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ゆららぎ

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 都内でも有数の繁華街。日が暮れても誰も帰路につく気配などなく、酒場に群がるスーツ姿のサラリーマンや制服に身を包み奇抜な色のスイーツを食べ歩く学生、暇を持て余した老人やどこから来たのかもわからない外国人まで、多種多様な人間が入り乱れていた。そんな街の光当たる日常を表とするなら、ここはまさに裏だ。繁華街の至る所からアリの巣のように伸びる薄暗いこの路地は、チンピラや半グレの恐喝や、ホームレスの就寝場所としてよく使われていた。そんな路地の奥で、ハルは目を覚ました。

 ほんのりと月明かりが照らす路地裏に入り込んだひんやりとした風が、ダンボールからはみ出た足に不快感を与える。つい先日までうだるような暑さに寝苦しさを感じていたはずだが、どうやらもう冬が来たらしい。

 狭い路地の奥の少し開けた4畳間程の空間。そこら中に虫が湧き、息が詰まりそうな程に空気の汚いこここそが、彼らの『家』だった。

 ハルは何度か目を擦りながら起き上がると軽く上半身を動かしストレッチの真似事をする。ダンボールを敷いているとはいえ、硬いコンクリートの上で負荷をかけられていた身体には意外とこれが効くのだった。

 端に置いていたボロボロのスニーカーを履き立ち上がると、抜け殻となったダンボール布団が目に入る。どうやら同居人は既に出掛けているようだ。

 ハルは姿勢を低くすると、足元で寝息を立てている少女を揺り起こす。少し時間がかかったが、少女はゆっくりと起き上がった。


「ん……おはよう、ハルお兄ちゃん」


「おう、ユイ。メシ食いに行くぞ」


「あれ?リュウお兄ちゃんは?」


「先にメシ行ったか稼ぎに行ったかだろ。靴もねェし攫われてはねェよ」


 それを聞くと少女、ユイはほっとしたように胸をなで下ろした。

 普通であればランドセルを背負って学校に通っているはずの小柄な体躯。しかしそんな普通とは程遠く、傷んだ髪はぶつ切りに、まとった薄汚い衣服はどことなくサイズが合っていなかった。

 2人は繁華街とは逆の小路へ進み、細長い建物の隙間を通る。蜘蛛の巣をかき分け、ゴキブリを何度か踏み潰し、街の外れの方へと出る。少し繁華街を離れれば、そこは人通りも少ない寂れた住宅街だった。うっすらと街灯が照らす歩道を歩いていると道中数人の一般人とすれ違ったが、スマホや友人との会話に夢中で、薄汚い子供達の方には誰1人として気付かなかった。警察のご厄介になることは避けたいため、ハル達にとってはありがたい話だった。


「今日のご飯、なにかな」


 ふと、ユイが尋ねる。ユイは毎週ここを歩く時、同じことを聞く。


「うどんか豚汁だろうな。こうさみぃと豚汁出してくれるとありがてェんだが……」


「あったかいのだったら、私、あれ食べたい。あの、前食べた茶色いやつ」


「あァ、カレーな。あんなんレアもんだ。ここら辺じゃ滅多に出してくれねェ。何個か隣の街なら結構出てるらしいが……あそこじゃ生きてけねェ」


「なんで?カレーあるのに」


「怖い大人がいっぱいいンだよ。そんなとこで勝手に金稼ぎなんかしてみろ。即さらわれちまう」


 特に脅したつもりはなかったが、それを聞くとユイはずいぶんと萎縮してしまう。その様子を見るとハルは、


「ま、リュウがたくさん稼いでくりゃ、カレー屋行けるだろ。こんなボロっちい客入れてくれるかわかんねえけどな」


 とだけ付け加えた。ユイの表情がさっきより少し明るくなった気がした。

 程なくして2人は歩道沿いの公園にたどり着く。この公園では週に1回、生活支援団体が炊き出しを行っている。メニューも様々で、極稀にカレーが出ることもあった。公園の中心には2人と同様に薄汚い格好をしたホームレスが炊き出しを求めて大勢集まっていたが、ハルやユイのような子供は他におらず、ホームレスの中でも2人は一際目立つ存在だった。しかし。物心ついた頃からこの生活を続けているハルは、ここにいるホームレスの中でも古株のため今更奇異の目で見られることは無かった。逆に、長年この悪環境を共に生き抜いてきたからこそ、おのずとこの街のホームレスとは仲間意識が芽生えていた。どれだけ落ちぶれていようとも、必要な時に協力し合える関係というのはとても貴重だった。ハルはそんなホームレス達の中でも、入り口付近に立っていた馴染みのある顔を見つけると声をかけた。


「よォ、ハヤシさん。今日のメニューは?」


「お、ハルくんにユイちゃん、こんばんは。今日は豚汁みたいだよ。あ、おにぎりはあっちね」


「あァ、わかってる。サンキューな」


 レンズにヒビの入ったメガネをかけ、だらしなく無精髭を生やしているハヤシと呼ばれた男は、温和な笑みを浮かべハル達を歓迎した。ユイもぺこりと頭を下げ挨拶をする。


「今日はリュウくんはいないのかい?」


「ここにいねえってこたァ、どっか稼ぎに行ってるってことだ。ま、腹減りゃそのうち来るだろ」


「まだ子供なのに大変だねえ……。困った事があったら言ってね。僕達もできる限り力になるから」


「これ以上世話にはなんねェよ。今ンとこそれほど困ってねェしな」


 そう言うとハルは軽く会釈して、ユイの手を引き炊き出し会場の方へと向かう。


「やったね、豚汁。あったかいよ」


「残念だったな、カレーじゃなくて」


「ううん。豚汁でも嬉しいよ。みんなと食べれるならなんだっておいしいんだもん」


「……そうか」


 紙製のおわんに豚汁を入れてもらい、隣のスペースでラップに包まれたおにぎりを取る。両の手が塞がってしまったため、どこかに座って食べようと辺りを見回すが、来るのが遅れたためかベンチは全部埋まっており、地面に直接座って食べるしかないようだった。


「お、ハルか!そんなとこ突っ立ってねえでこっち来て座れ!」


 立ち尽くしていると、遠くから叫ぶ声が聞こえる。声が聞こえてきた方を見ると、先程までベンチに座っていたホームレスが席を立ってこっち来い、とジェスチャーしていた。叫び返すのも面倒だったので、ハルはユイを連れ、豚汁をこぼさないよう、ゆっくりとベンチの方へと向かった。


「おうおう、ほら、はよ座れ」


「早いモン勝ちだろ。老人に席譲られるほど落ちぶれちゃいねェよ」


「馬鹿何言ってんだ。お前じゃなくてユイちゃんが可哀想だろうがよ。こんなちっちゃい子地べた座らせてメシ食わすなんかできねえよ」


「チッ……。だってよ、ユイ。座って食え」


「やった。タケおじさん、ありがとう」


「いいっていいって。ほらハルお前も座れ」


「あァ?別に俺にまで譲る必要ねェだろ」


「馬鹿、俺らはもう食い終わるんだよ。あとこれだけしか残ってねえ。ほら、じゃあな」


 そう言って男は一口サイズしか残っていないおにぎりを見せると笑いながら去っていった。他に座っていたホームレス達も食べ終わったのか、口々に「じゃあなーハル」、「来週は遅れんなよー」などと告げ去っていった。


「タイミング、良かったね」


「よくねェよ、アレ見ろ」


 ハルは公園の中心にある時計を指す。


「炊き出し始まンのが7時。今が7時15分くらい。アイツら、俺らが来たの見て早食いしやがったんだよ」


「……!そうなんだ。今度、お礼しなきゃね」


「ンなもんさせてくれねェぞ絶対」


「それでも、しなきゃ」


 2人は黙々と食べ始める。豚汁の熱が冷えた身体を内側からじんわりと温め、一口飲むと思わずため息が溢れてしまう。寒い時期の豚汁はいつもとは違う多幸感があって更においしさが際立つ。おにぎりは普通の塩おにぎりだったが、シンプルが故に豚汁とよく合っていた。


「……あったかいね」


「……あァ、そうだな」


 ハルはこの生活を不自由や不平等だとは思っていなかった。社会の表層で人々は、学校で学び、友達と映画に行ったり、ゲームセンターに行き、真っ当な仕事で金を稼ぎ、綺麗な服を買い、丈夫な家で、温かいベッドの上で何の心配もなく眠る。昔こそ腹いっぱい食べることを夢見ていたが、今はそれを羨ましいとは思わなかったし、特に憧れもなかった。ここにいるホームレスはそのほとんどが一般社会から転落してきた者達なため、ハルのような考えは珍しかった。未だにコンクリートの上で寝るのを躊躇ったり、自分をホームレスだと認めたくない奴だっている。しかしこの街のアンダーグラウンドの住民はそんな奴らにさえも手を差し伸べる。いつだって持ちつ持たれつの関係なのだ。ほとんどの一般人は人間関係や将来のこととか、そんな些細なことで悩むらしいが、くだらないしがらみの無いここでの暮らしの方が、ハルにとっては十分生きやすいように思える。


「ごちそうさまでした」


 ユイは満足そうに、ハルを見て言った。 


 


 ゴミを捨て、公園の入り口に近付いたあたりで、外から公園内を覗く人影に気付いた。

 小綺麗な衣服を身にまとった女で、整った顔に化粧を施し、ホームレスだらけの公園の空気に似つかわしくない存在感を放っていた。


「あ、いたいた。久しぶりだね、ハル。ユイちゃんも久しぶり。元気してた?」


「わ、リカお姉ちゃんだ。その服、すごく可愛い」


 リカと呼ばれた少女は公園に入ってくるなりハル達の元へ駆け寄ってきた。リカも元々は、ハル達と共に暮らしていたホームレスだった。1年程前にあの4畳間の路地裏を抜け、今ではどうやらちゃんとした暮らしをしているようだった。


「でしょでしょー?大丈夫、ユイちゃんもその内着れるようになるから」


 リカは得意げにそう言うと、くるっと1回転してユイに洋服を見せた。


「オイ。コイツがどう生きるかはコイツ自身が決めることだクソビッチ。勝手にそそのかしてンじゃねェよ」


「いやいや、そういう道もあるって知っとくべきでしょ。女は覚悟決めれば若い内ならいつでもホームレスなんてやめれるんだし」


 リカは少し鬱陶しそうにハルをあしらう。その飄々ひょうひょうとした態度に、ハルのイライラは増す一方だった。


「テメーはホテル暮らしだろが。俺らみてェな身分証明できねェガキは一生ホームレスから抜け出せねェだろ」


「いや、ケーサツのとこいったらすぐに保護してもらえるじゃん」


「結局施設送りになるだけだろ。下手すりゃコイツともリュウとも会えねェ。それじゃまるで生きてる意味ねェだろが」


「私も、ハルお兄ちゃんとリュウお兄ちゃんと一緒がいい」


「変わらないねーその頑固なとこ。こんな生活の何がいいんだか」


 リカは嘆息する。

 別れてからしばらく会っていなかったが、ハルもユイも全く変わっていなかった。自分は、こんなにも変わったというのに。

 リカは援交によって得た金でホームレスを辞めた。法で守られた未成年の身体には、1人で贅沢な生活をできるだけの値打ちがあるようで、それはたとえホームレスの少女であっても例外ではなかった。


「で、何しに来たんだテメー」


「いや、顔見にきただけだよほんとに。リュウのやつもいないみたいだし、もう帰るつもり。あ、そうだ。ユイちゃんにあげるものあるんだった」


 そう言ってリカは高級そうなカバンから何か取り出した。パステルピンクの輪っかのようなものだった。


「ンだこれ」


「シュシュだよ。ユイちゃんも女の子なんだからオシャレしなくちゃ。髪伸びるまでは手首につけてたら可愛いよ」


 そう言ってリカは手に持ったシュシュをユイの手首に通す。


「ありがとう、リカお姉ちゃん。すごく可愛い」


「うんうん、どういたしまして。じゃ、元気でね。リュウにもよろしく言っといて」


 リカは手を振るとそのまま振り向き公園を去っていった。


「チッ……。結局アイツも抜け切ってねェじゃねェかよ。妹想いかァ?」


「うん、優しいね。リカお姉ちゃん」


 2人は公園でしばらくリュウを待ってみたが、どうやら現れる気配はなさそうだった。残っていた数人のホームレスに別れを告げ、2人も公園を後にする。




「……やっぱり稼げるのかな、援交って」


 おもむろにユイが口を開く。

 まだ年端もいかない子供の口から『援交』という言葉が飛び出るのは、常識的に考えてありえないことだが、こうした生活をしているとそう不思議でもない。ユイもアンダーグラウンドの住人としてある程度のことは理解していた。そして、元同居人のリカの存在も大きかった。


「あのクソビッチ見てりゃわかンだろ。そこらへんのリーマンの平均月収は普通に超えンぞ」


「私も援交したら……ハルお兄ちゃんとリュウお兄ちゃんと、もっとユーフクに暮らせるのかな」


「この生活は嫌か?」


「ううん、そうじゃないの。でも、お金がないと服も買えないし水だって買えないでしょ?それに、これ以上寒くなったら……ほんとに死んじゃうかも」


「これ以上寒くなることなんかあンのか?」


「うん、だってまだ秋だもん」


「オイオイ、嘘だろ……」


 ただでさえ毎年冬は命がけだというのに今年は更に寒くなると言うのか。ハルは1周遅れで危機感を覚える。直ちにリュウと相談して対策を練る必要があった。


「だがこれは俺とリュウの問題だ。お前が裕福な生活を望むならあのクソビッチみたく好きにしろ。俺とリュウはその恩恵は受けねェ」


「……!どうして?だって、みんなで一緒にもっと良い生活が出来たら──」


「教えといてやる、ユイ。確かに援交は稼げる、めちゃくちゃな。けどなァ、どんな儲け話にもリスクはあンだよ。どんな男とヤろうが性病感染うつされるリスクは十二分にある。保険証なんて当然ねェから稼いだ金が病院代に消える。これじゃ意味ねェだろ?ガキ孕んじまったらどうする?堕ろすのだって相当金かかンだろ。自分はまだ大丈夫だと思ってるかもしンねェがお前だっていつ生理来てもおかしくねェだろ。フーゾクで雇われてるならそこらへんのリスク管理はできてンのかもしれねェけどお前は未成年どころか普通だったら小学生のガキだ。それにこれは援交に限らねェ。美味い話の裏には馬鹿デケェリスクがあンだよ、よォく覚えとけ」


 ハルは強い口調で捲し立てる。一気にここまで言うと、ユイは完全に押し黙ってしまった。


「それだけデケェリスク背負ってもやるってンなら別に止めなんかしねェよ。だがそれだけリスク冒してる奴の恩恵を、俺やリュウが無償で受けるってのはズリィだろ。俺らは年下のガキに養ってもらうような生き方はしたくねェ。第一、俺とリュウは生きることさえ出来るなら今の生活に満足してンだ。寒さのことだってハヤシさん達と知恵絞りゃあなんとかなンだろ」


「じゃあ、援交するなら『家』から出て行けってこと?」


「いや、そうは言ってねェよ。お前が『家』にいたいならいればいい。俺達おれらはお前の稼いだ金は使わねェってだけだ。あのクソビッチは元々ここの生活に満足してなかったからな。だから出て行ったンだよ」


 人通りも少なくなった歩道。街灯に照らされたユイの表情は、傍目から見てもわかるほどに複雑そうだった。しばらくの沈黙の後、ユイは、


「……もう少しだけ考えてみる」


 と、消え入るような声で呟いた。




 『家』に繋がる路地に入ろうとすると、ふと奥から聞こえる声に気付く。どうやら複数人が何か怒鳴っているようだった。


「リュウの声……じゃねェな」


「酔っ払いの人かな」


 狭い小路を奥へと進むと、だんだんと声の内容がはっきりしてくる。野太い声で怒鳴りながら、誰かに暴行を加えている様子だった。


「ホームレスごときがイキがってんじゃねえぞコラァ!」


「どうします?このガキ攫っちゃった方が早くないすか?」


「こんな奴攫う意味ねえよ。ただのストレス発散だろ」


 声の主は3人。どれも男だ。喋り方や内容からまだ若さを感じられる。どうやら金目当てのようだ。いわゆる『ホームレス狩り』というものなのだろうか。


「これは……リュウが恐喝されてるっぽいな。いや、めちゃめちゃボコられてるっぽいし恐喝じゃねェか。ユイ、ここで待ってろ。なんかあったら腹から声出せ、わかったな?」


「うん、わかったよ」


 その場にユイを残して、ハルは奥へと進む。数十秒程歩いて『家』にたどり着くと、ハルと同じくらいの背丈の少年が、3人のチンピラに暴行を受けている光景が目に入ってきた。チンピラ達もハルに気が付くと、少しの間その場の時が止まった。沈黙の間、ハルとチンピラ達は互いに睨み合い、冷たい空気を温めていた。


「テメェら、ここで何やってやがンだ?あァ?」


「コイツも見た感じホームレスっすよ。シメます?」


 チンピラの1人がそう言った途端、ハルが素早くそいつの首根っこを掴み持ち上げる。


「……ッ!?」


「誰が誰をシメるってんだ?オイ?」


「おい、てめえ、俺らが誰かよくわかってねえだろ、教えてやるよ」


 図体のデカいリーダー格の男が傲岸不遜な態度で言う。


「『新宿邑凰会ゆうおうかい』って言やあわかるか?俺らそこの人に良くしてもらっててなあ……。俺らとケンカするってことがどんだけヤバいかってなあわかるよなあ?」


「あァ……アイツらか。だったら言っといてくれ。テメェらのせいでカレーが食えねェ奴がいるってなァ!」


「カレーだ?こいつブリってんのか?」


「もういい。こいつ殺すぞ」


 リーダー格の男がもう1人の男にそう言うと、同時に殴りかかろうと突っ込んでくる。ハルは片手に持っていたチンピラを放り投げ2人にぶつけ、よろめいた隙にリーダー格の男の脇腹に素早く拳を叩きつけた。


「ホームレスより弱ェたあ、話になンねェなァ!」


 残ったチンピラ2人の髪を掴み、思いきり地面に叩きつける。そのままハルは2つの頭の上に飛び乗り、体勢を立て直そうとするリーダー格の男の下顎めがけて拳を撃った。男は白目を剥いて倒れ、ピクピクと痙攣した後動かなくなった。


「オイ、リュウ、生きてンのか?」


「生きてるよ……。クソっ、痛ってえ……」


 リュウは何かを守るようにうつ伏せになっており、痛みに悶えながらもなんとか声を張り上げる。


「動けンならコイツら捨てンの手伝え。無理なら寝てろ」


「悪ぃ……無理……」


「チッ……。先にこのデカいのからにするか」


 そう言ってハルは男を持ち上げると、


「オイ!もう来ていいぞ」


 と路地の奥に向かって叫んだ。


「わ……リュウお兄ちゃん、こっぴどくやられちゃったね」


『家』に入ってきたユイは満身創痍のリュウを見るなり酷く心配した様子で駆け寄った。




 ハルがチンピラ3人組を外に捨てて帰ってくると、『家』の中心でリュウとユイが見知らぬカバンを囲んでいた。リュウは先程のダメージが酷いのか、顔に疲労の表情が浮かんでいる。


「お、帰ってきたか。ほらこれ見ろよ、今日の収穫だぜ」


「どっから盗ってきた。さっきのヤツらと関係あンのか?」


「いや、あいつらは関係ねえよ、どうせただのホームレス狩りだし……。これは向こうの飲み屋街で酔い潰れてたリーマンのだ」


 服も身体もボロボロになのに顔を輝かせるリュウ。それを聞くとハルは即座にカバンの中を漁る。どうやら位置情報を特定できるような電子機器は入っていないようだった。


「オイ、見られたりしてねェだろうな」


「そんなヘマしねえよ。防カメだって上手く避けて帰ってきたんだぜ?そしたら運悪くあいつらがいてよ……。俺はこれ守るのに必死だったんだからな?」


「最近は私人逮捕なンてのも流行ってるって聞く。それにまだ9時位のはずだ、酔い潰れるには早くねェか?」


「考えすぎだって。あれはガチで酔い潰れてたね、俺が保証する」


「それより、財布にいくら入ってるか見ようよ。もしかしたら温かい布団が買えるかも……」


 ユイの言葉に2人は顔を見合わせた。ハルはカバンの中から長財布を取り出し、中身を確認する。財布の中には1万円札が6枚、千円札が4枚、そして小銭がいくらか入っていた。


「わ……これが1万円札……初めて見た」


「俺だって初めて見た……しかもこれが6枚もあるんだぜ?秋冬の間ネカフェ生活できるんじゃないか?」


「さすがに足りねェだろ。それに明らか未成年のユイが入れねェ」


「で、でも、布団なら買えるよ!」


 初めて手にする大金にはしゃぐユイとリュウ。確かにこの額なら安い布団を3人分買ってもお釣りがくる。それを衣服や入浴代に使えると考えれば、リスクを冒したとしてもこの収穫は大きいものだった。しかしハルが真っ先に思い浮かんだのは、そのどれでも無かった。


「決まりだな。これで布団を買う。だがまずは……」


 ハルはユイの方を見てニヤリと笑う。


「ユイ、明日のメシはカレーだ」




 繁華街の喧騒も静まる深夜。『家』でははしゃぎ疲れて寝てしまったユイの寝息が静かに音を立てていた。その音をかき消すかのようにリュウがガサガサと置き引きしたカバンを再度漁り始める。


「お、見ろよハル。こいつタバコ持ってるぜ。ライターもある。どうだ?」


 そう言ってリュウはカートンを開け、ハルの方へ差し出す。


「いらねェ。吸いたきゃ勝手に吸え」


「えー、昔一緒に吸ったじゃんかよー」


「そん時にハマらなかったンだよ」


 もう何年も前、2人が今のユイより少し上の年齢だった頃。道に落ちていたカートンの中に1本だけ入っていたタバコを、公園のハヤシさんに貸してもらったライターで火をつけて2人で回して吸った。その時にハルは煙が肺の中に入り込む感覚が苦手になり、それ以来吸える機会があっても遠慮してきた。どうやらリュウはハマったようで、あれ以来もいくらか吸っているようだった。


「ユイちゃん、めっちゃ喜んでたな。やっぱ子供はカレー好きなのかな」


 タバコを咥え、火をつけようとカチカチライターを鳴らしながらリュウが言う。


「俺らだってガキだろうが。ユイ位の時は毎日カレー食いたいってごねてた」


「はは。懐かしいな。リカにいつも怒られてた。いっぱい稼いだらいくらでも食えるだろ、って」


 咥えたタバコを吹かしながら、リュウは遠い目をして微笑む。ハルも思わずニヤけてしまう。

 もう何年もこんな暮らしを続ける中で、いつの日かカレーを諦めた自分達がいた。あれはレアもんだと、毎日カレーを食べられない日常に満足してしまった。おそらくリカは、そんな日常が不満だったから、1人で生きていくことを選んだのだろう。


「そういえば、リカに会ったぞ」


「え、マジで……?やっぱ変わってたか?」


「そりゃ変わるだろ。その内戸籍も得るンだろうな。俺らよりずっと先を行ってやがる」


「先、か。俺は人生に前も後ろも無いと思うけどな。自分が満足できてるか、できてないかだろ。それともハルはリカのこと羨ましいとか思ったのか?」


「いやねェな。たとえ金が欲しくとも誰かに媚びるようなやり方だけはしねェよ」


 ハルは吐き捨てるように言うと、目の前を飛んでいたハエを握り潰す。


「まあハルならそうだろうな。だったらハルは現状に満足してんだよ。俺がいて、ユイちゃんがいて、みんなと助け合って生きていく人生に」


「チッ……。やっぱお前の方が年上だな。何大人ぶってンだクソ野郎」


「いやいや背伸びるのとか声変わりとかハルの方が早かったじゃんかよ」


「うるせェ。今日からお前が大黒柱だ」


「こんな弱っちい俺が?勘弁してくれよ……」


 ほんのりと月明かりが照らす『家』で、2人は静かに笑い合った。物心ついた頃からの自分達を振り返ってみれば、やはりここが『家』なのだと再認識する。アンダーグラウンドこそが、自分達の唯一の居場所だった。


「ユイの手首についてるヤツ、クソビッチが寄越しやがったンだ」


「なんだよ、結局リカもまだ家族意識あるんじゃんか」


「どォだかな……」


「そうじゃなかったらわざわざ顔見せに来たりユイちゃんにプレゼントなんてしねーだろ」


「そのせいでユイが援交に興味持ちやがった。それも俺らのためだとよ」


 リュウは初め驚いた表情を見せたが、何度かタバコを吹かした後、寂しそうな顔になった。


「で、なんて言ったんだ?」


「その金は自分のために使えってな。やるかどうかはまだ悩むつもりらしいが……」


「ユイちゃん、やっぱ今の生活に満足してないってことか。確かに女の子にはキツいよなーこの日常」


「いや違ェ。コイツはどうやら、みんなでユーフクに暮らしたいらしい」


 それを聞くとリュウは吸っていたタバコを落とし酷く咳き込んだ。ダンボールに引火しないよう、ハルは即座にそれを踏み潰し火を消した。


「ゲホッゲホッ……いや、壮大すぎるだろその願望。あーあ、1本無駄にしちゃったよ」


「ユイのせいにすンじゃねェ」


「別にしてねえよ……。はは……みんなでユーフクに、か。良いなそれ」


「そォか?どう考えても無理な理想論だろ」


「そう言ってる内は絶対無理なんだよ。でもユイちゃんは身体売ってでもそうしたいと思ってる。頭ごなしに否定するよりずっと立派だろ?」


 そう言われてみると、ハルはなんだか自分が浅はかな人間に思えてきた。カレーを食べることを諦め、この生活で満足していると納得し、今ではユイの願いすら否定する。自分は正しいのだろうか。親すらいないハルにはこんな時、指針となる人間が今まで周りに誰1人としていなかった。このアンダーグラウンドにおいて正義とは常に無価値だった。ハルは押し黙り、正解のわからない自分にイライラが募る。


「チッ……。今はいいんだンなこと。明日のカレー楽しみにしてりゃそれでいいンだ……」


 そう言ってハルはダンボールの布団に潜り込む。


「お前は……ユイの願いを叶えるべきだと思うのか?」


 しばらく考えた後、リュウはゆっくりと口を開く。


「うん。たとえユイちゃんがリスクを背負うことになっても……ユイちゃんが納得してるなら、そうするのがいいと思う」


「ならそれでいい。お前が大黒柱だ」


 ダンボールの布団の中でハルは、昔はもっと暖かかったことを思い出した。





「ハルお兄ちゃん、起きて。カレー、食べに行こ」


 ハルが眠れたのは結局日が昇ってからだった。何度も目を擦りながら起き上がると、辺りは暗くなっており、昨日と同じくらいの時間の起床だった。


「よ、おはよ」


 昨日と違い今日はリュウもおり、すぐに寝たためか早起きしたユイも準備万端のようだった。


「オイ、財布の中の金以外は全部捨ててから行くぞ。あとカバンの中のいらねェもんも一緒に捨てる」


「わかった。川だよね」


「あァ」


 ハル達は置き引きしたカバンを持って『家』を後にしようとする。すると突然、4畳間程のスペースを見渡し、ユイが立ち止まった。


「行ってきます」


「どうしたんだよ急に」


「なんか、言ってみたいなって思って」


「言われてみれば、『家』なのに言ったことなかったな。……行ってきます」


 路地を抜け、昨日と同様に住宅街の歩道を歩く。目的地の川は公園とは逆方向にあった。ユイは久しぶりのカレーに心躍っているのか、ずっとスキップしていた。普段なら目立ってしまうためやめさせるが、今日だけはハルもリュウも何も言わなかった。


「ね、リュウお兄ちゃんも楽しみ?カレー」


 川が見えてきたあたりでユイが尋ねる。その目はいつになくキラキラと輝いていた。


「そりゃ滅多に食えないんだから楽しみだよ。もしかしたら1週間くらいなら毎日カレー食べれるぜ」


「ハルお兄ちゃんは?」


「あァ?毎日カレーだろ?ンなもん──」


「みーつけた」


 ハルの言葉は、背後から投げかけられた言葉に遮られる。振り返ると、スーツに身をまとい、髪を上げオールバックにした大男が立っていた。身長はおそらく2メートル程。指や首にはゴツゴツとした金銀のアクセサリーがまとわれている。その男の背後には10人ほどの男達が鉄パイプやらバールやら、各々が武器を片手に持っていた。

 ハルは、全身がビリビリと痺れるような感覚になり、総毛立つのを感じ取った。


「おい、リュウ。ユイ連れて行け。死ぬ気で走れ」


「でも、待ってハルお──」


「ぜってェユイにカレー食わせろ」


 リュウは言われるがまますぐにユイの手を引き、ハルに言われたまま全速力で駆けていく。ユイの「待って」の声がどんどん遠くなると同時に、ハルの心はは安心感で満たされていく。


「かっこいいねえ……。立派なお兄ちゃんじゃねえか」


「テメェら、ナニモンだ?」


 ハルが尋ねると、オールバックの大男は口を大きく開けニヤリと笑う。


「昨日テメーがボコしたチンピラ連中、覚えてっか?」


「あァ。チッ……。てことは新宿のヤクザか、アンタら」


邑凰会ゆうおうかいだ。よく覚えとけ」


 男の眼光がギラリと光る。対するハルはなるべく挑発しないよう、まっすぐ男の顔を見上げていた。相手が充分に殺気立ってるのはわかるが、変に刺激しなければまだなんとか切り抜けられるかもしれない。


「で、ヤーさんが俺に何の用だ?まさかあのチンピラ共、本当にアンタの舎弟かなんかか?」


「そうなんだよ……。あんな奴らでも俺の可愛い可愛い後輩なんだ。あいつらが勝手に好き勝手やったってのは知ってる。でもまぁ……なんだ。今回は運が悪かったと思って──」


 ハルは身構えた。今ここで死ぬわけにはいかなかった。絶対に。


「──死んでくれや」




「待って!リュウお兄ちゃん!離して!」


 ユイの耳をつん裂くような叫び声が響き渡る。それでもリュウは走ることをやめなかった。エンカウントしたあの一瞬で、ヤツはヤクザだと確信した。アンダーグラウンドを生きるための常識ともいえるルール。それはヤクザを敵に回さないことだ。関わりを持たないのが1番良いが、長年アングラ生活をしていると関わらない方が難しい。とはいえ、あんなチンピラのためにヤクザが動くわけがないと高を括っていた。実際今までもヤクザとの繋がりを匂わせていたヤンキーやチンピラをハルは何度だってボコボコにしていた。『家』を、家族を、守るために。

 リュウとユイは繁華街へと出た。万が一追っ手が来たとしても、この人混みの中荒事は起こしにくい。リュウは必死に辺りを見回してカレー屋を探す。


「ねえ、リュウお兄ちゃん、ハルお兄ちゃんを待とうよ!絶対……絶対ハルお兄ちゃんも一緒がいい!」


「ユイちゃん……これから1週間は毎日カレーでも大丈夫って言っただろ?アイツは今日は食えないけど、明日は一緒だから……だから……あっ!」


 リュウの目がカレーの文字を捉えた。たまに落ちているチラシなどで見かけるチェーン店のようだ。リュウはユイの手を引き店へと向かう。しかし、


「君たち、ちょっといいかな」


 トントン、と肩を叩かれ呼び止められる。振り返ると、そこには青い制服に身を包んだ警察の姿があった。

 リュウの顔が強張る。今まで警察は上手く避けてきた。声をかけられるのだって初めてだ。上手く誤魔化さないと、『保護』されてしまう。


「親御さんは?君たち2人だけ?」


「あの、俺ら急いでるんで……」


「昨日この付近であった盗難事件について捜査してるんだけど」


 リュウの顔から一気に血の気が引いた。リュウが持っている置き引きした財布には持ち主の免許証や保険証などが入ったままだ。見られれば即バレる上、戸籍がないホームレスだとわかれば施設送りになる。

 昨日の暴行もあり、リュウの身体は既に限界が来ていた。しかし最後の力を振り絞り、足にグッと力を入れる。これほどの繁華街であればカレー屋なんて他にすぐ見つかるはずだ。

 リュウは警察を思いきり押しのけると、ユイの手を引き駆け出した。人混みをかき分け、全身の痛みも忘れ、ただひたすらに走──


「はいストップストップ。あーはい、被疑者確保しました。未成年ぽいです。はい、一応こっち来てください、はい、よろしくお願いします」


 正面から別の警察官に肩を掴まれ、完全に包囲される形となる。たまたま声をかけられたのではなく、繁華街に入った時点で完全にマークされていた。リュウは置き引きした時点で十分に用心していた。防犯カメラも極力避けて『家』まで帰ったし、あの酔っ払いも完全に寝ていたはずだ。リュウは力尽きてその場にばたりと倒れ込んだ。ボロボロのズボンのポケットからするりと盗んだ財布がこぼれ落ち、それを見た警察はすかさずそれを拾い中身を確認する。


「財布だけありました。はい、おそらく被害者の物だと思います。一旦財布だけでもそっち届けますね」


「全部……俺1人でやった。この子は……ユイちゃんは関係ない……」


「大丈夫大丈夫。後で全部聞くから。とりあえず立てる?そこに交番あるから一旦そこまで行こっか」


 リュウは2人の警官に支えられ、交番の方へと移動させられる。横目でユイを見ると、同じように警官に肩を掴まれ歩かされていた。

 ユイは静かに泣いていた。




 ひんやりとした風が肌を刺す。冬なんて比にならないほどの寒さだった。それでも全身が震えないのは、頭部に感じる生温かさのせいなのか、そもそも震えるほどの体力が残っていないのか。

 今頃2人はカレーを食べている頃だろうか。ユイは悲しんでいないだろうか。泣いていないだろうか。結局、自分はこの人生に満足していたのだろうか。

 ついに視界から光が消えようとする頃、ふとユイとリュウの声が聞こえてきた。


 ね、リュウお兄ちゃんも楽しみ?カレー


 そりゃ滅多に食えないんだから楽しみだよ。もしかしたら1週間くらいなら毎日カレー食べれるぜ


 あぁ。簡単なことだ。満足なんてしているわけがない。みんなと助け合うこの日常が、家族と過ごせるこの日常が1番良いと信じて、自分を無理矢理納得させていただけだった。

 全てに気付いた時、ユイが耳元で囁いた。


 ハルお兄ちゃんは?


 あァ?毎日カレーだろ?ンなもん──


「最ッ高に満足な人生だろ」

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family ゆららぎ @yuraragi

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