第16話
胃の中のものをすっかり吐き出してしまったシキは、不快感を覚えながらジュリの方へと向かった。
ジュリは屋敷の裏側で、勝手口と思われる扉に手をかけていた。
「鍵、開いてる。不用心」
「ですね。……警察に不法侵入されてしまうとは夢にも思わなかったでしょうが」
ジュリは、シキの当てこすりにも似た言葉を意に介することなく、扉を開けた。
とたん、もわんと生暖かい風が、外にいた二人へと押し寄せてきた。
「くさっ」
「この臭いがした」
「確かに獣臭い……。あのとき、こんな臭い、感じなかったのに。ジュリさんはイヌか何かですか」
「犬じゃない」言いながら、ジュリはホルスターからP230を抜く。「セーフティは外して」
「りょ、了解」
シキも拳銃を手に取り、マガジンを装填し、セーフティを外した。いつでも発砲できるように準備をするということは、それだけの危険があるということ。
銃を撃たなければならない。そう考えるだけ、拳銃を持つ腕が震えた。人を容易く殺してしまえる武器の重みだけではなく、それを扱う人間の覚悟の重みだった。
下手に扱うことは許されない。それは相手を殺すこともできると同時に、味方もまた殺してしまえるのだから……。
「シキ」
声をかけられて、シキは拳銃から視線を離し、ジュリを見た。
ジュリの表情は、無表情。この異様な雰囲気、獣臭さにも動じない。だからといって楽観しているわけでもない。
いつも通りの表情のまま、ジュリは言葉を発する。
「わたしがいつでもあなたを守れるとは限らない。だから、自分のことは自分で守って」
「……守られるつもりはないです」
「ならいい」
ジュリは扉を開き、建物の中へと滑り込んでいく。その後にシキも続く。
外見は大豪邸であり、中もまたその大きさにたがわぬ、立派な内装をしていた。だが、中はしんと静まり返っており、常夜灯一つついてはいない。新月もあり、吸い込まれそうな闇が広がっているようにさえ、シキには感じられた。
それに、むせかえるような臭いは扉を閉めるといや増した。
「臭いは奥の方からしますね」
「行こう」
ジュリが先へと進む。拳銃を両手で構えたシキは周囲を警戒しながら歩く。
闇に目をこらし、一歩一歩を足音を立てないように……。
通路をまっすぐ進むと、広い玄関にたどり着く。大理石の玄関に顔を近づけると三つの靴があった。
「仲良し三人組がいるのか」
「一人いないのは気になるけど、しょうがない」
シキはジュリの言葉に頷き、周囲に目を配る。
玄関は吹き抜けのようになっている。遠い天井からは、高そうなシャンデリアが吊るされていたが、仕事はしていない。
横には二階へと続く階段があり、一階の別の部屋へと続く通路もあった。その先は暗く、何が待ち構えているのかはわからない。
「どっちいきます」
「一階から。臭いは上からは来てないから」
なるほどと返事をしながら、シキはジュリの後を追う。
一階通路へ足を踏み入れるころには、外よりも深い闇にも目が慣れてきて、一寸先くらいなら見えるようになっていた。
通路の先は広々とした空間。テーブルとイス、大きなテレビがあるダイニングだった。
何も置かれていないテーブルに、シキは指を這わせる。
「ホコリがつもってら」
「キッチンもゴミだらけ。使われていない」
「でしょうねえ」
浴室、トイレ、と順繰りに見ていくが、どれもこれもが使用されていないようである。しかし、水道料金は支払われ続けられているようで、蛇口をひねれば水が出てきた。
「この調子ならガスも使えそうだが、どうして使わないんだ……?」
「キッチンにはゴミ袋が散乱していた。誰かはいる」
「人が住んでるとは思えない」
どこへ行ってもホコリまみれ、空気は吐き気を催す臭いだけではなく、ホコリが舞い、よどんでいる。こんな空気を長く吸っていたら、心と体両方ともに病気になってしまうだろうと、シキは口を手で覆った。
ほかには倉庫らしき部屋があった。だが、倉庫というよりは扉が付いたゴミ箱という方が正しかった。扉を開けるなり、ゴミ袋が雪崩のように二人の方へくずれてきた。
生ごみの腐った酸っぱい臭いが、シキの鼻をつく。
「ひどい臭い……」
「これ」ゴミ袋の一つをジュリは拾い上げる。「カップ麺。少なくとも食屍鬼ではない存在がいる」
「カップ麵を食べるのが人外だとは考えたくないな。……おっとこれは」
雪崩によって足元で生まれたゴミの中には、いくつかの楽器があった。ハーモニカ、マラカス、トランペット、そしてアコースティックギター。そのどれもが汚れ、どこかが壊れていた。
「そらみさんは楽器を大切にしてるっていう印象あったのに」
シキは、ごみの山に突き刺さったギターのネックを持つ。ボディはくの字に折れ曲がっていて、首の皮一枚でつながっている。使っているうちに壊れたというには無残な有様だった。
「人は変わるもの」
「そりゃそうかも。だが、そんな簡単に変わるもんかなあ」
「それだけのことがあったに違いない」
「例えば?」
不意にジュリが立ち止まる。質問を投げかけるべきではなかったのだろうかという一抹の後悔がシキの頭をよぎる。
だが、ジュリはシキの問いかけを気にしてはいないようであった。
その場に膝をつくと、ホコリの薄く積もった床に手を置く。耳をぴくぴくと動かして。
「家が振動している」
「振動……?」
シキは、ジュリと同じように、床に触れた。かすかだが、確かに揺れている。その揺れ方も、自然のものではない。速くなったり遅くなったり強弱もある。波に乗るような一定のリズムがあった。
「曲じゃないですか、たぶん」
「音は下の方からしている」
「地下室があるとか」
「私もそう思う」
シキとジュリは立ち上がり、地下への階段を探し始める。
壁に手を触れ振動を感じながら闇の中を探っていると、正面玄関から見て左側の方で、地下へと続く階段が見つかった。
振動は階下の暗闇の中から響いていた。近づけば近づくほど、その振動はメロディラインをはっきりとさせ、今や、鼓膜を震えさせるほどになっている。
ギターの旋律がかすかに、しかし力強く脈打つ。
「聞こえますね」拳銃を握る手に力がこもる。「そらみさんが弾いている」
「わかるの?」
「ギターボーカルだったはず。アコギも弾けるんじゃないかな」
「ほかに、敵がいるかもしれない」
ジュリは手元の銃に視線を向けた。彼女の銃はシキと同型のP230であったが、シルバーの銃身が目立つものであった。
その銀色の光は闇の中でも、頼りがいのある存在感を放っている。
シキもまた、自らの武器を仔細眺める。それから、ホテルでつかまれた足を見る。足首には手の形をしたアザがはっきりと残っていた。
「……これでなんとかできるのかな」
「できなきゃ困る」
「逮捕もできませんね」
「その時は逃げて」
「わかってます。……死にたくなんかないですから。オレだって」
シキはマガジンを抜いて、再び突っ込む。
しばしの間、二人は沈黙していた。下にあると思われる地下室から漏れ聞こえてくる音楽から、意識をそらし、跳ねる心臓をなだめるようにじっと動かない。
「行くよ」
その言葉に、シキは頷く。
二人は階段を降りていく。
カタンカタンカタン。一段一段、下っていくたびに、メロディは大きさを増していく。そのゆったりとしたリズムで弾かれるアコースティックギターの音色は、シキの心を大きく揺さぶる。
それは、神へと捧げられる曲。
どこか遠いところにおわします神を相手に歌っているのだろう。シキはわけもなく直感した。
楽器一つの讃美歌がはっきりと聞こえるようになったころ、目の前に扉が現れた。重厚で、防音対策がなされていそうなそのドアには、意味深な文様が刻み込まれていたが、幸いなことにそのほとんどをシキが見ることはなかった。
「シキ、頼みがある」
「な、なんです。突然」
「この扉、開けてほしい」
「いいですが、どうしてまた」
「…………開けられない」
「扉が……ですか」
ジュリが大きく頷いた。
「これには魔術的な防衛措置が施されている。今のわたしには絶対に無理」
一息に言って、ジュリは顔を俯かせた。
シキは、ジュリとはそれほど長い付き合いではない。だが、ここ数日でも、何かを頼まれることはなかった。それが、はじめて依頼されたのである。嬉しいというよりは驚きが勝って、シキはすぐに返事をすることができなかった。
シキは右手に銃を持ち、左手で防音扉のノブに手をかける。鍵はかかっていなかった。
「行きますよ」
「了解」
シキはもたれかかるようにして、扉を押し開けた。
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