54 頼まれた

「その上、確認しにきた俺を害悪認定して悪評流布、俺があなたを嫌いになるのも、害意を持つのも当たり前でしょう。」

「は? あんたがクズなのに私になんの関係があるのよ。」

「言いふらしてる人間が言うことですかね。

 さすがは善悪のブレーキが壊れてる人間はいうことが違いますね。」

 

 どちらも、もう敵意と害意を隠さなくなってきた。

 ただ、声のトーン的には元の方が少し冷静なようだ。

 自分に本当になんの関係もない口喧嘩は、クラス内でよく聞く。

 またやってるよ、飽きないな、なんて。巻き込まれないこと第一で適当にいなしていたんだが、ほんの少しでも自分に関係があるとここまできついのか。

 

「好きにすれば良いです、浮気も、二股も。

 ただ、先輩はその上で俺に先に手を出した。」

「は? 私に声かけてきたのはそっちでしょ!? あんたが話しかけなきゃ!」

「バカなガキを手駒に取り続けられたって?」

「あぁそうよ! それをあんたが!」

 

 良くもまあ、テーブルを蹴り上げて立ち去っていかないものだ。

 いや、この場で立ち去っても先輩の得は何もないからだろう。

 必死に他人事のようにものを考える。

 そうでもしないと、きっと俺はなき喚きながらこの人を殴ってしまう。

 はぁ、と元が溜息を吐いた。

 なんのことはない呼吸、そのはずなのに先輩の口が凍る。

 元と話す時、俺も古賀も、クラスのやつもとても楽に話せた。

 いつも俺たちの言葉を遮ることなく、しっかりと聞いて返してくれるその話し方に感心したものだが。

 それを悪意を持って使うと、ここまで相手に好き勝手喋らせた上に、そのペースまで操れるのだろうか。

 

「先輩、すみません。

 俺も冷静になれなくて、色々言ってしまいました。

 新しい恋、それにどうこう言う資格は、俺にはないです。

 けど、その前に。

 古賀君ときちんと話してはもらえないんですか?」

 

 いきなり下手に出て、微妙に声色も優しげだ。

 非人間的な無機質さばっかりだった声にいきなり温度が乗り、それは先輩を困惑させたようだ。

 

「何よ、話すって。

 あんたらがどうせバラすんでしょ、好きにすればいいじゃない。

 どうせそのスマホで録音してるんでしょ。」

「まさか。

 動画再生させながら裏で録音するような機能は、こいつにはないです。」

 

 そう言い、元はスマホの操作を行う。

 アプリが立ち上がり、通話ボタンと通話先が画面に表示される。

 相手の名は、古賀。

 画面上のアイコンをタップすれば、即座に通話がかかるだろう。

 

「俺は、はっきり言ってあなたが許せない。

 けど、ここで俺とシュウだけであなたをやりこめて、何もなかったと終わらせるのも、正直できなくはないけど、やりたくない。

 なあなあで終わらせて、俺の友達を中途半端に慰めるよりも、辛くても彼に向き合ってほしい。

 あんたのためじゃない、古賀君のために。」

 

 ゆっくりと、元の指が動く。

 スマホをタップ、通話しますかの確認のダイアログが表示される。

 それを、先輩は見開いた目で、血の気の引いた顔のまま凝視していた。

 やめろとも、自分がやるとも言わず、元の行動をただただ傍観する。

 人差し指が、はいを押した。

 通信音は、不思議と響いた。

 

『元か?』

「うん、ごめん。

 前話した、先輩のことだけど。」

『いや、良い。

 思い返してみれば、思い当たることはあったんだ。

 そんなことないって、勝手に思ってた。』

 

 たっぷり数秒、スマホの向こうの雑踏がスピーカーから聞こえてきた。

 チラリと佐藤先輩の方を向けば、その顔は今まで見たことがないほどに赤く染まり、こちらを睨みながら震えていた。

 

『先輩、そこにいますか?』

 

 古賀の声がスマホから響いた。

 声に呼ばれている佐藤先輩だが、何の動きもできていない。

 元が古賀に電話をかけて、ある程度先輩のことを話していたということは知らなかったのだろう。


 多分だが、目の前で動画を見せられた時点で同時に録画をしていたり録音していたりということは考えていなかったのだろう。

 そのせいで、後で取り繕えるとばかりに思いっきり俺たちを罵倒してしまった。

 全て先輩の自爆で、自分から崖を飛び降りたとしか思えない。

 

『元から聞いてました。

 もしかしたら、って。』

「雪くん、あのね?」

『ホテルも、キスも、教えてもらってます。

 今日のことも、裏で電話して流そうかって言われたけど、それだけは聞きたくないって、俺は聞いてないっす。

 けど、だめ、だったんすね。』

「ゆ、雪くん。あのね、誤解なの、そのね?」

『先輩、俺、先輩の事、本当好きです。』

 

 その声に、先輩の顔に喜色が浮かぶ。

 言葉一つにそんなに喜怒哀楽を見せられるのに。

 何で。

 

『だから、今の先輩の意識が、全然俺に向いてないの、わかるっす。』


 継がれる古賀の言葉が、先輩を叩き落とした。

 微笑みの形そのままに、目の温度だけが欠落している。


『元、そこって、昨日俺に言ってた場所か?』

「あぁ。」

『そっか。』

 

 ごつ、と音がする。

 スマホをどこかに置いたのだろうか、周りの音が、少し聞こえ方を変えた。

 切られたりしないよな、と少し不安になった頃、古賀の声が聞こえてきた。

 

『先輩のいるところから、ちょっと出た花夏かなってお店に、俺は居ます。

 もし、まだ俺と話すことができそうなら、お願いします、元たちと一緒に、そこに来てください。

 お願い、します。』

 

 そう言い、古賀が電話を切った。

 ゆっくりと、佐藤先輩が視線を元のスマホから元に向ける。

 嫌悪が殺意に変わっているように、俺には思えた。

 化粧では隠せないほどの醜悪な皺が先輩の目元に寄る。

 振り上げた右の掌が、思い切りテーブルに叩きつけられる。

 一口も飲まれることのなかったブレンドコーヒーが、テーブルの上にまた飛沫を飛ばした。

 ふん、と鼻息荒く席を立ち、カバンを引っ掴んで席を立つ先輩。

 大股で足音荒く歩く姿に、コーヒーをかけられなかったことにホッとしてしまう。

 ただ、先輩の後をすぐに追おうと言う気にもなれず、俺は椅子の背もたれにもたれこんでしまう。

 俺の前のコーヒーを片付ける元に何も言う気にならず、トレーごと返却カウンターに置いた後に席に戻ってきた元に少し手を借り、なんとか立ち上がる。


 膝を伸ばし、椅子から立ち上がった世界は随分と暗く感じてしまう。

 献血も運動もしていないと言うのに、チカチカと目の前を光の虫が舞った。

 膝を崩し、地面に倒れた方が楽そうだと思ってしまうほどに、世界は揺れている。

 だが、ここで立ち尽くすわけにはいかない。

 俺より辛いやつが、今近くで格好つけようとしている。

 別に下に見ているわけではない、でも、負けたくない相手ではあるのだ。


 だから、俺も行かなくては。

 鋭く息を吐き、吸う。

 許容量以上の悪意と情報を詰め込まされた脳髄はもう寝たがっているが、まだそれは許せない。

 元の右肩に置いた手を離し、じっと俺を見ていた目に応える。

 大丈夫、まだ、痩せ我慢はできると。

 ふ、と柔らかく笑う顔に、こちらも少しだけ気が楽になる。

 声を出すこともなく、行くか、と二人して歩こうとしたところで詞島さんが近くに立っていた。

 

 何も変わらない柔らかな春の空気がそこにだけ止まっているようで、少し泣きそうになってしまう。

 そんな詞島さんに歩み寄り、正対すると元は深々と頭を下げた。

 

「ルカ、今日は本当にありがとう。」

「え? えと、私。何もしてないけど。」

「あぁ、何もしない、ただの女の子が隣にいてくれることが本当に助かることだったんだ。

 んで、重ねてごめんなんだけど、ここからはちょっとだけ込み入った話になるから俺たちだけで行かせてもらえるかな。後で埋め合わせはする。」

 

 元の言葉に、詞島さんがその目をじっと見つめる。

 正直、ここまで元の苦しそうな顔は初見だった。やっぱり、こいつにとって常日頃から好きだの惚れてるだの簡単に言ってしまえるような相手を利用してしまったことは心苦しいことだったんだろう。

 

「ん、特にはいらないんだけど、楽しみにしとくね。じゃぁ、元。」

「ああ。」

 

 ふわ、と擬音が立ちそうな柔らかな歩みで詞島さんが元の目の前に歩み寄り、顔を両手で挟み込んだ。

 身長差で元を少し見上げる形になる詞島さんを中心に、世界の空気が少しだけ柔らかく、呼吸しやすくなったように感じてしまう。

 

「いってらっしゃい。」

 

 ちょっと緊張したような、いつものような柔らかな笑顔ではない、どこか真面目な、真面目すぎる顔のまま、詞島さんは元をじっと見つめ、そう言った。

 そして俺に向き直り、俺の目を見る。

 綺麗な赤に吸い込まれそうになるが、それが瞼に隠されると詞島さんは深く俺に頭を下げた。

 

「筒井さん。元を、よろしくお願いします。」

「あ、はい。」

 

 あまりにも綺麗な瞳とお辞儀に、今の状況も忘れてしまいそうになる。

 ただ、そのおかげで立ち直れたようにも思える。

 一度ニュートラルに切り替えられた自意識が、ぐちゃぐちゃになっていた思考を一時的にだがスッキリとリセットさせてくれた。

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