最終話
気絶したことはシキにとって幸運なことだった。
なぜなら、そこに現れたのは、あまりにもおぞましくヒトが相対するには強大すぎる邪悪な神だったからだ。
ついに顕現した神を前にして、
「おお、大いなる神の使いにして、音楽の神よ。わたしをかの宮殿へ連れて行ってくれるのですね」
重低音の声が防音室に響く。人には知覚できな音の塊を耳にしたそらみは手を叩いて喜んだ。
「そうですか。ほら見ろ! わたしは神に見初められた天才なんだ」
太古から脈々と受け継がれてきた音楽とは根本から違う邪悪な音楽が、そらみの願いによって爆発し、ジュリを肉塊へと還る――はずだった。
そうはならなかった。
「な、なによあなた!? もしかしてあなたは――」
そらみの言葉は最後まで紡がれなかった。
直後絶叫がほとばしり、屋敷が一回大きく揺れた。
そして、夜明け前の静けさが戻ってきたのだった。
シキは目を開ける。
視界いっぱいに広がるスカイブルー。瞬いていた星は、昇ってくる朝陽から逃げるように隠れている。
そよそよと吹く風とともに青い香りがした。芝生の上に横たわっているらしいとシキが気がついたのは、背中がかすかに濡れていたから。
シキは体を起こし、周囲をきょろきょろと見まわす。
鼻につく悪臭も、身の毛がよだつ音楽も聞こえてこない。見たくもないかぎづめのバケモノは、影も形もなかった。
「中にいたはずなのに」
「――わたしが運び出した」
近くから声がした。声がした方を見れば、ジュリが立っていた。
「ジュリさんが……」
シキは立ち上がろうと、右腕に力を込めた。途端、鋭い痛みが走った。うめき声がもれた。
「折れているから無理しない方がいい」
「折れてるって骨か」
「そう。音の爆発で。わたしなんか、かばわなくてよかったのに」
シキはジュリを見る。そっぽを向いている彼女の表情はいつも通り、無表情――いやわずかに違う。眉間にしわが寄っていて、顔をしかめているのではないか、とシキは感じた。
「できるわけないだろ」
「どうして」
「だって、女の子だぜ。同じ警官だからって見過ごせるかよ」
「…………」
「や、バカにしたつもりで言ったわけじゃないからな。オレは単純に心配で」
「心配しなくていい」
「そーかい」
シキは左腕を使って器用に立ち上がり、ジュリの隣に立つ。
「でも、助かった。どうして攻撃がくるのがわかったの」
「えーとそれがオレもよくわかんない。なんか、視えたっていうか」
「視えたって、未来が?」
「さあ。無我夢中だったからよく覚えてないが、このままだと危ないって思ったんだよ」
「よくわからない」
「だから、オレにもよくわからないんだってば。ってか、そらみさんとあのバケモノは」
「あっち」
ジュリが指さす先には、そらみの別荘があった。
だが、それは今や住宅の形をしていない。がれきの山と化していた。
「あれが?」シキは目をこする。「あれっおかしいな。建物がないんだが」
「いつの間にか崩れていた」
「マジ?」
ジュリが頷いた。「地下から出るのは大変だった」
「しかも生き埋めかよっ!? ケガどころか汚れ一つないのは奇跡だな」
シキは、自分の体を上から下まで見る。汚れはほとんどなく、怪我も右腕の骨折以外は大したものではなかった。ジュリもケガというケガをしている様子はない。
「奇跡以外の何でもない」
「じゃあ、あの三人は」
「わからない。一応、消防には連絡してある。だけど……」
「だけど?」
「無事かはわからない。突然、屋敷が崩壊したから」
「そうなのか……いや、なおさら助かってよかった」
「よかった」
かみしめるようにシキは言う。ジュリは小さく頷いた。
遠くから、サイレンの音が聞こえてくる。パトカーやら消防車やらが、ようやくやってきたらしい。
「そういえば、あのバケモノって何だったんですか」
「わからない。だけど、東峰ニルヤという女性が怪しい」
「さっきはいなかったが、絶対、関与してるでしょうし……あ」
シキは手を叩いた。すっかり忘れていたことを、今思いだした。
「なに」
「その東峰ニルヤって人と夢の中であって。バカみたいな話なんですが」
シキは話半分に言ったつもりだった。自分自身でも信じられていないというのに、ジュ
リが信じてくれるわけがなかろうと。
だが、違った。
ジュリは顔をシキに近づけて。
「その話、詳しく」
「え、え!? 信じるんですか」
「信じるから早く話してほしい」
「わ、わかった。話すから、離れてくれ!」
シキは、焦るように言って、ジュリから距離を取って、深呼吸。
それから、じっと耳をすませているジュリへ夢の内容を話し始めた。
ほどなくして、警察車両や消防車、救急車が赤色の光を輝かせながらやってきた。
事情聴取やら救出作業やらなんやらが行われた。
連日の作業によって、一人の死体――検視の結果、稲藤そらみだと判明――は見つかったが、シキとジュリが見たバケモノの死体は見つからなかった。
建物の崩壊は、指向性の音波によるものだと考えられたが、そらみの遺体の損傷具合から、何か巨大なものに踏みつぶされでもしたとも考えられ、謎は深まるばかり。
最終的には、事故として処理されたのだった。
そこに超自然的な何かが関与していると知っているのは、ごくわずかの人間だけである。
その少女、尋常ならざる存在につき〜公安6課超常事件ファイル〜 藤原くう @erevestakiba
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