03 鞘当
瞼を開け、最初に目に入ってくるのはシーリングライト。
ぼやけた視界の中、両手を動かすが私の体を覆う毛布以外には触る物が無いことに少々寂しさを感じてしまう。
季節は春、エアコンを動かすまでも無く、部屋の隅で通常動作を行っている空気清浄機だけで空調は問題ない。
こんなにも過ごしやすい夜を独寝で過ごしてしまったことを悔やんでしまいそうになる。
ちらりと壁に目をやれば、起床予定時刻だった五時の五分前。
二度寝するにもちょっとな、と状態を起こし、ベッドを降りる。
洗口液で口内を流して、顔を洗って軽く下地を塗る。
鏡の中で微笑む私自身をじっと見つめ、変わらず綺麗だと微笑んで下着に服を着る。
鞄を掴み、陽光が低い街中を歩いて向かうのは、駅に向かう途中にある二十四時間営業のジム。
レンタルロッカー内に放り込まれているジャージに着替えて軽い運動の後に一汗流す。
運動とシャワーで目を覚まして、駅近くのお婆さんが道楽でやっているカフェで朝食を摂っての登校。
そんな毎日のルーティンをこなして大学へと向かう電車内。
通勤のために乗り込む人もまばらな車内で、メッセージアプリに着信が飛んできた。
送信元は同じ芸術史の講義を受けている友人で、どうも講義をするはずの教授が唐突に旅行に出たせいで講義が休みになったそうだ。
そういえば昨日の夜中、ニュースサイトでなんとかという画家の習作が倉庫の奥から見つかったと地方の美術関連記事に出ていたなと思い出した。
ニュースを見てから飛行機を取って、即飛んだとして、なるほど。
大学に一報入れるのを忘れるのは、あり得る人だ。
国内でも屈指の感性と記憶力、そして偏執的な執着心がなければ間違いなくクビになっているような人だろうが今年はまだ二回目。おとなしい方だ。
さて、どうしたものか。
朝一から講義を受けるつもりだったので、ちょっとやそっとの待ち時間は問題視していなかったし、なんなら講堂で時間を潰すことも考えていたのだが。
目的の美術史の講義が無くなったせいで、後は昼食後に一限出れば十分になってしまった。
今から戻るのもバカらしいし、どうせなら適当な講座に顔を出して冷やかしてやろうか、そう思って他の講義を見る。
数学、超弦物理学、地政学、南北朝専攻史に経営学。
と、指が最後の経営学をなぞるところで止まった。
そういえば、ルカが取っていた。
脳内に何人かの女の子を思い浮かべ、面倒な関係になってしまった子は取っていないことを再確認して、本日の予定を決めた。
うまく行けば、昼食まではエスコートできるかもしれない。
うん、と小さく頷いて、自分に向けられた視線に気づいた。
向かいに座るのは、制服に身を包んだ女の子。
中学生くらいの女の子だろうか。私を見つめる目が潤んでいて、頬もりんごのように可愛らしく染まっている。
これは、やってしまったか。
ウインクを一度、微笑みの表情に乗せる。
彼女は食いしばるような、なのに口角が上がるような、そんな表情のまま顔を伏せた。
あぁ、可愛らしくてしょうがない。
こんな子を誘惑してしまうなんて、こまったなぁ。
恋はこんなに、私を美しくしてしまうのか。
ほんと、罪な子だ。
脳裏に黒髪のあの子を思い浮かべ、席を立つ。
降りぎわにこちらを見ていたので、サービスで手を振ると小さく、しかし勢いよく手を振り返してくれた。
足取りは軽い。
踵が地面につくより先に、つま先が私の体を前に弾く。
ステップを踏むような足取りを無理やりに地面に押し付け、浮かれた心を押さえつける。
今日は花粉も舞っていない、目薬もさしていないのにこの顛末だ。
唇が綻んで、いつもの表情とは違うのが自分でもわかる。
思い立って自撮りをしてみたが、なるほど、我が顔ながら魅力的だ。
朝に見た鏡の中の自分よりもよっぽどいい。
弾む足をそのままに、すれ違う知り合いに挨拶をしながら校舎を歩く。
目的の講堂は北寄りの第二校舎二階。
一年前に通った講義名と、よく見た教授の名前がドアのディスプレイに表示されている。
コンビニに寄ったり、ちょっといい枝ぶりの木があったりしたので写真を撮ったりと、目に入る物を楽しみながら歩いてきたが元の出発時間が早かったため、人のいない時間にくることができた。
カラカラと小さく車輪を鳴らしてドアを開けば、教壇で講義前の準備をしている講師の先生がいた。
四角四面な性格を思わせる、巌のような造形をした初老の男性は私を見るなり、胡散臭そうに顔を歪めてみせる。
ひどいな、こんな可憐な女性を相手にその表情はないだろうに。
流石に放り出されるようなことはないようで、教授は準備を続ける。
ふん、という鼻息にヒラヒラと手を振り、一人分の資料を受け取ると最上段、最奥の席に座る。
春の朝の日差しは白いカーテンに光の粒を乗せ、講堂内を柔らかく映えさせてくれる。
スマホと手帳、ペンを机に広げ、講義開始までの時間潰しを始める。
さて、ルカは来るか、来ないか。
そんな期待と共に待つ時間を楽しみながら、後輩や友人のポストにマークをしたり、反応を返したりする。
流れる情報に、私自身がどれだけの枝葉を持っているのかを認識する。
見たかったこと、覚えておきたかったことがふわふわと浮かんでは改めて脳裏に落とし込まれる。
九割の石と、九分の苔、九厘の塵を除けて一厘の珠を自分のポケットに入れてからスマホの画面を落とす。
気づけば講義開始まであと十分。
講堂にはまばらに人が入ってきていて、各々好きな場所に散らばっている。
寝ている子、話してる子、ノートを広げている子にスマホを複数台机に並べている子もいる。
何人か知り合いはこの講義をとっていたと思うのだが、私のように冷やかしがてら顔を出すものはいないようだ。
時折向けられる視線と挨拶に笑顔で手を振り、幸せをお裾分けしていると私の待ち望む子が来た。
講堂内にざわりと潮騒のようなどよめきが薄く流れる。
ドアを開けて入ってくるのは、陽光を手繰って縒り上げたような美しい金の髪を持つ女性だった。
ギリシャの彫刻のように美しく力強い線で表現された|顔<かんばせ>はアジア人には無いような精悍さを称え、冬の早朝をはめ込んだような青い瞳が講堂の照明を反射する様はまるで美術館の宝石を思わせる。
スーツスタイルの肢体は男性のような服を身に纏っていながら滑らかな曲線を抑え切ることができず、いっそ艶めかしくすらあった。
とまぁここまで褒めてみたが、つまりは日本人が考える、そのものな女性が入って来たわけだ。
そんな彼女の登場に、講堂にいた男性諸君がざわめきたち、必死に彼女から体を背け、しかして視線だけはチラチラとむけていく。
全く、胸が見たければ堂々と見ればいいものを。
そんな視線の渦中にある金の髪の女性から睨むような視線が向けられるが、それを気に留めることもせずに私はその次に入ってきた女性に熱を向けた。
夜を織ったような黒、頬擦りしたくなるような白い肌に、桜を載せたような小さな唇。
美しさを数値で表すのなら直前の豪奢な金の彼女に及ぶべくもない少女に、私の心が締め付けられる。
今日はロングスカートにニットセーター、落ち着いた紋様のカーディガン。
文学少女然としたコーディネイトに、また惚れ直してしまった。
すでに一度振った相手からの恨みがましい視線をあしらいながら、席に座る黒髪を眺める。
机に文具を並べる動作にすら愛おしさを感じてしまうが、あまりじっと見ていると失礼かと壇上の教授に目を向ける。
教室前面の黒板前に貼られたスクリーンはいくつかの画面を映している。
確か実例にしていた企業は私の時にはあれじゃなかったはずなんだが、と思っていたら私の見たことのある実例企業が付録として表示された。
毎年資料を更新しているのは以前受講した時に思っていたが、今年もやっているのかと感心してしまう。
これは、良い時間潰しになるかなと思っていると隣の席に置いてある私のカバンの隣に物が置かれた音がした。
む、と思って右側を見る。
女神が私を見下ろしていた。
『何故私を迎えに降りてこなかったの?』
『春の日差しが心地よくて動きたくなくてね。』
日本語以外での会話は久しぶりだが、どうやら私の耳はまだ響きを覚えてくれていたようだ。
脳内の言葉を翻訳し、舌は日本語では出さないような発音を問題なく行ってくれた。
ふむ、しかし伝えたい言葉はきちんと言えたはずなのだが、どうもお気に召さなかったようで彼女の瞳に苛立ちの火花が映えた。
『やっと私の元に戻ってくる気になったのでしょう?』
『おやおや、お互い了解の上だろう?
私は君に頼まれて一夜の恋人を演じただけさ。』
彼女に向き直り、大きく腕を広げてそう言って見せる。
にこやかに、爽やかに、端的に。
できる限り朗らかに行ってみたのだが、やはり彼女の機嫌は傾き続けている。
困ったような顔をして、彼女を見上げる。
やはり美しい。
血の通った芸術品の如き美しさを私の背からの陽光がさらに際立たせる。
目を細め、心から称賛を送る。
それでも彼女の望みではなかったようで、ずいと私に顔を寄せ、私の目を覗き込む。
『あんな地味な女を今度は狙うつもり?』
『モネにはモネの、ドガにはドガの美しさがあるのさ。
彼女こそが、今の私の美だ。』
切り捨てる私の言葉に、彼女の頬が俄かに赤をさした。
二人きりで食事でもしているのなら聞いてあげるのも全く問題はないのだが残念念ながらここは講堂で、あと三十秒もすれば講義が開始される。
それは周りの一年生に補講の二年生たちに迷惑をかけてしまうことにつながってしまう。
それ以上の年次のやつは趣味できてるに違いないからまぁどうでもいい。
薔薇のような鮮やかな唇に指を乗せる。
途端に、彼女の頬の赤がその趣を変えた。
彼女から放出されそうだった怒りが霧消し、目に浮かんでいた火花は薄く揺れた色欲に消された。
指に力を入れ、押すと彼女は椅子に腰を下ろした。
唇から指を離してニコリと笑いかければ、恐る恐る唇に手をやり、頬を染める。
アテナのような強い美しさを持つ女性が一瞬だけ恋する乙女になるこの瞬間は、いつ見ても癖になる。
『ごめんね、君の美しさは、今の私にとっては寄り添う形としては認められないの。』
私の言葉に、情欲で潤んでいた彼女の目から哀しみが溢れようとし始めた。
それは、あまりよろしくないと彼女の瞼に指をやる。
ほんの少しだけ溢れるそれを拭い、額をチョン、と指先で触れる。
『それよりほら、前を見たらどうだい。
燃えるような恋の話ではなく、脳裏に積み上げる知識を得にきたのだろう?』
にっこりと彼女に微笑むが、どうもお気に召さなかったようで鞄を掴むとズカズカと大股で私から離れ、同列の反対側に座った。
怒りを収めるためか、紅濃くしたような頬につい笑みを浮かべてしまう。
が、私の視線はすぐにその四列ほど前の女の子に向かった。
照明を冷たく受け止め、柔らかな光として返す淑やかな黒髪に、ほう、と無意識に息が漏れてしまう。
斜め後ろから見える表情は真剣で、自らが選んだ知識の取得に集中していて、学びを心から望む姿を体現していた。
その視線が自分に向いていないことを少しばかり悔しく思うが、温かな雰囲気をそのままにペンを走らせるその姿はとても愛らしい。
時折空調で揺れる髪と、その向こうの白い首筋から目が離せなくなる。
無理やりに目を閉じ、意識を変えて教壇に目を向ける。
一応、折角の聴講で昔との違いもわかる講義だ。
ルカの愛らしさは時折堪能するだけにして、見た目だけでも真面目そうに装うことにした。
そのまま一コマ分、五十分の講義を終える頃には情実人事による失敗談の数々とルカの真剣な眼差しを脳髄の書類棚に整理することができた。
席を立ち、目的地たるルカのもとに向かう。
その途中で金糸に指を潜らせて悪戯をする。
跳ねるようにこちらを向く彼女に、ごめんねの意を込めて片目をつぶって手を振る。
いいお友達でいましょう、ってことだ。
「やあ、ルカ。奇遇だね。」
「おはようございます、篠田さん。」
肩に回した手を滑らかに外されて、二人連れ立って講堂を後にする。
何の変哲もないキャンパスの一日。
それがとても色鮮やかに感じられるような気がした。
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