01 マクガフィン

 一目惚れというものは、私にとってはされる物だった。

 劇団員の母と、一流商社の父。

 その間に生まれた私は母の美しさを存分に引き継いでいたようで、子供の頃から称賛される言葉には事欠かなかった。

 自分は綺麗なんだ、可愛いんだ。

 そういう物だと認識をしてからは、鏡を見て、どこがどう可愛いのかを理解しようとした。


 肌を褒められれば、肌を綺麗にしようとした。

 髪を褒められれば、髪の手入れを念入りにした。

 造形を褒められた時には、どの角度が一番いいのかを必死になって探そうとした。

 私が美しければ周りの人が喜ぶし、私も嬉しい。

 だから、私は美しくあるべきだし、美しいことがいいんだ。

 そういうふうに思っていた。


 そんな私に転機が訪れたのは小学生の頃。

 学校で使う使い古した服を家の中で探していた時、たまたま見つけた灰色の箱。

 何に使うものなのかわからず父に聞いたところ、VHSというもので、昔は磁気テープに動画を保存していたのだと教えられた。

 何が入っているのか尋ねると、パパの好きなものが入っているんだよ、と照れながら言われ、ママには内緒だぞ、とその不思議な箱に記録された動画を一緒に見せてもらった。

 ディスプレイに映る画面はざらざらしていて、あまり音質も良くない。

 カメラが悪いのか、それとも媒体がダメなのかな?

 何にせよ、あまり期待できないな、なんて思っていたが、画面に映る幕が上がるとそんなものは吹き飛んだ。


 画面の舞台にいるのは、若かりし頃の母だった。

 化粧をし、髪型を変え、声も日頃聞くような出し方ではない、耳よりももっとお腹の辺り、私の真ん中に響く声。

 全然違うのに、不思議と母だとわかる美しい女性が、舞台の上で手のひらに居ないはずの小鳥を相手に春を歌っていた。

 舞台全体を映す引きの絵、観客としての冷静さを強要するようなその画角にも関わらず、私の視線は舞台の上を歩く母に引き寄せられ、何一つ置かれていないはずの舞台の上に、間違いなく緑の絨毯と青空、日の光を幻視させられる。


 舞台上に他の人が出てきてからはさらに圧巻だった。

 母の声で、母の顔で、母みたいな人が、お姫様をしていた。

 声をかけた時にはいつも振り向いてくれた、その方向が違う。

 話し終え、空白ができた時に指の腹をするような癖なんかなかったはずなのに、昔からそうだったかのように自然にそういうことをしている。

 きっと、もっと母じゃない母がいるはず、にもかかわらずそれを確認できない画面の荒さに歯噛みしながらも私は舞台をじっと見続けた。


 舞台は一時間。

 小演劇のようなものだったのだろうが、小学生にも満たない頃の私が、よくもまあ一時間もディスプレイの前から動かなかったものだ。

 ただ、ここで全く動けなかったことで、その動画が私の人生の標として強く打ち込まれたことも間違いないだろう。

 それから何度も私はその動画を見直した。

 VHSは使いすぎると劣化するということだったので、タブレットに動画として落とし、母にバレないように、その動作、言葉を真似た。


 反復による記憶と、私の自覚しなかった演技に対する才能が身体を突き動かしたとしか思えない行動だった

 何も見ていないはずの母の目の先にあるものを想像し、何一つ置かれていない舞台上に階段や机を見た気がしたのは何故かを考え、演じられるお姫様がその時に感じていた事を想った。

 処刑に向かうまでの一時間の舞台、ぐるぐると回る季節。

 果てる事が決まっているのその姿、哀しさが観客の胸を打つというのに、その美しさはいや増してゆく。


 美しさの基準、私にとってのそれがこの粗い画質の中のお姫様が強い基準になってゆく過程だった。

 かっこいいと言われる俳優でも、美人だともてはやされる映画スターでもない。

 自分の上に他の人を着込み、他人の情動を激しく揺さぶるその姿、私はそれにたまらない美しさと憧れを感じることになったのだ。


 母に話を聞こうとしたことは一度では済まない。

 目の前に理想の姿があるのだ、聞かないわけがないだろう。

 ただ、母にとって演技の世界はもう手を切ったもので、自分が出た舞台の話をされると恥ずかしがって機嫌が悪くなる、と父に言われてしまっていた。

 母は優しい人だ、しかしそれ以上に豪快なところもあって、悪さをした私の尻を叩くのはいつも母の役目だった。


 一般常識を修め、叱られることも少なくなった私ではあるが、それでも母にはどこか畏れと恐れのようなものがある。

 普通に話したりどこかに行ったりする分には問題ないが、だからと言って怒らせるような踏み込み方は絶対にしたくない。

 結果、私は恐る恐る母の逆鱗がどのあたりか探りながら演劇について話をしてみることになった。

 テレビのニュースをきっかけに、流行りのドラマを手掛かりに。

 劇団ってここが一番大きいの?

 今の人、前の人より話し方下手じゃなかった?

 今にして思えばわざとらしさが透けて見えるが、あの当時の私にはそれが精一杯で、そんな浅い演技など母にはお見通しだったに違いない。

 

 そんな私の狡っ辛い行動に、母は何食わぬ顔で付き合い続けてくれた。

 時を経て、スカウトを断った回数を忘れるほどになり、いくつかの劇団を経由して自身の才能の上限を見切った私は劇に対する接し方をパトロンとなる方向に定め、勉学に励むこととなった。


 たくさんの劇を見た。時には飛び込むこともあった。

 一流と呼ばれる存在には到達できなくて、それを生業にするだけの自信も持てなくて。

 それでも、緞帳の上がるあの時間が。

 自分の思考が舞台の上に縛られるあの感覚が忘れられなかった。

 そこに立てなくても、ライトの下にいなくても。

 照明がつくときに、拍手を打つことをやめたくはなかった。

 

 人生を賭けて、役を演じるのではなく。

 人生を彩るために演劇を嗜むことを望んだ。

 安定した生活を。余裕ある生活を。

 人生をよく過ごすための、演劇との付き合いを。

 

 私はいわゆる実家の太い人間ではあるが、劇のために費やす費用は自らの成果でやりたかった。

 幸い脳味噌の出来は悪い方ではなかったらしく、学校の勉強は苦にならなかった。

 歴史に外国語は劇のことを学んでいれば触れることも多い範囲だし、国語にだってそれは及んだ。

 数学、物理等の暗記科目以外では私の興味の針はぴくりとも動いてはくれなかったが、それはそれ、蜜の前には苦味があって良い。

 いやはや、顔がいいということは、勉学を教わる上でもとても役に立った。

 いたいけな少女の性嗜好を歪めてしまったかもしれないが、あれは私も若かったからね、仕方のない犠牲というやつだ。

 

 そうやって要領良く学業の主幹たる面白くもない勉学を積み、大学へと苦も無く入ることができた。

 一年目から就職に向けての情報を集めつつ、最後の受験から解放された開放感でちょっとやってしまったが、ご愛嬌。

 そして三年目のキャンパスライフ。通算七人目の恋人と円満に別れて久方ぶりの独り身を楽しんでいた時に、私は彼女に出会った。

 

 どこぞの有力な政治家先生の娘さんだとか、高校時代に浮き名を流したドン=ファンだとか。

 学内でも有名なそういった子達には感じなかった衝動をその時に感じた。


 木陰のベンチで本を読むその姿。

 まるで一枚の絵画のように。

 風も、陽光も、今私にみられるこの瞬間を作るためにあるのかと思うほど完璧な一瞬が私の目に飛び込んできた。

 ため息も、感嘆も、私の喉を通りはしない。

 ただ一度、大きく鼓動が跳ねた。


 いつも、女の子に声をかけるときは細心の注意を払っている。

 この子が見せたい物は?

 誉めて欲しいところは?

 コーディネイトの芯はどこ?

 どういう立場の声をかけて欲しい?


 自然と人のほしがる言葉をかけられる人もいるらしいが、残念ながらそういった才に乏しい私は何時だって思考と推測を繰り返す。

 どうせお話をするのなら、楽しく過ごせない時間にはしたくないのだから。

 そう、私はそう言う風にちゃんと物事を考える人間の筈だった。

 しかし、その自身評も賢しらに、本気で情動を動かされたことがないが故の物だったようだ。


 呼吸により心拍数を下げて頬の赤さを抑え、背筋に力を入れる。

 見上げる形になる彼女に最も美しく見えるように顔の角度を微調整して彼女の視界の端に爪先が入るように立ち位置を定める。

 

 視界に入ったシューズのつま先が自分を向き、動かないことに気づいたのか彼女が視線を上げる。

 あぁ、いい。

 装飾や比喩を考える間もなく、私は純粋な心からの感嘆を声なしに呟いた。

 聞こえてしまわなかったかな、おかしく思われなかっただろうか。

 私らしからぬ動揺を楽しみながら、舌の先から声を滑らせた。

 

「初めまして、お嬢さん。

 見かけない顔だけど、新入生かな?」

 

 彼女の視線が自分に向いたことを確認してから膝を折り、座っている視線に高さを合わせる。

 立ったまま格好をつけようと思ったのだが、一刻も早く彼女の目を覗き込みたくて体が勝手に動いた。

 私を見る目は、疑問と困惑を詰め込んだ色で、頬の一つも染めないその姿がとても愛おしく思えた。

 

「はい、お声がけありがとうございます。

 その、何か御用でしょうか。」


 膝の上に広げていた本を閉じ、両手をその上に重ねると姿勢を正し、私に向かい合って答えてくれた。

 見て再度思った。

 やはり、私が見てきた中で特別に美しすぎるというほどではない。

 母のコネで出会ったことのある現役の舞台女優や、そういったお店のトップランクの女性たちに比べれば、煌びやかさや数値として表せる美しさとしては物足りないものだ。

 だけど、私の心音はどんな有名人にあった時よりも早鳴っている。

 顔だけじゃない、雰囲気も含めて私は目の前のこの子に一片ならぬ好意を持った。

 一目惚れ、というやつだろうか。

 彼女の髪を透かして見える背景すら、色鮮やかに見えた。

 

「あぁ、ごめんね。

 何か特別な用があった訳じゃないんだ。」

 

 唇の前に、指を持ってくる。

 そわそわと動きそうな手を、自分の意思で動かすことで不審な動きを消す。

 

「私は篠田しのだ 恭子きょうこと言って、ここの三年生をしているものなんだ。」

 

 気づけば、自然に左手が彼女の膝の上の手を覆っていた。

 なるほど、こうすれば思わず手を伸ばしたように見えるのか。

 自分の左手の勝手な動きに驚きながら、勉強になるような気がして、ついつい脳の片隅では演技を楽しむ私が今の動きをしっかりと海馬に焼き付けていた。

 

「君があまりに綺麗で声をかけてしまったんだ。

 よければ少し、お話しできないかな。」


 私の声に、彼女が重ねられた手を持ち上げながら答えてくる。

 優しく持ち上げる右手、甲を覆う左手。

 滑らかで愛おしい温度のその両手に鼓動が伝わってしまわないだろうか。

 だめだだめだ、私は格好いい女性でいたいと言うのに。


「ありがとうございます、でも、お姉さんの方が綺麗ですよ。」

 

 にこりと微笑み、そう答えた彼女を見て、欲しい、とそう思った。

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