15 整えた

 鏡の前、身を整える。

 顔を洗い、化粧水を叩きつけ、化粧台の灯りを受けていろんな角度で自分の顔を眺めた。

 汚れはないか、髭は残っていないか、じっと鏡を見ていると毛穴が見えてきて不安になってくる。

 

「もう一回、やっとくか。」

 

 そう呟き、使ったこともない洗顔フォームをみかんのアミみたいなやつを使って泡を立て、顔にのせて水で流す。

 下を向いていた顔を上げて、タオルで顔を拭く。

 綺麗になったように思えるが、

これで大丈夫なのだろうか。

 顔を洗った後には絶対やっておけと言われた化粧水だが、こちらも再度やっておく。

 日に焼けた肌、少しばかりニキビ跡がちょっと見えるが別に気になるほどではない、と思う。

 のぞき込む形、見上げる形、右から左から。

 いろんな角度で自分の顔を眺める。

 変、ではないはずで、不細工というわけでもないはずだ。

 最後に鏡に向けて鼻の穴を広げて呼吸。

 鼻毛も、無い。よし。


「ふぅぅぅぅぅぅぅ。」


 だらだらと鏡の前で時間を費やしそうな自分に活を入れるように深く長く息を吐く。

 緊張は、している。

 なんせ今までの人生で一回も無かった女の子からのお誘いだ。

 ひょっとするとこれが最後かも知れない、ミスをすればそれが学年全体に伝播し、非モテとしてラベル分けされて単に彼女がいない以下の哀れな存在に成り下がるかも知れない。

 突然湧いた神イベに、マイナス思考の俺が最悪のルートを想像して落着の際の精神的動揺を減らしに来る。


「ねえ、さっさとご飯食べてよ。」

「うおぉおっ!?」


 洗面台から立ち去ろうとしたその瞬間、脱衣所の入り口から母が声をかけてきた。

 自分に声をかける存在なんか完璧に意識から追いやっていたため、体も脳も思いっきり反応してしまう。

 膝が洗い場下の取っ手に引っかかり、がたんと大きく音を立てた。


「ちょっとなにしてんのよ、あー、っと、うん壊れてはないか。」

「っ痛てて……いきなり声かけてくんなよ。」

「なによ、あんたが朝食べるって言うから準備したのに。

 来ないのが悪いんでしょ。」


 いいからさっさと来なさいよね、と言いながら、取っ手に被害が出ていないことに安心した母はドアを挟んですぐのリビングに向かった。

 じんわりと浮かぶ涙を掛けていたタオルで拭き、最後にもう一度鏡で自分を見てはに変なものがついていないか確認する。


「早よ来い。」

「わかってるって。」


 ドア越しに聞こえる声に応え、名残惜しいが洗面台を後にする。

 リビングではソファーに座り、テレビを見ながらぼうっとしている親父がすでにいた。


「はよ。」

「おう、おはようさん。」


 一声掛けてテーブルの方に座る。

 パンと輪切りウインナー入りの卵焼き、あと野菜ジュースにヨーグルト。

 いつもの変わらない朝食に、いきなり納豆なんか出されなくて助かったな、なんて思った。


「いただきます。」


 パンに卵焼きを乗せ、ケチャップをぶっかけて挟み、野菜ジュースで流し込む。

 ぼろぼろとパン屑がこぼれてしまうがしゃーなし、あとで拭いたらいい。

 カップに入れられたヨーグルトにジャムを投入し、混ぜて一気に口の中に流し込む。

 これで朝食終了。

 量は少ないが、運動の予定はないしこんなもんで十分だ。


「ごっつぁーん。」

「ん。」


 母に皿を渡し、再度洗面台へ。

 洗口液で口の中を流し。鏡に向かって歯を剥く。

 うん、欠けも変色もなし。

 最後に水で口をすすぎ、部屋に戻った。

 そして、タンスを前に考える。さて、何を着るか。

 Tシャツと、デニムでいいのか?

 バンドのシャツは、だめだろうか。

 

 よし、よく着ていた奴で行くか、首元もだるんだるんにはなってないし、と袖を通しそうになったところで動きを止めた。

 鏡に映る自分と、シャツとそこに書かれた文字。そういえば文字の意味も分からず着ていたがどんな意味なんだろう、とスマホで調べたところ。割とエロ方向の意味を持っているスラングだったので速攻で部屋の隅に投げた。

 くそ、制服ってこんなに楽だったのか。

 

 結局文字もなく、色も白の七分シャツの上からゆったり目のリネンベストを着て、色の淡いデニムを履いて無難に決めた。

 かなり前に姉に買ってもらったそれらがしわにならないように畳まれていたことに感謝し、いまは倉庫代わりに使われている姉の部屋に向け、拝んだ。

 大学生活、バイトが忙しくて彼氏に振られたとか言ってたけどがんばっていただきたい物だ。

 ひとしきり世の無常に思いを馳せ、兄の残した姿見で変なところはないか確認。

 少なくとも俺の目には問題はないように見えたので、よし、と呟き覚悟を決める。

 かばん、良し、財布、良し、交通カード、良し、スマホ、満充電。

 一度床に並べたそれらを指さしで確認し、鞄の中に入れる。

 肩に掛け、部屋を出て玄関のドアに手をかけたところで、声がかかった。


「秀人。」


 トイレのドアを少しだけ開けて、親父が顔を出している。

 手でこっちに来いとジェスチャーをする親父に誘われるままドア前に立つと、紙幣がドアの隙間から渡された。

 五千円、結構な額である。


「親父、これ。」

「うん、そのな、おまえは小遣いも散財してないし、大丈夫だとは思うんだけど、ほら。男なら少しは金持ってたいだろ?」


 正直、かなり嬉しい。

 軍資金なんかいくらあっても困らない。

 俺だってゼロではないにしても、流石に昼食を二回三回と奢るのが精一杯の程度の金しかない。

 クラスの女子どもが話すレストランなんか、門前払い間違いなしな一般庶民的感覚なのだ、俺は。

 

「いやぁ、父さんも若い頃は……その、何もなかったけど、おまえが楽しんでくれたらな、その、な?」


 最後の方はどんどん元気が無くなり、声も小さくなっていき力なくぱたんとトイレのドアが閉まった。

 木製のドアの向こうで便器に座り込む父に深々と頭を下げ、心に誓う。

 親父が送ったような灰色の青春にはならねえように、気をつけるよ、と。


 リビング側に目を向ければ、母がこちらを見ていたようで、俺と目が合うと親指を立ててきた。

 よし、それでは、行ってきます。



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