33 22:11 詞島家(ルカの部屋)

 水面から顔を上げる。

 高い天井。

 多分私が思いっきりジャンプしても絶対に届かないと思わせる高さ。

 電球の交代をするんなら椅子じゃなく脚立が必要になりそうなそこには埋め込み式の防水ライトが煌々と光っていて、薄暗さを全く感じさせないその明かりは私に安心感を与えてくれた。

 檜の浴槽壁に背を預け、ずりずりと体を沈める。

 暖かなお湯に首までゆっくりと浸かっていると、体からとても気持ちよく力が抜けていく。

 

 ただただライブに行くはずだった休日。

 少なくとも、私にとって身内判定が効く四人全員が無事に安全地帯に帰ってこれたのは幸運と言って何ら問題ないだろう。

 誰も暴力を目にすることはなかった。

 トラウマになるようなひどいことも、されていない。

 全てが未遂、全てが私たちの想像の中のこと。

 ひょっとしたら、竹田さんも今頃私たちのスマホにいきなり帰るなんてひどいよー、なんて書いてきて、あの場に残った人たちと家飲みでもしているかもしれない。

 

 まぁ、それも全ては想像だ。

 私は、ルカは、自分たちのアンテナと判断を信じた。

 その結果、こうやって豪華な日本家屋のでっかい風呂に浸かることができる。

 大体三人くらいなら横に並んで浸かれそうな浴槽はどこか山上君の家で借りたお風呂に似ていて、山上くんのお父さんとお母さんがルカの家の風呂に触発されて頑張って作ったんだ、って言ってたこと思い出す。

 暖かなお湯のおかげで香る木の香りと、ほのかにかおる柑橘系の香り。

 そして、横を向けば同い年の女の子が洗い合っている。

 ルカの背を恐々と洗う裕子。

 そんな二人を見ながら身体中モコモコの泡に包まれる才加。

 眼福だ。

 そして、本当に良かったと心から思う。


「あの、裕子さん?

 そんなに恐る恐るやらなくても。

 スポンジが肌に触れてないですよ?」

「で、でも、擦って赤くなったら、私どんなお詫びをすればいいか。」

「ないですから!

 その、普通に優しめに擦って貰っても大丈夫なくらいには肌も弱くないですから!」

「そ、そう?

 でも、やっぱり私なんかが触っていいかわかんなくて。」

「もー、ここにくるまで手を握ってたじゃないですか。」

「あ、そ、そうだ、私、洗っちゃった……」

「裕子さん?」

「ルカー、あたしが洗おうか?」

「念の為に聞くけど、スポンジ使いますよね?」

「……裕子ー、さっさと起きて気合い入れなー。」

「はぁ、桃ちゃんが二人いるみたい。」

 

 聞き捨てならないな、私はそんなことはしない。

 ふふふ、しかしやはりお風呂場で女の子の会話を聞いたことなんて中学の修学旅行以来だが、なんて麗しいんだ。

 あの時はギスギスしてたからなー。

 持ち込んだシャンプーのブランドで上下つけるわ、

 上がったら化粧水マウントであぁ、それ使ったけど私には合わないのよねーとか言い出して相手の使ってるもんを下げるわ。

 終いには一斉に香水つけ出すせいで風呂上がりの脱衣所にも関わらず頭痛を覚えるレベルのやっばい匂いが充満するわ。

 うん、学校のレベルっていうのは通う人間のレベルに比例するね。

 それとも、あの子達も仲良しの子達だけなら今の目の前の光景のように百合の花舞う美しい光景を作ってくれたりしたんだろうか。

 いや、ないな、うん。

 どんなに頑張っても私には想像できんわ。

 

「あ、裕子さんありがとうございました。」

「うん、頑張った、頑張ったよ。

 流すね。

 ………うわぁ。」

「ん、どうしたの裕子、ってうわぁ。」

「何があっ…うわぁ。」

「え、何があったんですか?」

「あ、ごめん。

 ルカがエロくて二人ともびっくりしてるだけだよ。」

 

 改めて、泡を流した背中の艶っぽさがやばい。

 才加は横側から見て、おそらく全体を見ている。

 一方、真後ろの裕子と後ろ側から見てる私は髪を纏め、前に垂らしたルカの振り返りも合わせて見ている、どっちもちょっとやばい。

 おかしいな、ルカの水着姿よりも裸を見てる回数の方が多い気がする。

 そしてその度に私の中のおっさんがドキドキしている。

 おいやめろ、デブでうすらハゲのブサおっさんが頬を赤らめるな。

 

「もう、おんなじ女の子なんですからそんな反応しなくてもいいじゃないですか。」

「ルカ、それはちょっとよろしくないよ。」

「そうだね、桃の言うとおり、ちっともよろしくない。」

「え?

 あ、はい。

 えっと、あんまりジロジロ見てるとお金取りますよ?」

「ごめん、スマホ決済でいい?

 三時間コースとかあるんならそっちにしたいんだけど。」

「アタシASMRして欲しいんだけど、なんなら個別とかオプションである?」

「写真とタッチはありですか?」 

「もう!」

 

 タオルで体を隠しながら、湯船に入るルカ。

 髪を軽く絞り、まとめあげる仕草もとてもイイ。

 じっと見つめる私の目にピンポイントで水鉄砲が飛ぶ。

 避けた先にも飛んできた第二撃目に目をやられ、呻き声をあげる私。

 衝撃と眼球への水分補給で目が滲んでしまい、湯船のお湯で顔を洗って目を開けるとすでにルカの裸体はお湯に浸かっていた。

 それに次いで、裕子と才加が浴槽に入ってきた。

 眼福である。

 さて、と気合を入れて酸素を吸い、潜ろうとすると隣の才加が私の首を抑える。

 仕方なし、と潜ることを諦めてルカ側に進もうとしたが、裕子がインターセプトしてくる。

 むぅ、少しばかりキツすぎない?

 仕方ない、と座り直し、体の芯を温める。

 気楽なやりとり、バカな行動に腹の奥、背骨の髄に残っていた寒気が溶けるような気がして、音もなくため息が漏れた。

 

 お風呂で何があったのか、それを話すのは野暮だろう。

 女子四人、仲良くお風呂に入った。

 それだけでいい。

 ルカのお母さんが脱衣所に置いてくれた着替えを羽織り、四人でルカの部屋に向かう。

 勧められるままに着た浴衣だけど、絹でもないのにすごくスベスベしてて気持ちいい。

 ついつい旅館にでもいるかのようにテンションが上がり、ルカに案内されて部屋についても話は止まらない。

 布団四組が並んでもまだ余裕のある部屋は、アパートや狭めの一軒家だと広間と言っても差し支えない広さだ。

 

 折り畳まれたテーブルと、壁に嵌め込まれた書棚。

 綺麗に整頓された部屋はルカのイメージを全く損なうことのない美しいものだった。

 改めて、山上君の家の部屋でもそれなりに大きかった気がするが、やはり本家はすごい。

 床から十センチは嵩を増す敷布団は裸足で踏むとゾクゾクするほどの滑らかさで、つい倒れ込んでしまう。

 最初に倒れ込んだ私を見て、恐る恐る布団を触ると誘惑に耐えきれずに裕子と才加も布団へとダイブをした。

 いい寝具というのは、やはり抗えない魅力を持っている。

 割と大きめの寝具のため、割り振られたままだと話しづらいと四つのうち二つに四人で潜り込み、眠るまでの時間ガールズトークと洒落込んだ。

 お風呂の話、学校の話、ルカの山上君に対する惚け話、最近できた小動物カフェの話。

 

 今日あったことは無意識か意識的か避けたまま、私たちは話し続けた。

 途中でトイレを挟んだりしながら、気づけば十二時を過ぎる頃。

 話しながらすでに半分寝始めた才加をきっかけに、各々布団に潜り始めた。

 おやすみの声に何となく安心感を感じ、私も布団をかぶって常夜灯に変わった照明を見上げ、うとうととしながら今日を思い返していた。

 

 とりあえず、ライブそのものは楽しかった。

 その前のファミレスも、仲のいいみんなで集まってだべるのが楽しくないわけがない。

 カラオケさえなければなぁ。

 失敗したなぁ。

 けど、ついていかなかったらどうなってたかな。

 

 あそこはそれなりに人通りがあるって言っても、そんなに繁盛している通りじゃあない。

 悪い方に考えれば、どこで断ったって酷いことになってただろう。

 結局、ギリギリだった感じとはいえ、今日の私の行動は大丈夫なものだったんだろうか。

 私がいたからルカがいて、ルカと私がいるから裕子と才加が無条件に安心してしまっていた。

 

 頼られたことを悪かった、なんていうつもりはない。

 けど、でも。

 まんじりともせず、動きそうになる体を無理やり脱力させてまぶたを強く閉じる。

 解消しきれない澱みのようなものが胸に溜まっていた。

 あれが悪かった、これさえなければ。

 色々なことが頭をめぐり、結局最初に戻る。

 そんなことを考えていて、ふと、もし他の人、他のクラスだったらどうなるだろう、なんて思いついた。

 

 確か山上君のところも色々あるみたいだが、一番想像しやすいのは七組のあれだろう。

 私からすると生きる世界が違いすぎてもう同じ次元の生き物と見られないけど、どうやらクラス内でも彼のファンクラブの人間はそれなりにいるそうだ。

 そんな彼、女の子を助けた逸話には事欠かない。

 財閥の令嬢とかいう子だとか、よその国のお嬢様が彼に懸想しているのは何だったかテロっぽい組織に襲われたのを助けたからだとか何とか聞いたことがある。

 他にも、電車で痴漢を捕らえたとかヤンキーに絡まれたのを助けたとか、それが半日の間に起こっただのというから話半分にも信じられないほどのイベント盛りだくさんだ。

 

 そんな彼がいれば、今回のような状態も助けてくれたのだろうか?

 なんか、襲われたタイミングで踏み込んできそうな予感がする。

 まぁ、何もかも想像でしかないか。

 ふうと息を吐いて敷かれた布団に顔を強めに押し付ける。

 こんなどうでもいいことを考えてしまっている。

 疲れているのは間違いないか。

 薄目を開け、ぼうっとして体の力を抜く。

 もう思考が止まらないのはどうしようもないと、意味のないことばかりを頭の中に浮かべた。

 

 鯖の煮付けの作り方、教科書に中学校時代の詠唱が記載されていて大慌てする泉。

 荒唐無稽な光景を無駄に思い浮かべ続けることでやっと脳が麻痺してきたようで、だんだんと思考が鈍化していくのを感じる。

 耳の奥でなんかよくわからないオーケストラが鳴る。あぁ、眠りかけてるな。

 微睡の中、いろんな光景が私の脳内を駆け巡る。

 

 違和感に気づいて良かった、ルカがいてくれて良かった。

 思い返してみても、危ない行動を取ったものだ。

 ただ、私にはあれ以上はあの場では思いつかなかった。

 私が無事で、ルカが無事で、才加が無事で、裕子が無事で。

 みんなが怪我することなく、一緒に帰れる。

 そうなるには、あの人たちに実力行使されるわけにはいかなかった。

 ぐるぐると巡る思考の中、山上君の背が浮かぶ。

 

 そういえば、ちゃんとお礼言ったっけ。 

 気になってしまうと、眠気はそのままなのに何というか、こう踏ん切りがつかない。

 仕方なく常夜灯で少し見づらい中枕元のスマホをとり、布団に潜り込んで画面をつけた。

 山上君に短くSMSを送る。


『今日は、ありがと』 


 すぐに返信は来た。

 

『こっちこそ』

 

 短文だ。

 もう少し心配する文章を送ってきたりとかはないのか。

 あれか、ルカには長文送ってたりするんか?

 ちょっとイラッときたので、ルカにもSMSを送る。

 文章は、山上君に送ったのとおんなじやつ。

 こちらもすぐに返信が来た。

 とは言っても、メールではない。

 布団の上に何かがのしかかってきた。

 暖かく柔らかなそれが私を抱きしめ、一回ぎゅっとすると、布団越しに小さく声が聞こえてきた。

 

 「こちらこそ、ありがとうございました。」

 

 あぁ、全く。

 この似たもの夫婦め。

 

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