中編

 ランタンの明かりを頼りに、クロエは川で水浴びをしていた。

「ハレックー! 見てないでしょうね!」

「見てないよ」

 結局、ハレックは着いてきていた。夜は魔物やアンデッドがよく動く。昼間は周囲に魔物の姿は見えなかったが、この時間になって現れないとも限らない。いくらクロエが不死身とはいえ、護衛してもらうに越したことはなかった。

 川の水は少々冷たかったが、我慢が必要なほどではなかった。布を濡らし、体の汚れを落としていく。植物油の石鹸で、髪も綺麗にした。

 川から上がって、乾いた布で水を拭き取っていたときだった。

「グァアアアアア!」

 魔物の大きな声が聞こえてきた!

「ハレック!?」

「大丈夫だ、ダメージは受けてない!」

 暗闇の中、ハレックが短剣で魔物と戦っている様子が見えた。

「ただの小さいスキロスだ。……いや、スキロスのアンデッドだ。追い払ってこの場を離れるぞ!」

「アンデッド!?」

 クロエは手にしていた布をその場に放ると、ランタンをつかんで、ハレックの方へ走った。

「待って、追い払わないで! 生け捕りにするわ!」

「はぁ!? 何のために!?」

「いいから!」

 ハレックは短剣でスキロスを牽制していた。スキロスは彼を睨んだまま、隙を窺っていた。

「ちょうどいいわ。ハレック、そのまま足止めをお願い。ええと、出力を抑えて……」

 クロエは、最も弱い治癒魔法を、最も低い威力で放った。

「フォルス」

 パァンと音がした。スキロスの前足が光に包まれ、消滅した。

「もう一度、フォルス」

 今度は後ろ足。スキロスのアンデッドは、その場に崩れ落ちた。

「グルルルルル……」

 アンデッドには痛覚がないらしい。痛がる様子もなく、ただクロエを睨んでいた。

「これで良し。あとは口を何かで縛って、小屋に連れて行きましょう。ええと、さっき手拭いを……」

 クロエは自分の右手を見た。さっきまで布を掴んでいたはずの手は、今はランタンを掴んでいる。

 じゃあ服で、と思ったが、クロエは服も着ていない。布切れ一枚身につけず、ランタン片手に、男の前に立っていた。

「……」

「……」

 ハレックと目が合う。彼は、「ふんっ」と鼻で笑った。

「やっぱり子供体型じゃないか」

「〜〜〜っ!」

 クロエは顔を、いや全身を真っ赤にし、

「変態ぃ〜〜〜っ!!」

 と叫んで川へ全力疾走した。


***


「本当にすまなかった。紳士として配慮が足りなかった」

 小屋のベッドの上で、クロエは毛布をかぶって膝を抱えていた。その横で、ハレックは床に座って頭を下げていた。さらにその横では、口を布でぐるぐる巻きにされたスキロスが横たわっていた。混沌とした光景だった。

「もういいわ。どうせ暗くてよく見えなかったでしょうし」

「あ、ああ。そうだ。シルエットしか見えなかった」

 あのときクロエはランタンを持っていたのだから、隅々までよく見えたはずだ。だがお互い、「何も見えなかった」ということにした。

「そんなことより、良いものが手に入ったわ。アンデッドよ!」

 クロエは元気になって、ベッドから降りた。スキロスが恨めしげに彼女を見上げる。

「こんなもの、いったいどうするんだ?」

「実験したいことがあるの」

 クロエは自分の旅荷物の中から、一冊の本を出した。

「本? わざわざそんなものを持ち歩いているのか? 収納魔法もないのに?」

「ええ、そうよ。どうしても必要なの」

 その本は、治癒魔法について書かれた本だった。クロエがここに来る前に立ち寄った街で見つけたものだ。クロエはその本に、びっしりと書き込みをしていた。

 クロエはこの三年間、街から街へ移り歩いては、本を集めていた。収納魔法がないので何冊も持ち歩くことはできないが、有益そうな本を見つけるたびに、荷物に加えていた。そして持ちきれなくなった本の内容は、こうして他の本に書き写していた。

「これまで何十冊と治癒魔法や闇魔法の本を読んで、そろそろ完成しそうなのよ」

「何が?」

の魔法よ」

 クロエは本を見ながら、床に魔法陣を描き始めた。

「死者、蘇生……?」

 ハレックが禍々しそうにその言葉を口にした。

「まさかお前、人類を……」

 クロエはうなずく。

「ええ。私は、! 全人類ってわけにはいかないでしょうけど、せめて死体が残っている人は……あるいはアンデッドになった人くらいは、蘇生させたい」

「だが人類が滅んでもう三年経ってる。死体は全部骨になってるだろう。アンデッドになる人間だって稀だ。……いや、待てよ」

 ハレックは何かに気付いたように、口元に手をやった。

「例えアンデッドになる人間が稀でも、全人類が滅亡した今は、人間のアンデッドも大量にいるはず……?」

「そうよ。私はその全員を復活させたい。私は残りの人生を、孤独に生きるつもりはないの。……よし、描けた」

 床には、本のものとは違う魔法陣が描かれていた。何冊もの本の知識を応用し、クロエが編み出した独自の魔法陣だ。クロエの理論が正しければ、これでアンデッドが蘇生するはずだった。

 スキロスのアンデッドを、魔法陣の真ん中に乗せる。抵抗する気がなくなったのか、スキロスはおとなしかった。

「あとはこの呪文を唱えれば、こいつは元の姿に戻るはずよ」

「複雑な魔法陣だな。こんな複雑なものは見たことがない」

「大変なのよ。アンデッドを蘇生するには、治癒魔法だけじゃ足りない。でも私にはそれが使えないから、補助の陣が必要になる。それを付け足していくとこうなっちゃうの」

「よくわからんが、大変なんだな」

「ええ。ハレック、もし成功したら、すぐこいつを殺してくれる?」

「わかった、任せろ」

 ハレックは短剣を構えた。それを見て、クロエが詠唱を始める。

「ル・ダグ・リグビス、光の魔女クロエ・アスピリーナの名において、光陰の守護者に命ずる。アイ・ギリオ・イージオ、陣の真央しんおうす屍に。キ・フォルス・フォルド、再び命を宿せ。ル・フォルス・コスティターナ!」

 魔法陣が黒く輝き出した。スキロスと共に宙へ浮かび上がる。陣の中の呪文が高速で回転を始める。やがて一際強く輝いたかと思うと……スキロスごと、魔法陣は消滅した。

 あとには、一陣の風と、ランタンの光が残るだけだった。

「……どうなったんだ? うまくいったのか?」

「いいえ、残念。失敗ね。魔力のバランスが悪かったのだと思う。インクの調合のせいかしら、それとも呪文が……」

 クロエはぶつぶつと呟いた。

「まぁ、歴史上誰も成功させていないことだからな。そううまくはいかないか」

 ハレックは剣をしまって、ベッドに座った。


 この辺りにアンデッドが他にもいるなら、実験を繰り返せる。クロエはそのときに備えて、ランタンの灯で本を読み直していた。

「早く寝た方が良いんじゃないか?」

 とハレックに言われたが、「眠くなったら寝るわ」とだけ答えて本を読み続けた。

 そして結局、日が昇るまで読んでいた。

「クロエ!」

 朝日が差し込むと同時に、ハレックが叫びながら飛び起きた。

「きゃっ! お、脅かさないでよ。おはよう、どうしたの?」

 ハレックは目を見開きながらクロエを見た。

「おはよう……いや、すまない。なんでもないんだ。ところでまさか、一晩中読んでいたのか?」

 ベッドから下りたハレックは、クロエの顔色をうかがった。

「すっかり夢中になっちゃって」

「その割には元気そうだな。まさか、寝不足も治癒できるのか?」

「さすがにそれは無理。でも、寝不足から来る体調不良は治せるわ」

「便利だな」

 ハレックは大きく伸びをすると、

「とはいえ、少しは寝ておけ。魔力の補給は必要だろう。俺は水を汲んで、食べ物を取ってくる」

「ありがとう。それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらうわ」

 クロエはハレックと入れ替わるように、ベッドに横になった。硬く冷たいベッドは、クロエをあっという間に眠りへと誘った。


***


 クロエが目を覚ましたのは昼過ぎだった。割れた窓の外から、香ばしい匂いが漂ってくる。だが、小屋の中にハレックの姿がない。

「ハレック!」

 思わず大声で叫ぶ。半ばパニックになっていた。

「起きたのか? どうした?」

 窓からハレックが顔を覗かせた。それを見て、クロエは脱力した。

「よかった……ちゃんといる……夢じゃなかったのね……」

「……」

 ハレックは気の毒そうな表情をした。

 クロエもハレックも、この三年間、極限の孤独を味わっていた。それがつい昨日、生きている人間に出会えた。眠りから覚めたばかりのクロエは……それが夢だったのか現実だったのか、自信が持てなかった。

「こっちに来い。ちょうど魚が焼けたところだ」

「ええ、今すぐ行くわ」

 クロエが小屋を出るまで、ハレックは窓から見えるところにいた。

 小屋の外では、ハレックが小さな焚き火をあげていた。その火で串刺しにした川魚を焼いている。

 クロエは無意識のうちに、ハレックのそばに座っていた。こうしていると、なぜだか心が落ち着いた。火が体を温めるからだろうか。

「ほら、焼けたぞ」

 ハレックが串焼きの魚を一匹、取ってくれた。「ありがとう」と言って受け取る。ハレックも自分の串焼きを取り、二人で魚を食べ始めた。香辛料が程よく利いた美味しい焼き魚だった。

「美味しいわ。あなた、料理上手なのね」

「ただ焼いただけだが?」

 ハレックは突っ込みを入れながら笑った。クロエも笑う。笑いながら食事をするなんて久々のことだった。

 食べ終わってからも、二人は寄り添ったままぼんやりと火を眺めていた。昨日までのクロエなら、午後は食料を探すか、実験体のアンデッドを探すか、新しい本を求めて旅を急ぐかのどれかだった。果樹園への定住を決めたのは、食料探しの時間を省略できるからだ。その分、より多くの実験が可能になる。

 だから本当はこんなことをしていないで、アンデッドを探しに行かなきゃいけない。頭ではそう思っていても、体はもうしばらくここにいたいと告げていた。

 二人は黙っていたが、火の燃える音が心地よい音楽のように流れていた。何も話さなくても気まずさはなかった。

 時々横を見ると、ハレックは物思いに耽ったような顔で焚き火を見つめていた。何を考えているのだろうか。戦争のことだろうか。これからの人生のことだろうか。あるいは、何も考えずにぼーっとしているだけだろうか。

 クロエの頭の中は、これからの人生のことでいっぱいだった。

 これまで一人だったから、これから先も一人で旅を続け、実験を続けるものだと思っていた。それが、急に仲間ができた。

 これからは二人で旅をする。人類が復活するまで、別れる未来はないだろう。それはつまり……事実上、結婚みたいなものだ。

(いやいや、結婚だなんて)

 クロエはハレックの横顔を見ながら否定した。武闘派の彼は、クロエの好みではない。自分はもっと、スマートな人が好みだ。

 その一方で、ハレックのそばにいると心が安らぐ自分もいた。

(で、でもそれは、三年ぶりに生きてる人に出会えたからであって、好きだからとかそういう話じゃないわけで。ハレックだって、こんな子供体型の人は好みじゃないだろうし)

 では体型が変わったらどうなるだろう。クロエの成長は十歳頃から停滞しているが、止まっているわけではない。本人しか気付かないくらいの速さで、ゆっくりと成長している。あと数年もすれば、胸も膨らみ、体つきも変わるだろう。

 そうなったとき、ハレックはクロエを好きになるだろうか?

(って、別に好きになってもらいたいわけじゃないけど! ただ、世界で二人きりの男女なんだから、そういう展開もありうるよねって話で!)

 クロエはまたハレックの横顔を見た。この元兵士は、誰かを愛したことはあるのだろうか。大切な人は、いたのだろうか。

 だが、それを尋ねる気にはなれなかった。もしいたとしたら、クロエは少なからずショックを受けるだろうし、ハレックには間違いなく辛いことを思い出させてしまうからだ。

 見つめていると、ハレックがこっちを向いた。

「どうした?」

「えっ!? いやっ、別に、なんでもないわ!」

 クロエは慌てて、焚き火に視線を戻す。

 ハレックも視線を戻しながら、「そういえば」と話し始めた。

「昨日のアンデッドの話だが」

「え、ええ。なに?」

「お前、シエンシア王都の図書館には行ったか?」

「王都? いいえ。私はまだ、シエンシアに来たばかりだもの。それが?」

 ハレックは火搔き棒で焚き火をいじりながら、話を続けた。

「シエンシア王立図書館はこの大陸で一番大きな図書館で、地下にも書庫がある。そしてその奥には、禁書だけを集めた禁書書庫がある……という噂なんだ」

「禁書……? どんな本なの?」

「噂によれば、その多くが、禁呪と呼ばれる危険な魔法を記した本らしい。その中には、死者を復活させる魔法もある、と」

「それ、本当!?」

 ぼんやりしていた頭が、急に冴え渡った。

「わからない。ただの噂話だ。それに、その本の内容だって、正しいのかどうか……」

 ハレックは、そんな魔法の存在を信じていないようだった。

「だが、巨大な図書館であることは間違いない。お前の旅の目的からしても、行って損はないはずだ」

「そうね、その通りだわ。行きましょう。シエンシア王都って、ここからだと……」

「遠くない。歩いて三日というところだ」

「行きましょう」

 クロエは立ち上がった。体が先を急かしている。

 今日は出発の準備をする日にしよう。干し魚と干しノレムを、たくさん作らなくては。そして、明日には出発しよう。


 準備には二日かかった。二人分の食料が必要なことを忘れていたからだ。

 三日目には、二人は十分な水と食料を持って、果樹園を出発することができた。

「王都までは、この道を進めばいい。戦争で荒れているが、他のルートに比べれば歩きやすい」

 ハレックはこの辺りの地理に詳しいようだった。元はシエンシア王国の兵士なのだから当然だ。クロエは彼の後を着いて行くだけでよかった。

 一日が経ち、二日が経った。道はどこも荒れていた。雑草が生い茂り、木が倒れていた。それでも、進行は順調だった。明日には王都に着くだろう、とハレックは言った。

 日が傾いてきた頃、二人は一軒の宿にたどり着いた。元々は大勢の旅人を迎える立派な宿だったのだろうが、今はほとんど崩壊している。周囲には瓦礫が散乱し、この辺りでひどい戦闘があったことを物語っていた。

「今日はここに泊まろう。明日、日の出とともに出発すれば、昼前には王都に着くはずだ」

「わかったわ。……ここ、崩れなきゃいいけど」

 クロエは心配になって、石の壁を手で押した。もちろん、びくともしない。

 ドアは無くなっていた。そもそも、どこが入り口だったのかも、今の状態からはわからない。ただ運の良いことに、一部屋だけ、屋根も壁も無事な状態で残っていた。すぐ横に生えた大木が、爆風などからその区画を守ったのだろう。その証拠に、大木自身は焼け焦げていた。

 その部屋もドアは無くなっていたが、窓枠と鎧窓は残っていた。床に散らばる窓ガラスを片付ければ、一泊するには十分すぎる設備と言えた。

 二人はせっせと掃除を始めた。すっかり慣れた作業だ。掃除が済むと、外の瓦礫に並んで座り、今朝捕まえて燻製にした獣肉を食べ始めた。

「美味いな。お前も料理上手じゃないか」

 ふふん、とクロエは鼻を鳴らした。

 焚き火を眺めながら燻製肉を食べる。時々、火が大きく揺れた。風が出てきたのだ。

「今夜は少し、天気が荒れるかもしれないな」

「さっきまでいいお天気だったのに」

「この季節にはよくあることだ。幸い鎧窓は残っているから、あれを閉めておけば問題ない」

 食事を終えると、二人は寝る準備をした。ベッドがなくなっていたので、床で寝ることにした。この三年で、床や地面の上に寝るのもすっかり慣れてしまった。

 二人はこの数日寝食をともにしたが、果樹園の小屋より狭い部屋で並んで寝るのは初めてだった。ほとんど密着するような距離だった。

「お、おやすみ」

「ああ、おやすみ」

 ハレックはすぐに寝息を立て始めたが、クロエは寝付けそうになかった。

 夜が更けるにつれ、風が強くなっていった。鎧窓がガタガタと揺れる。外の雑草が揺れ、ザァザァと不気味な音を立てた。

 クロエは久しぶりに、暗い夜に恐怖を覚えた。

 人類が滅亡して最初の数週間、クロエは孤独な長い夜を、ただただ震えながら過ごしていた。いくらクロエが不死身でも、暗闇には本能的な恐怖を感じる。それに、魔王軍がまだ、人類の生き残りを探して彷徨いていた。仮にあのとき、世界のどこかに人類が生き残っていたとしても、魔王軍に殺されたか、恐怖に耐えかねて自殺していただろう。

 魔王軍が諦めた頃、クロエはようやく、火を焚きながら夜を過ごせるようになった。それ以来、少しずつ夜への恐怖はなくなっていった。

 それでも、今夜のような荒れた天気の日は、震えて過ごすことも多かった。もしハレックがいなかったら、クロエは今夜も震えていただろう。耳を澄ますと、風の音に混じってハレックの規則的な寝息が聞こえてくる。

 クロエは少しでも彼の声を聞こうと、ハレックの顔に耳を近づけた。羽織った布越しに、二人の肩が触れ合う。クロエは思わず、ハレックの腕に自分の腕を絡めた。

 そして、その感触に違和感を覚えた。

 異様に冷たい。男性の体はこうなのか? いや、人体としてあり得ないほどの低温だ。

「ハレック? ハレック!!」

 まさか死んでしまったのか? しかし寝息は立てている。クロエは慌ててハレックの肩を揺さぶった。

「なんだ、どうした!?」

 ハレックは瞬時に飛び起きた。

「魔物か? それとも怖い夢でも見たか?」

「ハレック、あなた、体温が……」

 そう言いかけたとき。

 一際強い一陣の風が、鎧窓を大きく鳴らした。その外から、ミシミシと不穏な音が聞こえてくる。

 その次の瞬間。

 部屋全体を揺らすような衝撃が、二人を襲った。天井に亀裂が入る。

「危ない!」

 ハレックがクロエの腕を掴み、強く引っ張る。クロエはその勢いで、部屋の外まで投げ飛ばされた。

「ハレッ——」

 呼びかけた瞬間、轟音とともに天井が崩れた。

「うそ、そんな……ハレック! ハレック!!」

 クロエは半狂乱になりながら部屋に駆け戻った。焼け焦げた大木が、天井を押し潰していた。崩れた瓦礫の下に、ハレックはいた。

「ハレック! 大丈夫、ハレック!?」

「ああ、平気だ。足を挟まれただけだ」

 ハレックは冷静だった。幸い命に別状はなさそうだ。死んでさえいなければ、クロエの治癒魔法でどんな怪我でも治すことができる。

「しかし困ったな。完全に挟まれていて、身動きできない」

 右足の膝から下が、瓦礫と大木の下敷きになっていた。ハレックがなんとか瓦礫を持ち上げようとするが、さすがの彼にも厳しかった。

「仕方ないわね。ハレック、斧は持ってるわよね?」

「ああ、荷物の中に……だがどうする気だ?」

「あなたの足を切り落とすわ。そして、治癒魔法で治す」

「待て待て待て待て。やめろやめろ!」

「大丈夫よ。私はもっと酷い怪我をした兵士たちも治してきたんだから」

「だとしてもやめろ! 瓦礫をどかす方法はあるから落ち着け!」

 冷静だったハレックが慌てふためいて叫んだ。ハレックがこんなに取り乱すのは、この数日で初めてのことだった。

 その様子を見て、クロエは冷静になれた。

「ごめんなさい。そうよね、痛いのは嫌よね。でも、どうやってどかすの?」

「たしか近くにもう一本、枯れてない大きな木があったはずだ。斧を貸すから、その枝を一本切って持ってきてくれ」

 クロエは言われた通り、斧を持って外に出た。風がまだ轟々と吹いている中、大きな木がどっしりと立っていた。クロエはぎりぎり手が届く高さにあった枝に向けて、斧を振るった。

「これでいい?」

 宿に戻って、取ってきた短い枝を見せた。

「十分だ。ちょっと貸してくれ」

 ハレックはそれを、瓦礫の下に押し込む。

「この枝に、治癒魔法をかけてくれ。植物は人体と違って、体のほとんどの場所に魂がある。だから——」

 クロエは意図を察した。そして、なるべく強力な治癒魔法をかけることにした。

「光の魔女の名において命じる。汝のあるべき姿を取り戻せ。ル・フォルス・ミリベリット」

 呪文を唱えると、枝の折れた箇所が光り始めた。その光は徐々に伸び、やがて幹を形作り始めた。木の幹から枝が生えるように、枝から幹が生え始めたのだ。

 幹は次第に大きくなり、自分にのしかかる瓦礫や大木を押し上げた。そしてわずかに隙間ができた瞬間を見計らって、クロエはハレックを引っ張り出した。

「よしっ、抜けれた!」

 ハレックは這って、部屋の外まで逃げ出した。二人で振り返ると、新たな大木がそこに生えていた。

 切り落とされた人間の腕に治癒魔法をかけても、人体が再生されることはない。人体は胸の辺りに魂の器があり、そこが治癒魔法を受け取るからだ。

 植物は器がない代わりに、魂が全身に広がっている。枝を地面に差すと、その枝が新たな木になるのはそのためだ。ハレックは治癒魔法でそれを再現したのだった。

「よく思いついたわね、こんなこと」

「俺の考えじゃない。昔、王女が同じことをやったんだ」

「王女?」

「シエンシア王国のメイザ王女だ。知らないか?」

 名前は聞いたことがあった。治癒魔法を得意とする王女として、有名な人物だった。自分自身を治癒できるほどの強力な治癒魔法使いだったと聞く。

「戦争中に何度か、こうして瓦礫を押し上げていたんだ」

「そうだったのね。……って、ハレック、怪我を治さなきゃ!」

 あまりにも普通に話していたので、彼の右足が潰されていることを忘れかけていた。それにまだ風も強い。いつまた何かが倒れたり飛んできたりするかわからない。早く治癒して、安全な場所へ逃げないと。

「いや、いい。大丈夫だ。こんなもの、肉を食っていれば治る」

「そんなわけないでしょ! いいからじっとしてて。すぐ治癒するから」

「いらん、やめろ。いいから治癒するな、そのまま放っておけ」

「フォルス!」

 ハレックの言葉を無視して、クロエは治癒魔法をかけた。彼の右足が光り始めると……。

「があああああっ!!」

 ハレックが叫び声を上げた。右足を押さえる。強烈な痛みに耐えているかのようだ。

「ど、どうしたの!?」

 クロエは驚いて治癒魔法を止めた。ランタンを近付けて、患部を見る。

 そこは惨い状態だった。皮膚はただれ、肉が泡立っている。鬱血したかのように紫色なのに、血は一滴も出ていない。瓦礫に潰されてこんな風になるはずがない。明らかに、治癒魔法でダメージを受けていた。

「ハレック、あなた、まさか……」

 いやそんなはずはない。ハレックは呼吸もしているし、自我もある。だからそんなはずはない。クロエは頭の中で何度もそう唱えた。

 だがハレックは、痛みに耐えるような表情のまま、苦しげに言った。

「そうだ。俺は、俺の体は、アンデッドになりかけている」

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