第9話
午後四時五十分を過ぎた頃になって、シキは中央公園へ到着した。
中央公園は、その名の通り滝月市の中心に位置している公園で、市内でも有数の公園となっている。そのためか、子どもたちの楽しげな声や走っている人々の姿が見受けられた。
公園のド真ん中に建っているのが件の時計塔である。遠くからでも目立つ時計塔の足元でジュリとは待ち合わせていた。その場所にシキが向かえばジュリはすでにいた。
「ジュリさん、早いですね」
「別に、たった今来た」
言いながら、ジュリは顔を上へ。シキも同じようにして顔を上げると時計塔の文字盤が見えた。夕日を受けて虹色に輝く長針は、今まさに頂点へと差し掛かろうとしている。
シキはスマホを取り出して、録音をはじめる。
その直後、長針が0を指した。
午後五時になった。
時計塔のてっぺんに取り付けられた、天使のような形をしたスピーカーからメロディが流れ出す。
オルゴールのゆるやかで心安らぐような音が、波紋のように街中へと響いていく。
曲の発生源近くにいたシキとジュリは、その場に動けずにいた。穏やかな曲調の曲は、どこかここにはいない神々に対する讃美歌のように荘厳で優美。音楽をかじっていなくても、今流れているのがすばらしいものだということを肌で理解できた。
二人のまわりにいた人々も、同じように時計台を見上げて、ただひたすらにその曲に耳を傾けていた。そうすることが当たり前だと、至上命題だと神から告げられたかのように。
あっという間に、メロディは終わりを迎えた。シキは握り締めたスマホへ視線を向ける。録音時間は一分をとっくに過ぎて二分になろうとしていた。体感では一刹那にも満たないというのに。
シキと同じように、硬直していた人々が動き始める。
夕方の喧騒が戻ってくる――かと思われた。
静けさに騒がしい音が響く。それは子どもたちのにぎやかな声ではない。真逆の悲鳴。
シキの脳内で、あの時のことがフラッシュバックする。
今でも悪夢として見てしまう、どこかの村の惨劇。そこに響く叫び声、助けを求める声を。
反射的に、シキは声のする方へと走り出していた。
声の下にたどり着けば、人が倒れていた。
血だまりの中に倒れる三人。
赤い液体の滴る包丁を手にした女性。その目に理性的な光はない。
あの人が倒れた三人を刺したのは、明らかだった。
シキは警察官として、彼女を止めようとした。
「動くな!」
叫び、腰にぶら下げたホルスターに手を伸ばす――だが、そこには何もない。前までいた地域課では拳銃を携帯していたが、今は公安所属。それに、情報収集の段階だったので、拳銃の支給は行われていないのだった。
しまった、とシキは思った。だが、そんな感情すらも、女性と目が合うと吹き飛んでいった。
女性と視線が合うと、体がすくんだ。身をそがれるような恐怖が、ツルのようにシキの体を縛り付けた。
包丁の液体にまみれた切っ先が、シキの方を向いた。
凶器を震える手で握りしめた女性がシキめがけて歩いてくる。一歩、また一歩、その速度は速くなった。
ついには駆け出し、シキへタックルを仕掛けてくるかように刃を突き刺してきた。
ギラリとオレンジ色に光る凶刃が近づいてくる。それは自分を貫き、倒れている三人のように、皮膚を臓物をたやすく破いて、真紅の液体を噴き出させるのだろう。
無意識のうちに、シキの体は動いていた。
飛びのけるように転がったシキの横を、女性が駆け抜けていく。勢いそのままにつんの
めった女性は体勢を崩す。そのすきに、シキは彼女を振り返る。
女性は明確な殺意を向けてきていた。止められるまで、彼女はどんなことでもするだろう。たとえそれが子どもであろうが老人であろうが。
シキの職業意識が、彼の体を突き動かす。
雄たけびを上げ、シキは女性へ突っ込んでいく。ビュンと、頭上を風が通り過ぎていく。振るわれた包丁の一閃が空を切ったのだ。あと少し姿勢が高ければ、側頭部をやられていたかもしれない。――幸いなことにシキは気づいてなかった。
そのまま女性を押し倒す。シキと女性はもつれあうように、芝生の上へと転がっていく。
ごろごろと青と緑が移りかわる。目が回りそうになる視界の中で、シキは女性の腕に手を伸ばし、その手に握られた血まみれの凶器を払い落とす。からんとその華奢な手から包丁が落ちてもなお、爪を立て、シキの顔や腕をひっかいた。
灼熱のような痛みがサッと走る。それでもシキは、暴れる女性の四肢を地面へ押さえつけ、その動きを封じた。その時にはすでに、回転は止まっていた。
「警察と救急車を!」
その声に、あまりのことに硬直していた人々が動き出した。スマホを取り出し、電話をかける……。
口汚く声を上げ、バタバタもがく女性を拘束しているシキの下へ、誰かが近づいてくる。
見れば、やってきた誰かはジュリだった。
「ジュリさん、そっちは大丈夫だった?」
「平気。それより、怪我してる」
顔を指さされてはじめて、引っかかれていることにシキは気がついた。
「別にこのくらいなんでもないです。……刺された人たちからすればずっと」
「あの人たちはもう息がない」
「…………」
シキはこぶしを叩きつけた。こぶしの痛みよりも、胸の痛みの方がずっと強かった。
そんなシキを、ジュリは何も言わずに見つめていたが。
「他の場所で同様の被害が出ていないか見回ってくる」
「お願いします」
呟いた言葉はあまりにも小さかった。
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