第17話

 広がっていく扉と扉の隙間から、光と音が漏れてくる。暗闇に慣れていた目が、悲鳴を上げるように痛みを訴える。視界はホワイトアウトし何も見えない。


 前後不覚になってしまいそうな中、音がはっきりと耳の中へと侵入し、頭蓋を満たしていく。鼻が曲がってしまいそうな悪臭は、さらに増したように感じられた。


 視界が白さを失い、部屋の中の様子がはっきりとしてくる。


 教室ほどはあろうかという部屋の中央に、そらみはいた。椅子に腰かけ足を組み、抱えたアコースティックギターを鳴らしている。


 その周りには、地べたに座る二人の姿がある。原形をとどめていない服を気にせず身にまとい、垢と血液にまみれたその二人の後ろ姿からでも、すでに人ならざるものへと変容しているのがありあり見てとれる。


 聞こえてくるメロディラインにあわせて動く腕は毛深く、手には鋭いかぎづめが伸びていた。


 演奏者と観客は扉が開く音に反応したように、シキとジュリの方を向いた。


 その時、異様な雰囲気を漂わせた二人のバケモノを、シキははっきりと見てしまった。


 犬と人が合わさったような汚らわしい顔に、瞳に宿る獰猛な瞬きを。矢じりのように鋭い歯を。その口から漏れる、泣き声のような言語は人のそれとはあまりに乖離していた。


 シキは理解した。自分を連れ去ろうとしたのが、彼らのどちらかであろうということを。ここまで連れてこられてしまったら最後、そこここに転がっている屍と同じように、骨までしゃぶられたに違いないということを。


 背筋に冷たいものが走り、シキの体は恐怖に屈してしまったのか、がくがくと震えはじめた。


「動くな」


 ジュリは平然と、銃を構えていた。その銃口の先にいるのは、ギターを弾き続けるそらみであった。


 そらみの服装は黒のドレス。オーケストラの女性が着てそうなシックなもの。他の二人と比べるとあまりに綺麗だが、正装とアコースティックギターの取り合わせはちぐはぐだ。


 目を閉じていたそらみが開眼する。


「おや、君たちは……」


「公安だ。あなたたちには殺人の嫌疑がかかっている」


「何のことでしょうか。私たちは音楽を楽しんでいるだけなのですが」


「超低周波で神への祈りを捧げていたことはわかっている」


 そらみの眉が上がる。「へえ、そこまでわかってるの。でも、それが何の問題があるのでしょう?」


「何……?」


「公安の方でしたっけ? 自殺する人が増えたから殺人とでも言いたいのでしょうが、その証拠はありません」


 ――私は神に対して賛美の曲を贈っただけなのですからね。


 微笑みながら、そらみが言う。その笑みは、聖女のように優美で、それがむしろ恐怖を駆り立てた。彼女は、本気で神様を信仰しており、それによってどんな被害が出ようと知ったことではない――そう言っているように、シキは思えてならなかった。


「証拠はある」


「聞かせて」


「あなたは、かの神の名前を出している。――白痴の王、混沌を統べる総帥の名を」


 ジュリが口にしたのはとある神の異名で、本当の名ではない。だが、それでも遺伝子単位に刻まれた神への畏怖は、シキの体をますます震え上がらせた。


 そして、そらみは目を大きく見開いた。


「知っているの!? あなたみたいな子どもが」


「答える義理はない」ジュリは一歩前へ出て、引き金に指をかけた。「演奏を今すぐやめろ」


「やめるわけにはいかないわ。だって、私は神に愛されてるんだもの。ええそうよ、そうに違いないわ」


 うわごとのようにそらみはぶつぶつ呟く。かと思えば、俯いていた顔が勢いよく上がった。


 乱れた前髪の隙間から見えた瞳は、狂気的な光がらんらんと輝いていた。


 そらみの弦を引く手が、激しさを増す。曲調が変わり、アップテンポな曲へと移ろっていく。コード進行や、音楽的技巧をことごとくはずしたような滅茶苦茶なメロディ。不協和音が無数に飛び散り、シキとジュリを襲う。


 聞いているだけで不快になるような曲。だが、ぎりぎりのところで、曲として成立してもいる。


 邪悪なる神にささげる曲は、防音された壁へ反射し、増幅するかのように響き、シキの体をゆらす。体が揺れているのか、建物が揺れているのか、はたまた地面が揺れているのかシキには判別できないほどであった。


 体が揺れ、脳が揺れる。


 シキの理性までもが揺らいで、ぽっきり折れてしまいそうになる。


 目の前では、ビートに乗ってバケモノたちが近づいてきていた。その手に生えた鋭利なかぎ爪でもって、ヒトの柔肌を切り裂かんとカチカチと動かしながら。


 明確な敵意が、シキの肌を粟立たせる。


 シキは悟った。このまま突っ立っていたら、こいつらに殺されてしまう。


 そんなのは嫌だ。


 記憶を取り戻すまでは、あのとき何が起きたのかを知るまでは、死ねない――。


 シキは両手で銃を握りしめる。


 撃った。


 乾いた発砲音が、メロディラインをかき消すように鳴り響く。


 バケモノの一体の胴に命中した銃弾は、その体を揺らす。口から、唾液とともに悲鳴にも似た声が飛び出したが、倒れるほどではない。


 シキはさらに撃った。トリガーを引き絞り、撃って撃ってとにかく撃った。


 銃声が何度も鳴った。だが、九回目の銃声を最後に、P230は静かになった。人さし指を動かしてもカチカチという引き金の音が小さく響くばかり。マガジンが空になったのである。


 そのことに気がついたシキが床を見れば、九発の弾丸を受けたバケモノの一体は床へと倒れ伏していた。ヒトとは思えない体は痙攣していたが、その動きも緩慢になって最後には止まる。


 死んでしまったバケモノを前にして、もう一体が激高したように、叫びを上げる。リロードしようとしていたシキは思わず手が震え、取りだしたマガジンを落としてしまった。


「やばっ」


 顔を上げれば、眼前にバケモノが迫っている。怒りに揺れる瞳がシキを睨み、刀のような鋭さを持ったかぎづめがシキへと振り下ろされた――。


 銃声の直後、バケモノの腕は弾き飛ばされていた。痛みに呻いたバケモノが、腕をかばう。ぎらついたかぎづめの一本が砕けていた。その一本は宙を舞い、壁に深々突き刺さる。


 音のした方を見れば、ジュリが拳銃を向けていた。


 怒りの矛先がジュリへと向く。この世の憎悪を煮詰めたような怨嗟で満ちた絶叫を受けてもなお、彼女の腕はピクリとも動かない。


 銃口は、人間もどきの眉間をぴたりと狙っている。


 パンっ。


 銃声。細腕が銃声にあわせて跳ね上がる。ジュリの表情は一ミクロンも変わらない。淡々と機械のような正確さで発砲を続けた。シキは唖然として、それを見ていた。


 九発の弾丸を撃ち終えたところで、ジュリがマガジンを入れ替える。その所作はよどみない。当たり前のことのように銃を取り扱っている。その姿はただの少女ではなく、シキの警察官ともまた違っていた。


「これが公安――」


 これが六課に所属するジュリの実力。


 シキは恐怖さえも忘れてしまって、ジュリのことを見ていた。その視線に気がついたのか、ジュリがシキの方へと近づいてくる。銃をホルスターにしまうと、床に転がったマガジンを拾い上げた。


「ケガはない」


「な、ない。……ごめん」


「ケガがないなら別にいい」ジュリはシキにマガジンを差し出す。「次はきちんと装填できるようにすればいいだけ――」


 不意に、シキの胸の内に悪寒が走った。何かがやってくるという直感。


 その何かは、爆発にも似た何か。だが、爆発ではない。何もない場所でいきなり爆発は起きない。


 音波。


 音の波が虚空で生まれ、衝撃波となって二人を襲う。それによって、全身の骨を折る大怪我を負ってしまうのだ。


 その瞬間が、シキにはありあり視えた。


 なぜそんなヴィジョンが現れたのかわからなかったが、シキは信じることにした。


 シキはとなりのジュリを突き飛ばすように横へ飛んだ。


「きゃっ」


 かわいらしい悲鳴とともにジュリが驚いた表情をしたが、その小さな体は不意打ちに耐えかね、吹き飛んでいく。遅れる形でシキが続く。


 直後、空間が爆発した。


 ボンっという音ともに空気が圧縮し、弾ける。不可視の一撃は、波を見ることのできない生物にとっては回避不可能であるはずだった。


 だが、二人は回避していた。――いや、映像を見て即座に反応したとはいえ、ジュリを突き飛ばした分、回避動作はワンテンポ遅れてしまった。


 シキの腕に鈍い衝撃が走る。ボキリと密度の高いものが折れる音が、腕から全身へ駆け巡る。


 何が起きたのか、一瞬分からなかった。映像のことがかすんでしまうほどに、強い痛みがほとばしる。


 絶叫が響く。その絶叫が自らの口から発せられたものだと認識するよりも早く、シキの意識は失われていった。

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