58 誘われた
革張りのソファーにアニメ色のない音楽。
ニスが塗られ、使い込まれた飴色に変わっている木材。
俺が足を踏み入れたカフェは半地下にありながら不快な湿気は感じられず、いっそ外よりも空気がうまく感じてしまうような快適さだった。
「えっと、二名です。」
「はい、お好きな席へどうぞ。」
灰色の髪をオールバックに撫で付けたやたらとガタイの良いおじさんに少し怖さを感じる。
ただそんな恐怖は俺のみのものだったようで、大木さんは普通に質問をしていた。
入り口でキョロキョロと席を大雑把に眺め、奥側のテーブル席に足を進める大木さん。俺もその後を追う。
リュックを背負った小柄な姿に先導されていることに少し恥ずかしさを感じてしまった。
「わぁ、すごいよ筒井君、このソファー、低反発っぽくないのにすごい座りやすい……と、うん、ごめんね。」
俺と対面に座り、椅子の座り易さに感動を述べる大木さんだったが、どうも俺の表情にいつもの軽い話からのジャブができないと思ったらしい。
別に続けてもらっても良かったのだが、それだけ俺の|面≪つら≫が酷かったのだろうか。
そんなふうな自分に情けなさを感じるとともに、少しだけフラットに戻りかけていた気持ちがまた俯き始めた。
「いや、謝られることじゃないし。」
「うん、じゃぁ私の自己満で言わせてね、ごめんなさい。」
女の子に、頭を下げられる。
自分が告白を振られる以外でこんな経験をするなんて。
「んで、教えてもらっても大丈夫?」
「あぁ。」
聞いてほしい、と言ってしまったが、さて。
今回の騒動の全容は今の俺から話して良いことではない。それは流石に道義に悖るってやつだろう。
端的に言うのであれば、恋愛とか彼氏彼女とか、そう言うのに持ってた憧れがクソまみれになった気がして仕方ないと言うことだ。
その結果、そんなものを見せた上、飄々としている元になんかイラついている。
そして、その結果たる古賀に哀れみを持ってしまいそうで、なんか下に見てるようで恥ずかしいような自分に失望しているような。
自分基準でたくさんの判定を繰り返し、勝手に友人関係を経とうとしている自分をなんとか肯定しようとしているような、否定しようとしているような。
そんなこと、目の前の女の子に話すのはこれまたなんというか、あんまり良い気もしないし、カッコ悪い。
結局、部分的にも全体的にも話を切り出すことができず、何から話したものか、その決定をできずに俺はテーブルの木目を眺めることしかできなかった。
何も言えない俺。時間は過ぎ、視界の端の影が動いた。
「あ、すみませーん。
この季節の紅茶二つと、プレーンシフォンケーキにレモンホイップたっぷりつけてお願いしまーす。」
かく、と状態を支えていた腕から力が抜けてちょっとだけコケた。
じとりと下から半目で大木さんに視線を向ける。
そんな俺の目線は、テーブルに肘をつけ、組んだ手の上に顎を乗せる大木さんからのまっすぐな視線で受け止められた。
クリクリとした丸く、大きな目は暑さも冷たさもない、空気のような自然さで俺を見つめていた。
あまりにもしっくりきてしまうその視線に、女の子の目を覗き見ていることも忘れ、自然に瞳を見続けた。
眼鏡に映る自分が、呆けた顔をしているのに気づいた。
「やぁっとこっち見たね。
いつもはしっかり見てくれるのに、今日は全然だったねぇ。」
ンフ、と目と口が笑みの形になった。
人畜無害を擬人化したようなその小さな体と暖かな雰囲気に、いきなり佐藤先輩が重ねられて、こちらも釣られて笑おうとした目が引き攣ってしまう。
結局中途半端な引き笑いの顔をそのままに、目がまたテーブルに落ちてしまう。
いっそ思いっきり失望の言葉でも叩きつけて、席を立ってくれた方が俺の今の精神的には安心してしまうような気もする。
さもなくば、何かで顔を上げさせてもらうか。
そこまで考えて、それらが全て他人からの働きかけであることに気づき、また一つ頭の上に重石が乗った気がした。
そんな俺に呆れたのか、大木さんももう何もすることもなく、また時間だけが過ぎる。
何かを考えようとするがすぐに散逸する思考。
結局ぼうっとしたままで、本当にただじっとしているだけの時間が過ぎた。
そんな状態で、視界に入ってきたプレートを契機に、やっと俺は少しだけ視線を上げられた。
「こちら、本日の紅茶、ダージリンオータムクラシックでございます。
龍眼の香りで好き嫌いが別れますが、とても香り高い逸品となっております。
ストレートに砂糖でお楽しみください。」
俺と大木さんの前に提供されたのは銀の盆の上に乗った小さなティーポットとシンプルな乳白色のカップ。
古賀の別れ話を聞いた時とは違う柄に、少しホッとしてしまう。
お茶を入れる気になれず、テーブルの上に肘をつき、なんとなく、茶器を眺める。
ポットの口から立ちのぼる湯気に、店内がとても快適な温度だと言うことに今気づいた。
かちゃ、という音に視線を向ける。
大木さんがポットからカップへとお茶を注いでいた。
「うわ、すごい。」
注ぎながら、小さくそうこぼす。
音からすると大して入れてもいない筈なのに、ポットを置く音、カップを持つ音が連なった。
「ふわ、すっご。良い匂いだぁ。
強い匂いだけど、うん、好きな匂いだなぁこれ。」
微かに聞こえる呼吸音、匂いだけを嗅いでいるのだろうか、だとすると、鼻音か?
何も考えていない頭に、大木さんの声が響く。
暗く澱んだ視界に、少しだけ明るさが戻った気がする。
そのまま大木さんの独り言を聞いていると、その声の分だけ、自分の中に柔らかい明るさが滲んでくるようで、目が自然に自分の前に置かれたティーポットへ向く。
ノロノロと、腕が動いてポットの持ち手を掴む。
滑らかで、それでいて吸い付いてくるような陶磁の持ち手にぴくりと目尻が動く。
カップへと向けて注がれる紅茶の名に恥じないルビー色の液体と共に注ぎ口から漏れてくる湯気が俺にその香りを運んでくる。
強い匂いだった。
ただ、眉を顰めるような匂いじゃない。
つんとくるような香水のそれでもなく、部活中に強く感じる花を指すようなゴム臭や汗の匂いの感じとは違う、重く深い匂い。
確かに、好みが分かれる匂いだ。
(嫌い、じゃないけど。俺が好む匂いは、そう。もっと……)
そこまで考えて、視界に柔らかな木の匂いが浮かぶ。
つられるように井草と、遠く香る土の匂い。
匂いを思い起こすと同時に、元と清子お婆さんの顔が浮かんだ。
思い出された顔が笑顔であることが苦しくて、ポットの傾きを戻す。
カップ三分の一程度で止められた紅茶は、白い器の中でゆらゆらと赤い波を揺らしていた。
「今年はさ、私結構遊んだんだ。」
カップに口をつける気がしなくて、ポットをトレーに置く。
そんな俺の前から、声がした。
一番聞いた回数の多い女の子の声だ。
一番近くで聞いたことのある女の子の声でもある。
「中学校の時、話はするけど学校出たらもう遊ぶことなんてあんまりなくて。
家の中でパソコンとデッサン帳いじる以外何もしてなくてね。」
クフフ、と苦笑する音が声に続く。
話された言葉に、そういえば、あまり高校になるまでは親しい友達もいないと聞いたなと思い出す。
中学時代の友人を思い出し、いくらか連絡も取り合えている自分。クラスや部活でも、わざわざ会わずとも時々連絡を取り合う中学時代の知り合いがいるやつはそれなりにいる。
そんな普通の範疇に大木さんがいないことに気づき、ちょっとだけ、気持ちよくなってしまうとともに、大木さん相手ですら小さなマウントを取ろうとする自分が不意に佐藤先輩と重なってしまう。
「けどね、今年は違ったの。
筒井君とお勉強した後にもルカと遊んだり、別のグループとストリートミュージシャンの集まるフェスに行ってみたり、ヘルプでバイト入ってみたり。
ほんとに楽しかったんだ。」
じっとこちらを見つめる目が、俺の中の暗い思考をにわかに溶かす。
あんまりに真っ直ぐで、俺に伝えたいと言う意識だけで。
ひねて受け流そうとする俺に対して、ただただ大木さんの素直な言葉が差し出される。
「今年、いろんな人と会ってさ、色々やって、嫌なこともあったし、失敗したなーって思ったこともあったけど。
それでも、私は手を伸ばしてよかったなって思った。
だって、三年間の中学校の夏休みより、今年一回分の夏休みの方が、絶対楽しかったんだ。」
思い出すように、遠くを見るような目で中空を見つめる姿がとても眩しく思えた。
その姿にも言い訳をつけて貶そうとしている俺がいて。
自分でわかっているのに、毒を浴びる自分が止められない。
気分を変えようと、お茶に手を伸ばそうとするがテーブルの淵からカップまでの距離がやけに遠い。
結局何をするでもなく、テーブルの上に俺は手を置くだけで止まってしまった。
ちらりと大木さんを見る。
彼女は俺から目を外さなかったようで、上から見上げた視線はすぐにメガネ越しの可愛らしい目に捉えられた。
何かを言うべきかとも思うがどうもうまくいかず、へへ、と曖昧に笑う。
俺の笑みと言えるかもわからない愛想笑いに、彼女は笑顔のまま、ほんの少しだけ困ったように眉を寄せた。
カップを両手で持ち、ふうふうと冷ましながら口をつける彼女を視界に入れたまま、俺はぼうっとしていた。
そんな俺に、彼女はいつも通りの声で質問を投げて話を続けようとしてくれた。
「そーいえば筒井君はさ、誰かと付き合いたいって思って、何かするとかないの?」
「どう、なんだろうな。流石に彼女は欲しいと思う、ってた、けど……」
胸を張って、そうだと言い切れなくなっていて、言葉が濁ってしまう。
頬を描き、また曖昧に笑って話を逸らす。
「んー、そうだなぁ……そう! 例えばクラスで付き合いたい女の子とかは?
確かお嬢様同盟とアイドル連合は別のクラスだったと思うけど、筒井君のクラスって三国志でしょ?
すごい美人も多いって聞くよ。」
「あー、そうなぁ。」
美人、確かに。
クラスの彼女らは、殆どが間違いなく美人だ。
どのくらいかと言えば、例えば、顔の造形の美しさ、スタイルの美麗さ。
それにポイントをつけ、全体的な美しさと言うものを競う大会に出した場合、俺のクラスにいる女の三分の一位は、詞島さんよりは上にいくだろう。
審査員の好みによるとしても、万人並みの審美眼ではそうなるような気がする。
ただ−−
「美人、だけどな。俺はなんか、もうな。」
クラスで話している時の女子たちの話す表情。
男子がいなくなった時の雰囲気。
女子だけの時の会話内容。
当たり前のことなんだろうそれらが、俺にはとても軽く見えた。
自慢が多いからなのか?
貶す言葉が多いからなのか?
確定するようなものはないが、俺は彼女らが、なんだか嫌だった。いや、嫌に«なった»。
彼女らが奪い合っているのは、目指しているのは、本当に元と詞島さんが育んでいるような、あんな関係なのだろうか?
そして、奪い取った玉座の上で、また佐藤先輩と古賀のように、誰も幸せにならないような結末を迎えたりしてしまわないだろうか。
「多分、告白されたり、付き合えるってなったら、そりゃぁ考えるよ?
けど、なんか……」
口の中で、何度も言葉を反芻する。
自分でも理解できない、整理できない思いを形にすることがこれほど難しいとは。
吟遊詩人とか、ラッパーとか。
言葉を武器に生きる人ならこんな葛藤も一つの糧にしてしまえるんだろうか。
苦しさを簡単に武器に変え、あっさりと前を向いてしまえるのだろうか。
残念ながら、俺にその才能はないらしい。
考えているだけでどんどん悪い方向に思考は向き、勝手に自家中毒を起こし始めている。
「高校入ってすぐだったら、そりゃ喜んでこっちからお願いしたかもだけど、今はもう、多分すぐに飛びつくのはなんか無理だな、うん。」
泣き喚く古賀の顔が思い浮かぶ。
失恋なんて当たり前、そんなのはわかっていても。
自分の恋が破れたわけではなくても。
女というものに対して、というよりそれに対する恋だとか愛だとか、そう言ったものにどこか薄く線が引かれ始めたような気がする。
と、そんな自分の感情に気付いた時、もう一つ気付いた。
大木さん相手には何故そんな拒否感が湧かないんだろうか。
改めて、記憶が塞いでいた目を大木さんに向ける。
伊達メガネ越し、プラスチックの板を挟んで、丸い目が俺を真剣に見つめていた。
その視線に、照れではない後ろめたさのようなものを感じ、伏せてしまう。
真剣な眼差しに俺自身が相応しく無いような気がして、座り方も少し変わり、大木さんに対し横向きになってしまう。
視界から大木さんが消え、それに安心感を感じてしまうことに、悔しさと情けなさが湧いてくる。
「んー……あのさ、今日って夜何か用事ある?」
「え、いや、ないけど。」
「よし、そんじゃあ今日十九時に八幡神社四番駐車場に集合ね。」
「は?」
「実はさ、ルカと一緒に行く気だったんだ。
けど、山上君一人で美女二人を侍らせたら世の男の嫉妬を買って闇討ちされちゃうでしょ?
だから、手伝って?」
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