第77話 名前呼びの幸せ
たっぷりと時間をかけた口付けを終え、空気を求めて荒い息を吐きながら顔を離す。甘く蕩けた彼女の表情がとても可愛くて、愛おしい。
今までは三上さんが求めてくるから仕方ないと自分に言い訳をしていたが、こうして自分から求めたのは初めてかもしれない。
いつも三上さんに対して、ごり押しが過ぎると思っていたが今ならその気持ちがよく分かる気がする。
一度タガが外れてしまうと歯止めが利かなくなる。際限なく欲してしまう。もっと、もっとと強く求めてしまう。
このまま本能のままに彼女を求めてしまいたい気持ちを抑えて、三上さんの頭を撫でてなだめる。
もう終わりなのかと言いたげにやや不満げな三上さんの上目遣いが反則過ぎて、ここで留めようという決意が一瞬で揺らぎそうになった。
ここは先手必勝。晴れて恋人と呼べる関係になったのは喜ばしいことだが、俺が三上さんのごり押しに弱いことに変わりはない。
心苦しいし名残惜しいが、三上さんを抱き締める腕の力を緩めて、密着していた身体を離した。
「まだ満足していないのですが?」
「……今日は俺の親が来るって忘れてないか?」
「……お、覚えてますよ」
今の反応……ものすごく怪しいな。
間も空いたし、ハッとした表情だったし、本気で忘れていたのではなかろうか。
今日が俺の誕生日であることも……忘れてないよな?
すべてを忘却の彼方に吹き飛ばして、三上さん自らの欲望を満たす欲張りモードに突入していたら困ってしまうな。
でもまあ……それも三上さんらしいか。
「三上さんは可愛いな」
「むぅ……またその呼び方に戻ってるじゃないですか」
「あっ……悪い。ずっとそう呼んできたしな。三上さんは三上さんって感じなんだよなぁ」
「なんですか、それ……? 私は私ですよ?」
むくれた彼女の指摘で、俺の呼び方が苗字呼びに戻っていることに気付く。
意識していないとこうなってしまう。三上さんはなんて言うかこう……頭からつま先まで三上さんって感じがするから、名前で呼ぶのはまだ慣れなさそうだ。
「ひ、陽菜」
「はい。なんですか、桐島さん」
「……そういうそっちは苗字呼びするんだな」
「あっ……すみません。なんだか桐島さんは桐島さんって感じがするので」
「分かる。まあ、今まで通りでいいよ」
その気持ちは分からんでもない。
ずっと苗字で呼び合ってきたのだから、急に名前呼びにするのは戸惑ってしまうよな。
まるで呼ぶのを強制するみたいな言い方になってしまったが、別に関係が変化したから呼び方も変えろと言っているわけではない。
どんな呼び方でも俺を呼んでいると分かれば問題はない。
恋人になった途端に名前呼びに変えなければならないルールは存在しないからな。
呼びたくなった時に呼べばいいし、ゆっくりと慣らしていけばいいと思う。
俺も三上さんを……陽菜と自然に呼べるようになるまで、何度でも彼女の名前を呼んでいこうと思う。
「れ、玲くん……っ!」
意を決したように。恥らいを押し留めながら俺の名前を呼ぶ陽菜の一生懸命な様子に思わずときめいてしまった。
思ったよりも破壊力がある。
ただ名前呼びするくらいどうってことない。だから好きな時に気分でと軽い気持ちで考えていたが……いざ名前で呼ばれてみるとなんかこう、心にグッとくるものがある。
ほんの少し呼び方が変わっただけでこれほどまでに愛おしさが溢れてくるとは……。
「なんだ、陽菜」
「よ、呼んでみただけですっ。名前で呼ぶのって思ったより恥ずかしいんですね……」
普段からもっと恥ずかしいことしているのではないかと頭をよぎったが、ここは茶化す場面ではないので黙っておこう。
陽菜ならしれっと普通に呼び出すものかと思っていたが、予想に反してピュアな反応をしてくれたので思わずにやけそうになってしまう。
「別に無理しなくてもいいんだぞ?」
「無理なんかじゃありません。れ、玲くんこそ私を呼ぶ時ちょっとぎこちないですよ? 緊張してます?」
「ああ、してるよ。しないわけがない」
陽菜。そう呼ぼうとしても、緊張で喉がブレーキをかける。まだまだ普通に呼び慣れるには時間がかかりそうだ。
「そうですか……。いつかこの緊張が無くなるように、たくさん呼び合っていきたいものですね」
「そうだな。なぁ……陽菜」
「なんですか、玲くん?」
「いい名前だな。呼んでるだけで幸せな気持ちなるよ」
「ふふ、それはお手頃な幸せですね。ぜひいっぱい呼んで幸せを感じてください。ちなみに呼ばれている私も幸せなので……ぜひ、たくさん、いっぱい、いつなんどきでも」
「ああ、いっぱい呼ぶよ。陽菜のこと、大好きだからな」
名前を呼び合うだけで幸せの無限ループが発生するとは……素晴らしいことだ。
陽菜と呼ぶのも、陽菜に玲と呼ばれるのも……慣れないが、本当に心が温かくなって、幸せな気持ちになる。
「陽菜」
「もうっ、さっきから呼びすぎですよ」
「いっぱい呼んでいいんだろ? 陽菜も俺のこと……呼んでくれよ」
「……玲くんは本当にずるい人ですね」
「ずるくて結構。お構いなくってやつだ」
「あ、それは卑怯です!」
陽菜がむっとした表情を浮かべてポカポカと俺の胸を叩いてくるので、捕まえるように抱きしめる。
一度離れたはずなのに、名前を呼ぶだけで好きという気持ちが溢れて行動に出てしまった。
「れ、玲くん……?」
「最高の誕生日だ」
「まだお祝いはこれからですよ? ご馳走も用意してあるのでちゃんと楽しみにしててください」
本当に俺は幸せ者だ。
腕の中でもぞもぞと動く陽菜の温もりを感じて、改めてそう思った。
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