第五十三話(続・暴風雨ガール完結)

 翌日の葬儀は、生駒市内にある有希子の実家で行われた。


 奈良県警の要職を務めた人物の娘のものとは思えないほどひっそりとしていたのは、癌の末期から死に至った者のやせ細った姿を他人に見せたくないという親族の計らいによって密葬としたからであった。


 実家の敷地に入るまでは、ここで葬儀が行われていることが分からないくらいで、十数メートルほどの石畳を歩くと母屋の玄関になり、その手前に机ひとつだけの形ばかりの受付があった。


 香典を手渡した相手は、有希子との結婚式の時に会ったことがある父方の親戚筋の人であったが、彼は私の姿を見ると視線を外し、言葉もかけずに式が行われる部屋を手だけで案内をした。


 部屋に入ると、ちょうど僧侶の読経が始まったばかりで、私は最も手前の隅の座布団に正座をして手を合わせた。

 前の方には有希子の両親が座っていたが、全員で十数名だけの神妙な雰囲気の寂しい葬儀であった。


 読経を聴きながら、私は有希子と最後に会ったのはいつだっただろうと考えてみた。


 確か昨年七月の下旬に有希子から電話があって、昔ふたりでよく飲みに行った馬酔木というバーのマスターが亡くなったと聞き、その数日後の土曜日、ふたりで大阪府高槻市内にある彼の姉宅へ弔問に訪れたのが最後だったはずだ。


 あの時の有希子は、その数か月前に会った時に比べてずいぶんとやせ細っていた。

 それを彼女に言うと、「最近は奈良公園の方へよく散歩に行くのよ。若草山にも登ったりするから」と楽しそうに言っていた。


 有希子は言わなかったが、おそらく癌の転移が確認されて、それが一気に悪化したとしか考えられなかった。


 昨年七月のある夜、徳島の関さんから電話をもらったあと、安曇野で飲んだアルコールが体内の隅々まで染み渡って、天井が高速でグルグルと回り、そのまま眠ってしまったことがあった。


 しばらくして不意に誰かが私の頬を撫ぜ、目を開けてみると有希子の顔があった。

 その時の有希子はベッド脇に立って、悲しげな表情で見おろしながら、手の甲で私の頬を撫ぜ続けていた。


「いつ入って来たんだ、有希子」と私は訊いたが、彼女は黙ってジッと私を見つめているだけだった。

 長い長い沈黙のあと、見上げる私の目とつながった有希子の目から涙の雫が落ちた。一滴・・・二滴・・・そして三滴。


「光一、私はもうあなたの手の届かないところへ行くわ。本当にサヨナラね」と、その時有希子は呟いた。


 あれは夢だったのだが、その夢の中で有希子は今日のこのことを示唆していたのだ。

 淡々とした読経の声が空しく響く部屋の片隅で、私は流れ出る涙を喪服の袖で拭いながら静かに泣いた。


 そのあとの元義父母との言葉のやり取りははっきり覚えていない。

 有希子が九月に癌の転移が認められ、すでに手遅れの状態になっていたという義父母の説明を、私は夢の中で誰かが呟いているような感覚で受けとめていた。


 おそらく離婚届の筆跡は有希子本人のものではなかったのだ。

 あの時、おかしいと思ったのだが、仕事の忙しさに負けて病院を訪れなかったことが悔やまれた。

 だが、有希子がこの世に居なくなってしまった今となっては、そんなことはどうでもよかった。


 なぜあなた方は私にもっと早く知らせてくれなかったのだ。

 その憤慨の念だけが、こころの底から頭の上の方へと噴き上がっていくような感覚があったが、辛うじて怒りを抑えた。


 読経のあとそれぞれが線香をあげ、そのあと火葬場へ運ぶ前の最後のお別れとなって、ようやく私は棺の中に眠る有希子と会えた。

 

 有希子は幾分顔が細くなっていたが、七月の時とほとんど変わらない顔色のようにも思え、今にも目を明けて「光一、来てくれてありがとう」と言いそうだった。

 私は流れ出る涙を止められず、何滴かの涙が棺の中に落ちた。


 お別れが済んで車数台で火葬場に向かった。

 私は父方の親戚の車の後部座席に乗せてもらって同行した。

 生駒市の市営の火葬場は、市街地から少し外れた小さな山の麓に所在していた。

 こんなところで有希子は焼かれてしまうのだ。


 淡々と流れる儀式の中で、私は深い悲しみと大きな怒りとが交叉していて、何かの拍子に大声を上げて破裂しそうだった。


「何故、有希子の意識があるうちに連絡をしてくれなかったのだ!」


「何故、金融業を破綻しただけで、あなたたちは私たち夫婦の別居を強要したのだ!」


 義父母への私の怒りは頂点に達しそうになり、もはや自分の気持ちを抑える自信がなくなってしまった。


 火葬場に棺を運んだあと、「もうここまでで限界です。頼みますからお墓の所在くらいは必ず連絡をください」と言い残して火葬場をあとにした。


 有希子が炎の中で一気に焼かれてしまうのを外で待つことなんて、私の精神力では耐えられなかったのだ。


 近鉄線で鶴橋駅まで出て、大阪環状線に乗り換える前に真鈴のスマホに電話をかけてみた。

 彼女は何かを予知したかのようにスリーコールで電話に出た。


「何してるんだ?」


「英語のリーダーを軽く読んでいたところよ。光一、声が震えてるよ。どうしたの?」


「今日は僕が暴風雨だ。助けてほしい」


「分かったわ。どこに行けばいいの?」


「真鈴が僕を捕まえた京阪の京橋駅の改札口あたりはどうかな?」


「すぐ行く。光一、泣かないで」


「泣いてなんかいないよ。じゃ、ずっと待ってるから」


 真鈴は何も訊かなかった。


 人はいくら強くても、誰かにそばにいて欲しい時が必ずある。

 そしてその誰かは、その先の人生で大きく関わっていく人であれば、弱気なこころも蘇生するものなのだ。


 私は電話を切ったあと、こころの中の奥の方にかすかな光を感じた。

 その光は有希子の笑顔にも見えたし、真鈴のひたむきな表情にも思えるのであった。



 続・暴風雨ガール -了-


 続編はタイトルを変更して近々再開します。

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続・暴風雨ガール 藤井弘司 @pero1107

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