第110話 念入りストレッチ

 これから海を満喫するための事前準備だったはずなのに、なんだかドッと疲れたような気がする。

 まさか日焼け止めを塗るだけでここまで精神を消耗させられるとは……陽菜は相変わらずフルスロットルなご様子であらせられるな。なんか艶々してるし。


 とりあえず日差し対策はできたところで……さてどうしようか。

 何を遊ぶか非常に悩ましいところだ。

 まあ、こういうので悩んだらとりあえず陽菜に振っておけば一秒たりとも無駄にできないとい心持ちの元即断してくれるだろ。いきなり休憩(意味深)しましょうとか言われたらそれは却下するが。


「何からしようか? 安定に海に浸かるか?」


「それには賛成ですが、玲くん……何か忘れてませんか?」


「なんだ?」


「海に入る前にしっかり身体をほぐしておかなければいけません」


「まあ、確かに。泳ぐ前に準備運動は必須だな」


 いきなり泳ぎ始めて足をつって溺れてしまうなんてことになったら大変だ。

 けが予防のために準備運動は念入りに行うというのは海でもプールでも同じだな。

 まあ、これだけ聞くと普通の注意喚起にも聞こえるが、あなたの魂胆は見え見えなんですよ。


「どうぞ、私の身体をほぐしてください」


「ほぐしてくださいって言われてもな……何すりゃいいんだよ」


「ストレッチのお手伝いですよ。押したり引いたり揉んだりしてあちこち伸ばしてください」


「自分でやってくんね?」


「それは不可能です。その代わり玲くんのストレッチは私が押してあげますから」


 なるほど。どうしても俺を手伝わせたいらしい。

 正直日焼け止めで結構削られているので少し落ち着きたいのだが、猛攻を緩めるつもりはないみたいだな。

 了承をしたつもりはないが、陽菜は俺の前に座り込んで無防備に背中を晒している。足を開いてスタンバイしており、押される準備ばっちりだ。


「はあ、分かったよ。痛かったら言えよ」


「どうぞ、存分に撫でまわしてください」


 これ、ストレッチなんだよね?

 陽菜さんはいったい何をご所望なのか分からなくなるんだが……とりあえずけが予防のためにしっかり準備運動しないといけないのは間違いないので、おそるおそる背中に手を合わせ、ゆっくりと押していく。


「んっ……ふっ……」


「うおっ……柔らかいな……」


 俺が背中を押すのに合わせて息が漏れる。

 陽菜の柔らかい身体は体操選手みたいにぺたんと折りたたまれた。

 よく見ると足もほぼ180度に開いているし、その状態で上半身を地面に付けられるのだからものすごい柔軟性だ。とてもじゃないが俺には真似できない芸当である。

 というか……そんだけ柔らかかったら俺の補助要らないだろ。両手は添えるだけの力を加えていない状態でもこの姿勢をキープしているのだから、俺は完全にお飾りだ。


「あのー、俺要る?」


「必要です。もっと全身を密着させて強く押してくれると助かります」


「これ以上どう押せばいいんだよ」


「気合……いえ、愛です」


 気合と愛があればなんとかなるってか。

 とりあえず前だけでなく横にも押してみたが、やはり補助の必要性をまるで感じない。すごい柔軟性だ。柔らかすぎてちゃんとほぐれているのか分からないな。


「ふぅ……ありがとうございます。玲くんのおかげでばっちりほぐれました」


「あ、うん……よかったね」


「次は玲くんの番ですね。怪我しないように念入りにやりましょう」


 なぜこの子は人のストレッチ補助にここまでやる気で満ち溢れているのだろうか。

 かわいいから勘弁してほしいのだが……言っても無駄だし止まらないのは今に始まったことではない。

 はぁ……仕方ない。必要な事だと割り切って覚悟を決めようじゃないか。


「んじゃ、お願いするけど……俺は陽菜みたいに柔らかくないからあんまり強く押さないでくれよ?」


「無茶なことはしませんよ。ちょっと半分に折り畳めるか試してみるだけです」


「あのー、怪我人通り越して死人が出るからやめてね?」


 自分の柔軟性がそこまで高くないのは分かっている。

 そこまで曲がらないし、なんなら全力で抵抗するぞ。


「じゃあ押しますよ。呼吸は止めないでくださいね」


「ぐっ……」


「まだいけますよね? もうちょっと頑張りましょうか」


「む、むり……砕ける……」


「人はそう簡単に砕けません」


 もうこれ以上は前に進まないという状況なのにお構いなしに押し込んでくるな。

 自分でやるストレッチだと痛みを感じたところで止めてしまうが、人の補助ありだとそれがないため、よりほぐれるのは理解できるが……やっぱり痛いものは痛い。


「まだ頑張れますよね?」


「無茶……言うな」


「では……失礼します」


 これ以上進まない俺の身体を見て諦めてくれる……なんてことはなく、ぐいぐい押されるのが継続している。

 そして、陽菜の腕がするりと伸びてきて、背中全体に柔らかくて熱い温もりを感じる。

 これはもしかしなくても……抱きついて、身体全体を使って押し込んでいるみたいだな。


「いててて……おいっ、当たってるんだが?」


「はい、当ててるのでお構いなくです」


 痛みの中に確かに感じる背中の柔らかさについて言及するも、当然のようにお構いなくされてしまった。

 その状態で覆いかぶさりながら、反動も使って押し込もうとしてくるので、背中が…………。


「これ以上は無理そうですね」


「ギブ……」


「もう少し抱き着いてていいですか?」


「痛いし暑いし理性が危ないのでダメ」


「……お構いなく」


 押し込むのはストップしたが、覆い被さるのはやめてくれない。

 ピッタリ張り付く柔肌による理性攻撃は継続中である。


 重なる肌と二人分の体温。

 陽菜の猛攻でうるさいくらいに高鳴る心臓。

 容赦なく降り注ぐ夏の日差し。


「暑い……熱い……」


「ほんとですね」


「そう思うなら離してくれません?」


「それとこれは別の話です。お構いなくです」


 まだまだ暑く、熱くなりそうだな……。

 とりあえず、海に入る前に休憩とって、アイスでも食べたい気分だ。

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