絵が言っていたことを思い出す。
わたし、なにやってるんだろう。
ふと我に返って、今自分がなんでここにいるのか分からなくなった。どうして自分があおりくんを追いかけて、わざわざ雨の中走ってきたのか分からない。茉莉絵に聞けば絶対に「好きなんでしょ」と言われると思う。いや、茉莉絵以外の人間も揃ってそう言うに決まってる。けれど、わたしはそれはないと断言できる。あおりくんへの気持ちに、異性に向けるそれは一切ない。
なら、わたしがこんなに彼に必死になる理由は、なんだろう。
考え込んでどのくらい時間が経ったのか分からないけれど、あおりくんが家の中から出てきたので慌てて傘を傾けて顔を隠す。いかにも今通りかかりました、みたいなスピード感で歩き出すと、あおりくんが「灯山さん?」と声をかけてきた。
わたしは、犯行がバレた万引き犯みたいな固まり方をして、足を止める。逃げようかとも思ったけれど、それはできなかった。あおりくんが「え、なんでここに?」と素直に驚いた声を出したので、申し訳なさでいっぱいになったのだ。
「ごめん、さっき駅前で見かけて」
「ええ、追いかけてきたの? 熱烈だね……」
「違うの! 全くもって、あおりくんのことが好きってわけじゃ断じてない!」
「そんなに否定されると逆に傷つくんだけど……でも、それはなによりです」
あおりくんは困ったように眉を下げて、それから笑った。彼は肩越しに植田の表札を一瞥して、わたしを見下ろした。
「親が離婚しててさ。弟に会いにきたんだ」
彼はわたしが聞きたかったことを教えてくれた。言わせた、の方が正しいかもしれない。
「そうなんだ」
知りたかったことなのに、白々しい言葉しか出てこない。あおりくんは気まずそうにしているわたしを憐れんだのか、近くに市民会館があるからそこで話そうと誘ってくれる。
「ごめん。ストーカーみたいになってしまって」
「最初に盗撮されてるからね。もう驚かないよ」
「ほんとに犯罪者じゃん……ごめん」
「いいって。灯山さんの趣味に必死なとこ、良いと思う。もちろん他意はなく」
「ありがとう」
二人で市民会館に向かうまでの道のりで、不思議と気まずさは薄れていった。傘を貸してあげようかと思ったけれど、わたしとあおりくんじゃ背丈が頭三つ分くらい違うから、どう傘をさしたってどっちかが濡れてしまう。結局、あおりくんはパーカーのフードをかぶったまま雨の中を歩いた。
「あー、久しぶりにこんな濡れた」
市民会館のロビーで、あおりくんがパーカーの裾を絞る。だばだばと水が落ちて、少し申し訳ない気持ちになった。自販機であったかいお茶を二本買って、せめてものお詫びとして彼に渡した。
「え、いいのに」
「盗撮とストーカーと……ずぶ濡れの謝罪」
「真面目だなぁ。ありがと」
日曜日の市民会館は、子ども向けの英会話スクールや、ママ友の茶話会なんかで意外と賑わっていた。学校以外であおりくんと何を話したら良いのか全く分からずに、わたしは立ち上がって近くに張り出されていた掲示板を見る。この地域にも、こういう小さな市民会館で催される写真展があるみたいだ。まずは、こういう規模から始めるのもいいかもな、と頭の隅でぼんやりと思った。
「灯山さんは、なんで写真部に入ったの?」
「特に理由はないけど、たまたま熱中したのがカメラだったから」
「たまたま、なんだ。そんな好きなのに?」
「そうだよ。たまたまだよ」
もしかするとあおりくんは、わたしとカメラの壮大な出会いを期待していたのかもしれない。いつか見た絶景に魅せられて、とか、亡くなった祖父の形見で、とか。けれど残念ながら、わたしとカメラの馴れ初めはそんな大したものではない。
「あおりくんの家族はどんな人なの?」
「直球だな。みんな聞いてこないのに」
「気分を悪くしたなら謝る」
「いや、潔くて良い」
奢ったお茶の蓋を閉めてから、あおりくんが静かに口を開く。
「親父のひどい暴力で親が離婚した。子供は一人ずつだってどうしても聞かねーから、おれが残って弟は母さんのとこに行かせたんだ。母さんは優しい人だから、親父の暴力にずっと耐えてた」
典型的なDV家庭だ。わたしは、あおりくんが淡々と自分の家族のことを話すのが少し怖かった。こんなに、感情を削ぎ落として家族のことを話す人を見るのは初めてだったから。
「今日みたいに、たまに母さんと弟に会いにいく日もある。大体、バレて親父に怒られるけど」
「内緒なの?」
「うん」
「……あおりくんは、お父さんに、暴力とか」
わたしはこの時、踏み込みすぎた、と反省した。わたしがあおりくんのことを聞くのは、ただ単に興味があったからだ。こんなことを言うのは失礼極まりないけれど、人は人、自分は自分、というのがわたしの考えの根本にある。あおりくんの家族のことは、あおりくんの問題であってわたしが関与することじゃない。ただ単に、好奇心だった。そんなに暗い家庭事情を抱えて、どうしてあおりくんはあんなにきれいでいられるんだろうかと、不思議だった。
「灯山さんって、人の気持ちとか考えないの?」
案の定、あおりくんからカウンターが返された。真っ当なご意見を正面から頂戴して、ふらりと眩暈がする。
「ごめん、ただ単に興味があって」
「正直で最低だ。よろしい」
彼はそう言って、着ていたパーカーの裾を捲った。現れた素肌には青あざが点々と散らばっている。思わずじっと見つめてしまえば、彼はわたしの反応を見て、今度は吹き出した。
「なにその顔」
「えっ、わたし変な顔してた?」
「わかんないけど、なんか気持ち悪い顔してた」
「……ひどい、仮にも女に」
「仮って自分で言うなよ」
「痛くないの?」
わたしの問いに、あおりくんは「めっちゃ痛え」と答えた。
「そういうのって、警察に言っても変わんないのかな」
「うん、まぁ親父もそこまでひどくはないっていうか……腹立つことに、引き際を心得てるっていうか」
「そっかぁ」
「あれだね、灯山さんは他人事感を全く隠さないね」
「まぁ……事実、他人事ではあるし」
ひっでぇ、とあおりくんは笑った。わたしはやっと、彼と普通に話せていることに気がついた。茉莉絵と話すのと同じように、彼と友達みたいに話をしている。側から見れば、わたしたちは彼氏彼女に見えるのかもしれない。実際には違うけれど、男と女が二人でいたらたいていそれはそういう括りで捉えられてしまう。
わたしは、あおりくんとの関係にそんな名前はつけたくなかった。
「ねえ、わたしね、いつか写真展をやりたいんだけどさ」
「うん、唐突だね。でも聞こうか」
「その時に、あおりくんを撮りたいんだけど」
「なんでまた、おれ?」
「なんでって……きれいだから?」
「面と向かって言われると照れるな」
「なによ、自覚済みかと思ってた」
「まあ、それはそう」
「ムカつく」
足を出して、蹴っ飛ばすようなふりをする。あおりくんは壁に背を預けて、いいよ、とどこか遠くを見ながら言った。
「灯山さんなら、おれをちゃんと撮ってくれる気がする」
「なにそれ」
言いながら、わたしはスマートフォンを差し出した。「連絡先、教えてくれる?」と言えば、あおりくんは頷いて、わたしに自分のアカウントを教えてくれた。『水野あおり』が、家族とたった数人の友達と同じ場所に追加されて、すこし、満たされた心地がする。
「ありがとう」
「いいえ。これで撮影のオファーとかが来るのかな?」
「そうさせてもらう。もちろん、ギャラは支払うから」
お昼代くらいは、と付け加えれば、あおりくんは嬉しそうだった。自炊は何かと面倒なんだ、と言う彼に、はっとする。わたしのように、ご飯を作ってくれる母親がいないから、彼は自分で家事をしなければいけないんだ。かわいそう、とは思わない。思いたくない。
わたしはわたし、彼は彼だからだ。
◆
あおりくんと連絡先を交換したことを茉莉絵に話したら、彼女は「へぇ」とだけ返事を寄越した。夏休みは風のように過ぎ去って、もうだいぶ空気が秋めいている。冬に向かっている終末感が、わたしは好きだった。いきつけのカフェに茉莉絵と二人、真ん中にチョコレートパフェを置いて両側からつつく。
「そんなことより、次のコンテストに応募するやつもう撮った?」
茉莉絵は、あおりくんのことを"そんなこと"呼ばわりだった。
「まだ」
「よね。わたしもまだだわ」
茉莉絵は甘党だ。クリームのところばかりを食べるので、わたしは下に残ったコーンフレークや口直しポジションのベリーをつまむ。これってあんまり、チョコレートパフェを頼んだ意味がない気がしてきた。
写真部には、夏と冬に写真コンテストがある。県内の高校写真部や有志のチームが作品をエントリーして、最終的にはショッピングモールに展示される。その中から、一般客が優秀賞を決めるのだ。夏のコンテストはあおりくんと出会う前にすでに終わっていて、わたしの作品は佳作にも選ばれなかった。茉莉絵の作品も、だ。受賞作発表の日は、二人で審査員の見る目のなさに嘆きながら、あれこれとお互いの写真について講評を述べあったのが懐かしく思えた。
わたしたちは二人とも、リベンジに燃えているのだ。
部活以外の学校生活の方は、概ね順調だった。わたしの言う順調というのは、可もなく不可もなく、という意味だけれど。
あおりくんを認識した夏以降、わたしの教室での時間はとても充実していた。冬のコンテストでどんな風に彼を撮ろうか、そればかりが頭を占めていた。苦手な数学の授業中も、ノートにアイデアを書いては消して、たくさんのイメージが浮かんでは消えていく。あおりくんはわたしの席からは遠い場所にいたけれど、たまにプリントを配る時に目が合って、わたしにしか分からないように一瞬だけ変顔をされる。それでわたしが吹き出すと、何人かの視線がわたしに向いた。けれど、もともと変わり者のレッテルを貼られているわたしだ。一人で笑い出したって、すぐにいつものことだとスルーしてくれる。変人ってありがたい、わたしはそう思った。
クラスであおりくんを観察して、新たにわかったことがいくつかあった。第一に、彼は体育の授業には参加していない。体育は男女別なので知らなかったけれど、体操服は痣が見えるから、休んで放課後に一人で居残って授業を受けているらしい。初めて放課後の体育館で偶然あおりくんを見かけて、それで知った。あとは、あおりくんは昼休みになるといなくなる。後で彼に聞いたら、教室はうるさいから例のうさぎ小屋まで行ってうさぎを見ているとのことだ。試しにわたしも行ってみたら、本当にあおりくんがうさぎ小屋にいた。外側から見てるとかではなく、小屋の中に入って座っていた。うさぎは臆病だから、とわたしを中に入れてくれなかったのは少し腹が立ったけれど、これが彼の生きがいなのであれば、邪魔をするのも悪い。うさぎ小屋の中と外で、何羽かのうさぎと一緒にぽつぽつと会話する昼休みも悪くなかった。ただ、教室に戻った時に少し牧草の匂いがついてしまったけれど。
そして、これは前から分かっていたことだったが、あおりくんは友達がいない。授業中も、昼休みも、放課後も、友達と喋っているところを見たことがない。あの見た目をしておいてそれは嘘だろうと思われるかもしれないが、本当にそうなのだ。だから、わたしがあおりくんと話していて、他の女子から妬まれるなんて面倒が起こることもなかった。あおりくんの家のこともあって、みんなが彼を腫れ物のように扱う。だから、あおりくんは自分から距離を置いたんだろう。正直で最低だ、と以前彼がわたしに言ったのは、褒め言葉だったのだと捉えることにした。
十月下旬、みんなが制服の上にカーディガンを着始めていた。あおりくんも例に漏れず、ベージュのカーディガンがよく似合っていた。わたしはそろそろ本格的にコンテストに向けて作戦を練ろうと、あおりくんを部室に呼びつけた。放課後はあおりくんが早く帰って夕飯を作らなければいけないというので、授業が始まる前の早朝だ。八時過ぎ、始業より一時間早く、わたしは部室にいた。
窓を開ければ涼しい風と一緒に湿った土の匂いがした。あおりくんと初めて会った夏日とは大違いだ。ここから見えるうさぎ小屋のうさぎたちも、気温が穏やかだからかだいぶ元気そうに見える。
「灯山さん早いね」
おはよう、と言いかけた口が代わりに「えっ」と悲鳴を上げてしまった。振り返ったら、鼻から血を垂らしたあおりくんが立っていたからだ。慌ててティッシュをひったくって、あおりくんに押し付ける。
「どしたの、それ……」
「いや、朝から機嫌悪くて」
「殴られたの? 痛そう」
「言っとくけど、めちゃくちゃいてーから」
あおりくんはどかりと椅子に腰掛ける。ああ、と濁点混じりの呻き声が彼らしくなくて、相当痛いんだなとわかった。
「そんなになってまで、来なくても良かったのに……」
「だって、おれが行かないと灯山さんずっと待ってるじゃん」
「そりゃあそうだけど」
よくよく見ると、あおりくんは夏より痩せた。食欲の秋、とは程遠いやつれようにわたしも少し心配になる。手首なんかわたしより細くなってしまったんじゃないか。唇の赤さだけじゃなく細さまで女子顔負けって、どういうことた。
「……止まりそう? 鼻血」
「気合いで止める」
「あっそう……」
真っ赤に染まったティッシュが、ゴミ箱に放られる。わたしは唐突に、頭の中に痺れが走った。それは、突如降って湧いたインスピレーションだった。
「……ね、良いコンセプトを思いついた」
「え、今ぁ?」
鼻血を止めながら、あおりくんが眉を顰めた。
「最高なのが撮れそうな予感がする」
「この状態のおれを見て? 相変わらず最低だ……」
「褒め言葉と受け取った」
「どこが。貶してるんだよ全力で」
楽しそうなあおりくんを見ていると、わたしも楽しい。すぐにノートを手に取って、頭に浮かんだ構図をメモしていく。必要なものは、たくさんの白い画用紙か布、それに。
「あおりくん、次の土曜日暇?」
「ちょっと、鼻血止まってからにしてくんねえかな……暇だけど」
「じゃあ、わたしに付き合ってほしいんだけど」
だめかな、と問えば、彼は座ったまま諦めたようにため息をついた。鼻血はどうやら、だいぶ治ったらしい。
「ギャラはつくんだろ?」
「もちろん。しっかりとお支払いします」
「じゃあ、焼肉でお願いします」
ちゃっかり自分の欲望を伝えてくるあおりくんは、強かで面白い。わたしは今月の出費を頭の中でシミュレーションしながら、よかろう、と大きく頷いてあげた。
硝子の向こう なぎまる @nagimaruko
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