第143話 ストレッチは愛言葉を添えて

「おはようございます。起きる時間ですよ」


「……おはよう。そう来ると思ったよ」


「おはようのキス、お願いします」


 約束の朝がやってきた。

 例によって陽菜のモーニングダイレクトアタックで目を覚ます。

 腹に感じる温もりと僅かな重み。

 やはりというかなんというか……とても危険な起こし方を容赦なく実践してくるな。


 ネグリジェ姿の彼女が腹の上に跨っているのは朝から非常に危ない。

 そんなのはお構いなくで、目覚めの口付けをご所望のお姫様は俺の身体の上を這いながら、ぷるっと潤いたっぷりの唇を近付けてくる。


 そうして毎朝の日課であるおはようのキスを交わして、陽菜の身体を抱き締める。

 モゾモゾと身悶える彼女をぎゅっと押さえ付けて、長々と息を奪うこと数十秒。


「んんっ、ぷはぁ……おかわりっ」


「ダメ、終わり」


「けち」


「走るんだろ? 着替えて準備しないとな」


 軽い息継ぎを挟んですかさずおかわりを要求してくる陽菜をごろんと横において身体を起こす。

 おかわりのキスを断られてぷっくり膨らんだ頬に指を優しく突き立てると、ぷすぅと空気が抜ける音とともに萎んでいく。


 この幸せなキスの無限ループに嵌ると中々抜け出せなくなる。

 せっかく早起きしたのにキスしてたらいつの間にか1時間経っていたなんてことになったら困るからな。

 だからそんな意地悪してるみたいな目で見ないでくれ。


 ◇


 軽く走るために動きやすい格好に着替える。

 まあ、動きやすい格好と言っても俺の家に運動のための装いがあるはずもなく、無難にジャージを着ているわけだが。


 まさか俺がこんな風に自主的な運動に励むことになるとは……。

 一人じゃ絶対やろうと思わなかっただろうし、陽菜様々だな。


 そんなお陽菜さんはというと、同じく動きやすい格好……なのだが、どうにも目のやり場に困る。

 確かドルフィンパンツというんだったか。

 太もものところがこう……結構見えるタイプのものを着用してきたようなので、非常にいたたまれない。


「玲くん。見るならもっとがっつりじろじろ入念に見てください」


「それはどういう怒り方?」


 ちらちらと見てしまっていたのは事実。

 しかし、逆方向に対するぷんすかをされるとは思いもしなかった。


 そんなに見ないでくださいではなく、もっと見てくださいと怒られるとは……さすが陽菜。さすひな。


「もういいんですか? もっと見ておいた方がお得ですよ? なんなら寝室で……あいたっ」


「隙あらば寝室に誘おうとしないの」


 油断も隙もない。

 健康的で美しい御御足を見せつけながらそんなことして……寝起きのキスといい、朝から絶好調で攻撃的である。

 お外で運動する予定なのに、室内で激しく運動することになって、学校に遅刻してしまっては一溜りもない。


「さっさと走りに行くぞ」


「あ、待ってください。ここで準備運動をしてからいきましょう」


「……それもそうか」


「いきなり走って怪我してしまっては元も子もありません。入念にストレッチをして、お互いの身体を解し合ってから走りましょう」


「ちなみにその解し合いは任意?」


「もちろん強制です!」


 知ってた。

 お陽菜さんが言い出したことが任意なはずないよな。


「まずはストレッチからやりましょう。玲くん、背中を押してもらえますか?」


 そう言って足を開いてぺたりと座り込む陽菜。

 俺の補助無しでもぺたーんと床に身体を付けられるほど柔軟性があるというのに……。


「んっ、よいしょ」


 ほらみろ。

 一切の抵抗なく軽々と折り畳まれたじゃないか。

 まさに背中に手を添えているだけである。


 途中で止まっているとかなら押してやるとか仕事があるんだが、既に床に付いている陽菜の身体をさらに押し込むわけにもいかないからなぁ……。

 手持ち無沙汰になった俺はふと、その無防備な背中に指を走らせることにした。


「ひゃっ……な、なんですか?」


「んー? なんて書いたと思う?」


「えっ? もう一回やってください。不意打ちは卑怯です」


 ただ意味もなく背中を撫で回したわけではなく、指で文字を書いていた。

 それを陽菜に当てさせるちょっとした遊びだが……うっすらと陽菜の耳が赤くなっているから分かったみたいだな。


「では、交代しましょう。答え合わせは玲くんの背中で」


「おう……って、俺は陽菜ほど柔らかくないからお手柔らかにな」


「お構いなくです」


 それは困るんだが?

 あくまでもストレッチなので、可動域を無視した押し込みは激痛で死んでしまうぞ。


「押しますよー」


「……あ、ストップ」


「まだいけますねー」


「いててててて。ちょ、まじで勘弁して。あと、胸当たってるから」


「当ててるんですよ。あと十秒頑張りましょうね〜」


 覆い被さるようにして俺の身体を押し込む陽菜さんの柔らかいお胸の感触が背中に伝わってとても幸せなんですが、それはそれとして痛すぎる。

 これ以上は無理というところからグッと押し込まれる激痛。

 地獄の十秒間を味わい、激痛から解放されて大きく息を吐いていると不意に背中をなぞられた。


「うお、急に書くなよ。さっき不意打ちは卑怯って言ってただろ」


「……はて、なんのことでしょうか? 記憶にありませんね」


 こんにゃろ。

 痛さのあまりすっかり失念していたな。

 何を書かれるのか意識していなかったから最初の方はスルーしてしまったが、思ったよりも字数が多い。

 意地悪な陽菜さんは二度目のチャンスを与えてくれないみたいなので、後半の方から推測して当てるしかないが……『こしも』?


 いや、その前の見逃した数画が一文字ではなく二文字分だとすると……二文字目は『こ』ではなく『た』か『に』だな。

 あとは人読みをするしかないが……答え合わせは俺の背中でと陽菜は言っていたから、この文字で俺が陽菜の背中に書いた文字が合っているのか判別できるはず。


 俺は陽菜の背中に『すき』と書いた。

 それを理解した陽菜が書いたのは……。


「わたしも……だろ?」


「正解です。でも、そういう愛の言葉はちゃんと口で言うべきですよ?」


「そうだな。陽菜、好きだぞ」


「私も大好きです!」


 確かに陽菜の言う通りだ。

 改めて口で言うと少し照れくさい気もするが、こういうのはいくら口にしてもいいもんだなと実感する。

 そんな愛の言葉を投げ返してくれる陽菜が嬉しさ余って再度俺の背中に覆いかぶさってくる。


「いてててて、押すな。床にめり込むから……っ」


「お構いなくですっ」


「人体はそれ以上曲がらないから勘弁してくれ」


「玲くん、大好きです!」


「ねえ、聞いて? お願いだから、ぐっ……うっ……」


 それは構っていただきたい。

 幸せだが非常に痛みを伴う愛の囁きオプション付きのストレッチはあくまでも準備運動のはず……なのだが、ランニングに出るまでもなく俺の身体は早くも悲鳴を上げていた。

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