05 客出し


 拍手と共に閉じられた緞帳に区切られた観客席。

 ライトがつくと同時にたくさんのため息と、堪えきれないと小声の感想があちらこちらから漏れた。

 劇団としては中規模というには首を傾げるような、小さな集まり。

 しかし、その規模に反して劇の完成度とアクター達の熱は私たち観客を巻き込むに十分すぎるものだった。

 

 上品に、しかし堪えきれないとばかりに自らの歓喜を言葉としてこぼしてしまう隣のご夫婦にまなじりが下がってしまう。

 手に持った冊子を見て、そこに記されているのが私の知り合いであることをもう一度確認し、誇らしい気持ちになる。

 緊張していた顔を、震えていた指先を知っているだけに、あの子達が分けてくれた胸の熱が誇らしくなってしまう。

 そう、これだからやめられない。

 

 たすけることが、劇を見るたのしむことが。

 色々な思いを一つにまとめ、溜息として喉から放出する。

 人の少ない観客席は、祭り後の寂惜を感じさせた。

 スマホを起動、私を誘ってくれた後輩君のアカウントに向け、脱帽、とだけ呟いてスマホを閉じる。

 舞台裏に顔を出すのはなんとなく勿体なく思えて、人のいない劇場を後にする。

 広めのロビーから外に出る列はゆっくりとはけていて、エレベーターと階段とに分かれた列はスムーズに、それでいて今自分たちが見た劇の嬉しさを隠す事なく自らの側にいる人と語り合っていた。

 そんな中、私の探していた人とその友人達も、ロビーの片隅で劇の感想を言い合っていた。

 

「いやすごかったわ。楽しかったねー。」

「あぁ、初めて見たけど、すごいんだな演劇って。」

を楽しめるシュウなら大抵のものは楽しめると思うけど、

 それ抜きにしても面白かったな。」

「ねー。

 知ってた物語も、アレンジでこんなにわかりやすくなるんだね。」

「清ばあちゃんに感謝だな。」

 

 左腕で筒井君の腕を抱きしめたままに身振りを交えて自らの受けた喜びを表現する大木さんに、三人が柔らかな視線を向ける。

 話を盗み聞かせてもらうに、初めての劇が今回のこれだったということか。

 自分のことでもないのに、それを嬉しく思ってしまった。

 

「や、皆さん。」

「あ、恭香さん。」

「おぉ、イケ女さん。」

「こら。」

「あ、すみません、えっと篠田さん。」

 

 大木さんのあまりといえばあまりな私評に、しかし嫌な感じはかけらも受けずに笑いが先に出てしまう。

 軽やかなおかしさに動かされるように、私の手は彼女の髪を整えてしまった。

 少し跳ねた右の髪に指を通し、指先で左と合わせるように丸みをつける。

 

「うん、可愛くなった。」

「ほら、こういうところだぞ彼氏。」

「うす、勉強させてもらいます。」

 

 肘で彼氏を突く大木さんに、彼氏の筒井君が九〇度頭を下げる。

 気易い友達のような空気のまま、私をダシにしていちゃつく二人を微笑ましく思った。

 くすくすと笑いを溢し、ルカを見る。

 楽しみと共に移した視界に入った姿に、目尻が引き攣る。

 ルカが、彼……山上く、さんの左腕部分に顔を押し付けて笑いを堪えていた。

 小さく揺れる肩に沿うように、緩く結い上げられた髪と横に下ろされた部分が揺れ、ロビーの照明を受けて返す。

 黒髪に映える光の輪が美しくて苛立たしい。

 

「君は、どうだったかな。」

 

 うまく笑えているだろうか。

 私らしい私を演じたつもりだが、初めて演技に自信が持てない。

 声の色は間違いなく喜色を孕ませられていたはずなのだが、どうも受け取り手には黒が透けて見えたようだ。

 山上君は少し目を細め、ルカは眉を顰めてこちらを見た。

 

「楽しかったです。今日初めて見たけど、人がやるだけで本読んで頭の中に作ったものとは全然違いますね。」

 

 ルカの頭に手を乗せながら、彼が返す。

 言葉も、動作も、彼でなければ。ルカの彼氏でなければ私に素晴らしくフィットする答えだったに違いない。

 だが、彼だから。それだけで答えに嫌悪感を生じさせてしまう。

 いつもの私ならすぐに彼の言葉に次の句を継ぐところが、一拍置いてしまう。

 一秒にも満たないその空白に言葉を差し込んだのは私でも山上君でもなかった。

 

「恭香さん。」

「ん、何だい?」


 眉を寄せ、困ったような顔で私の名を呼ぶ。

 ルカの表情に、申し訳なさと言いようのない怒りが湧いてくる。

 その表情をさせてしまったのは、間違いなく私なのだから。

 初めて見る、憂いと悲しみを帯びたルカの表情。

 声に出さなくてもその意が伝わり、私の脳髄が勝手に彼女の表情を言葉に変換した。

 

 曰く、私の彼氏に悪意を向けないでほしい、と。

 

 見捨てられなかったことをルカに感謝するべきであることは間違いない。

 そして、そんな判断をさせてしまった原因が私にあることも明白だ。

 斬炎ながらそれを割り切り、彼氏君に意味のない悪意を向けたことを謝ることは私には難しかった。

 実際、私の中では不快に思っていても友人だとみなしてくれるその優しさに縋りたい気分が間違いなく存在していたのだ。

 

 ぐるぐると、吐きどころのない悪態が粘度を持って臓腑の間を這い回る感じに私自身の落ち度を否定してしまいたくなった。

 だが、彼氏君を見るために細めた目の端でルカが身をすくめるのを見た。

 

 なるほど、私の中で彼は悪意を向けたくなる存在だ。

 けれども、ルカに悲しい顔をさせることの方が耐え難い。

 そう思えたことに、自身の精神のひもじさがまだ取り返しのつくものだと気付き、ほっとしてしまう。

 改めて、視界をいつもに戻し、彼氏君からルカへと目線をやる。

 彼女の憂いの眉が雨に濡れた紫陽花のような心細さを見せてきて、私の胸の奥にある心臓につながる血管をまとめて何本か握りしめられたかのような、たまらない切なさがそこから私を襲った。

 ヒールを鳴らし、山上君の方に爪先を向けて頭を下げる。

 

「ごめんなさい。」

 

 題をつけるのであれば陳謝、そんな風にしっかりと山上君に謝りながら、怒りを腹筋の奥底に押し遣る。

 気を抜けば悪態が形を持って出てきそうで、我が事ながら度し難さにため息も枯れるというものだ。

 いきなりの謝意に毒気を抜かれたのか、彼氏君、山上君がバツの悪そうな没個性顔で頭をかいている。

 

「いえ、その、まぁいいです。久しぶりですけど、いつものことですし。」

 

 な、とルカに同意を求める山上君。

 困ったような顔が、ふわりと光った。

 いろんな子の表情が光る瞬間を見てきた。

 とても覚えのある幸せな光景で、改めて見せつけられる悔しさを苦笑いで押し退けて、あたりの視線に会釈をする。

 私を知っている人、ロビーに残るグループを気にする人たち。

 たくさんの目ににっこりと微笑みながら会釈すると、みんな顔を赤らめて照れながらそそくさとその場を後にする。

 

「さて、そろそろ外に出ようか。」

「え?

 恭香さんはどなたか待ってたんじゃ?」

「いやいや、私はお誘いを受けただけの独り身さ。

 ルカ達は、何か予定あるかい?」

 

 私の言葉に、四人が視線を交わす。

 見た感じ、特に予定を入れていたということもなさそうだ。

 なら、食い込む余地はあり、か。

 心機一転し、心中で舌なめずりをしながら次を積む。

 演劇後、私が冷や水を被せてしまったが四人の中の火は種火となってまだ燻っているはずだ。

 

 口八丁、手八丁。

 彼女ら彼らもいろいろな経験をしたのだろうが、煙に巻くのは私の得意技で、舞台を作ることだって幾度も経験がある。

 気づけば私の旗振りの元、五人を一グループとしてとあるカフェバーで乾杯まで漕ぎ着けていた。

 

「なるほど、今日はお祖母様に紹介されて。」

「えぇ、そうなんです。

 祖母の友人のお孫さんが劇をされているということでチケットをいただいて。」

「それはそれは。

 誰か聞いても?」

「えぇ、お爺さんが長波さんのところの寿郎さんで、お孫さんが−−」


 ルカの視線の先に自分がいて、楽しそうに話してくれることが嬉しくてつい目尻が下がる。

 どうもお祖母様が大好きなようで、一つ良い切り口を見つけられたと思った。

 隣ではルカ以外の三人で話が盛り上がり始めているようだ。

 

「ねー山上君、二本目の劇さ、あそこっておじさんが狂言請け負ってたけど、あれってさ、原本は違ったよね?」

「だったと思うけど、割とありがちなアレンジらしいぞ。」

「え? でもおじさんの立場じゃないとあの後の話繋がんなくないか?」


 あぁ、あの話の事か、とルカに割く意識の片隅でマルチタスクの私が彼らの話を書き留めた。

 視線と視界はルカのために使われているが、耳に入る演劇の話は無意識で拾ってしまう。

 チラチラと彼氏君に視線をやり始めたルカの話の矛先を彼らに向け、二対三で分かれていた話のグループをまた一つにまとめる。

 四人いれば誰かは浮きそうなものなのだが、どうも四人全員が誰とでも話ができるようだ。

 春風のようなルカと、ひまわりのような大木さん、その二人に対して筒井君と山上君は華やかさでは劣るが、どっしりとした存在感がグループの雰囲気をしっかりと形に収めている。

 微笑ましさと、少しばかりの嫉妬。

 そんなものを感じながらも宴は進む。

 

 レディーキラーを薦めまくり、筒井君を酔い潰そうとする大木さんに、適切なタイミングでカットを入れるルカと水を配る山上君。

 気づけば私の前にもカットチーズが供じられていて、ルカとの話には劣るものの、とても楽しい空気を吸わせてもらっていた。

 お花摘みやお酒の受け取りで席を立ち、くるくると座る席が周り、右に大木さん、左に筒井君というポジションに座らせてもらった。


「へぇ、それじゃあ二人は私たちの所からは少し離れた大学なんだね。」

「はい、教育学部とスポーツ医学の学校だとあそこが一番評判良くて。」

「うん、私もそう思うよ。

 何人か知り合いいるけど、みんなあそこで扱かれて正解だった、って言ってるからね。」

 

 ゴシック調のポイントを散りばめた大木さんの姿を上から見下ろせば、今にでも肩を抱きたくなるような可愛らしさについ頬が緩む。

 かたや、反対側の筒井君はその長身のせいで逆に私を上から覗き込む形になり、暗めに絞られた照明が反射するスーツの白を押し上げる私の胸に視線が行きがちになっていてそのたびに視線が大木さんに向くのも可愛らしい。

 久しぶりに裏表のない、気持ちのいい子達に囲まれてカクテルも進む。

 

「ほれ大木さん、炭酸水。」

「うえー。山上君あんがとねー。」

「桃、そこそこにな。」

「んー。」

「桃ちゃーん。だいじょぶー?」

「ルーカー。くひひ。」

 

 ぽすん、と大木さんが私の肩、に倒れると思いきや首を前側に少し落とし、胸側に倒れ込んでくる。

 側頭部が私の胸にのり、立体縫製してもらったスリーピースがいい支えになり、大木さんの頭がふよんと弾む。

 

「ダメか。」

「ダメだな。詩島さん、すいませんその椅子の後ろ、俺のバッグかけてるんで携帯を。」

「はい、これですね。」

「あざっす。」

「慣れてるねえ、三人とも。」

「あ、そうだった。

 すみません、篠田さん。桃ちゃんなら放り出しても大丈夫ですよ。」

「いやいや、いいよいいよ。

 ルカを眺めながらこんな可愛い女の子を撫でられる経験ができるんだからね。」

 

 ゆっくりと体を動かし、私の胸の上で頭を揺らす大木さんの頭を撫でながら各々で動く三人のチームワークを眺める。

 お互いの動作を邪魔する事なく、全員別々の動きをするその姿に熟練の大道具監督さん配下のチームを幻視した。

 ハキハキと動く姿は、なぜ見ていてこんなに気持ちいいのだろうか。

 大木さんのメガネを外してテーブルに置き、私の胸に頬擦りをし始めた彼女の頭を膝の上に降ろした。

 私と大木さん、筒井君の座る場所は三人がけのスツールになっていたため、彼女を横にする動きに支障はなかった。

 私の腿の感触に満足したのか、地の底から響くような京悦の声が膝上から聞こえてくる。

 

「すいません、車呼びました。そいつもらいますね。」

「おや、車が到着するまではこのままでもいいよ?」

「いえ、桃は俺の恋人なので。」

 

 ほう、と感心する息が無意識に漏れた。

 筒井君はどちらかというと大人しめで、控えてくる雰囲気だったのだが。

 私に叩きつけた言葉と、それを言う時の目の光はなんということか。

 私への害意や嫉妬などはない、ただただ強く愛を感じさせるものだった。

 

「うん、そうだね。

 それじゃあお願い。シュウ君、と呼んでいいかな?」

 

 無邪気な笑みが自然と浮かび、彼へとそう声をかけてしまう。

 少し目が開き、照れで頬が上がるその表情は私の顔が作ったものだろうが、蕩けるような情欲を感じない、爽やかなものだった。

 

「はい。

 あ、それとこいつのことも、次会ったときは桃って呼んでやってください。

 先輩の事、結構気に入ってるみたいなんで。」

「あぁ、それは光栄だね。

 なら、今度会うときは私も名前でいいよ。

 好きなんだ、私の名前を言われるの。」

 

 座る位置を筒井君と代わり、彼女を膝枕する彼氏というなかなか見れないものを生で見れた喜びに浸りながら私も鞄を取る。

 時間は二十四時を回るかどうか。

 驚くことに、結構な長時間を五人で過ごしていた。

 そろそろ幕も引き時だろう。

 桃ちゃんのおねむも、いい区切りだったのかもしれない。

 

「ありがとうございます、篠田さん。」

「ルカの友達だ、とここにくる前なら言ってたんだろうけどね。

 うん、今は桃ちゃんになら膝くらい貸したって構わないよ。」

 

 ほんの少し、グラスの残ったワインを揺らしながら隣のルカにそう言う。

 話すことに距離も疲れも感じない、とてもいい子だと思ったし、ルカの友人という下駄を履かなくても私は彼女を好きになっていた。

 次いで、筒井君も。

 山上君? あぁ、彼はその、敵だから。

 

「やっぱり、素敵ですね篠田さんは。

 桃ちゃん喜びますよ。」

「おや、そうか。

 ところで、ルカもそろそろ私を名前で呼んでくれていいんだよ?」

 

 つ、とグラスの口をルカに向ける。

 私の視界にクリスタルグラスの反射と白ワインの色、そしてルカが一遍に写る。

 目で味わう羽化登仙というところか。

 着飾ったルカが仲の良い友人といることで、その美しさの中に少女のような愛らしさを滲ませている。

 

 来てよかった。

 見てよかった。

 劇の素晴らしさも、語らいの楽しさも。

 目に映る愛しさも、音に聞く麗かさも。

 一日を素晴らしいものと区切るには、余りにも足りすぎていた。

 

「お、来たんじゃないか。」

「ん? お、まじだ。さんきゅな、元。」

 

 男二人で話し込んでいた山上君の声に、筒井君がスマホに表示された通知に気づいた。

 では、と席を立つ。

 山上君が立ち、ルカに手を差し出した。

 シュウ君が眠る桃ちゃんの体の下に手をやり、お姫様抱っこから人形を抱き抱えるような横坐りの抱き方に抱え直した。

 それなりに逞しいシュウ君の腕に抱えられた小さな桃ちゃんは、とても安心した寝顔をしている。

 

「さ、上がろうか。」

 

 私の声に、三人が頷いた。

 すでに会計は私のつけで済ませている。

 ドアを開け、階段を上がり、店の前で待つタクシーにシュウ君が乗り込んだ。

 

「今日はありがとうございました。」

「こちらこそ、楽しかったよ、シュウ君。

 またね。」

 

 私の言葉にくにゃ、と顔を緩ませ、はい、と返してくる。

 一言二言ルカに山上君とも話すと、タクシーはそのまま発車した。

 

「ん、ルカと山上君は一緒に行かないのかな?」

「はい、今日はその、ちょっと…」

 

 薄い化粧をのせた白い肌がアルコール以外を起因として赤くなっている。

 微かに潤んだ目と、その視線が向く先に理解を強制された。

 付き合いたての中学生か何かを見ているような気になるほどに初々しいルカの姿。

 それを見てしまっては、邪魔をすることを恥じる程度には、私は羞恥心というものをしっかり持っていた。

 

「そっか、楽しんでくるといい。」

「はい、えっと、恭香さん。

 また学校で。」

 

 あぁもう、やめてくれ。

 今すぐに引っ掴んで攫って、二人しかいない部屋に閉じ込めてしまいたくなってしまうじゃあないか。

 勝手に動きそうになる体を鉄の心で抑え、ルカに手を振るだけに留めた。

 背をむけ、歩き出すルカ。

 山上君はそんなルカを追う前に、私に軽く頭を下げた。

 

「ごちそうさまでした。」

 

 社交辞令か、礼儀か。

 少々迷うところだが、ちゃんというだけしっかりした子だ。

 ルカの彼氏でなければ、ちゃんと評価してあげるんだけどなぁ。

 

「うん。

 山上君も、またね。」

 

 そう言い、ついイタズラ心が湧き、アルコールによる脳の麻痺も手伝って口が動いてしまう。

 

「気をつけてね。」

 

 どんなつもりで言ったのか、私よりも山上君の方がわかっていたのかもしれない。

 私の挨拶に対し、小さく嘲るような息を漏らし、しっかりと頭を下げて礼をする山上君。

 頭の位置を戻し、ルカに向けて私に背を向けると私にだけ聞こえるような声でポツリと呟いた。

 

「十五年遅い。」


 背をむけ、先を歩くルカに並ぶその背を見ながら。

 あぁ、その顔を歪めてやりたい。

 心からそう思った。

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