第五十二話

 年も押し迫ってきた十二月半ばになって。ようやくL社から回答が来た。

 示談金はきっかり五百万円だった。


 大手企業にしては、まるでドンブリ勘定のようなこの金額について、会社側が誠意を示した額になるのか、或いはこういったケースでは少なすぎるのか、私にはよく分からなかった。


 前の商売で付き合いのあった右翼団体の幹部を通じて、その筋から交渉を依頼すると、もっと多額の示談金を引き出せるのかも知れないが、裏交渉術なんてもののマニュアルがあるはずもなく、この金額で妥協するしかなかった。


 示談は裁判などの法的介在がないのだから、あまりの要求を続けていると「ゆすり」になるかも知れないし、相手に居直られて交渉拒否をされると、今度は一から法的手続きを始めるしかないのだ。


 当初の提示金額からかなりの増額回答をしてきたのだから、律子さんの両親や家族の了解を得て、示談書の作成のためL社を訪れた。


 律子さんは同行したいと言って譲らず、当人の家族を最後の席に連れていくのもよいかも知れないと思って、事務所は空になってしまうが了解した。


「いろいろありがとう。岡田さんに相談してよかった」


 律ちゃんはL社へ向かう車の中で礼を言った。


 でも私自身は何の精神的負荷もなかったし、この件で考え込んだこともなかった。

 結果的に破たんした前の金融業でも、現在の探偵調査業でも、私は難しい対応を積み重ねてきたこともあって、かなり強靭な精神力が自然に身についていたようであった。


 しかし今回の交渉を客観的に振り返ってみると、ゆすりにあたる言動にさえ注意していれば、あとは突進するのみだったので、ある意味子供騙しみたいなものだった。


 だがまあ、L社がよく私のようなどこの馬の骨か分からない人間をまともに相手したものだと、物事は実際に対峙してみないと分からないものだと妙に納得するのであった。


 L社を訪れると、前回と同じ部屋に案内され、すでに岡山部長など三人が待っていた。


「そちらのお嬢様は?」


「はい、前に申し上げた川上君の妹さんです」


「岡田様のご婚約者とおっしゃっていた川上君の妹さんですか。これはどうも、この度はいろいろとご迷惑をおかけしまして申し訳ありませんでした」


「はあ、いえ、こちらのほうこそ、いろいろとありがとうございました」


 岡山部長の言葉に律子さんは慌てていた。このような場にまだ二十歳半ばの女の子が戸惑うのも無理はなかった。


 示談書は二部作成し、一部ずつ保管する。金額の五百万円は一週間以内には全額が振り込まれる段取りとなっている。


 示談書には今後双方ともに無関係とすることを謳う。

 これらのことを岡山部長は説明し、隣の顧問弁護士があらかじめ作成していた書類を差し出した。


 書類は川上洋一当事者と、その代理人として私の署名捺印箇所も作られていて、律子さんの家族の示談書に一筆関わったことになる。


 もしかすればL社の財務諸表にはこの示談金は何の関係もなく、同社の裏帳簿の隠し金による簡単な処理だったのかも知れないが、そんなことはどうでもよく、私は素直にホッとした。


 帰りに上本町にある公証人役場を訪れ、示談書に確定日付を打ってもらい、それを律子さんに渡した。


「岡田さん、ありがとう。やっぱり岡田さんって凄い」


 律子さんは瞳をクルクル回して礼を言った。


「律ちゃん、僕なんて凄くも何ともないよ。君はまだ若すぎるからそんな勘違いをするんだ」と、口には出さずにこころの中で恥ずかしく思った。


「今日は私このまま帰るの?」


 車を塚本へ向かわせようとした辺りで律子さんが不満そうに言った。

 まだ午後四時を少し過ぎた時刻だった。


「大切な書類を家の中のキチンとした場所へ保管しておかないといけないだろ。だから事務所には寄らずに送って行くよ。バイト料は一日分出すから心配しないで」


「心配なんかしていないけど、律子と食事もしてくれないの?」


「律ちゃん、ごめんな。お兄さんのことが一応終わったから、律ちゃんと乾杯したい気持ちはあるんだよ。でもね、ちょっと今考えないといけないことがいろいろとあってね、今夜は駄目なんだ」


「何かあったの?」


 私は今回のことで律子さんの家族の事情を知り、少し入り込んだことになる。

 だからこちらの個人的な問題を話してもいいかなと思ったりもしたが、今日はそういう気持ちにはならなかった。


 届いていた離婚届に署名捺印をして、数日前に有希子の実家に送ったことで離婚は決定したが、彼女はずっと入院しているようで、時間を作って病院を訪れようと思うが、なかなか行けないでいる。


 離婚してしまえば気持ちも切り替わると思っていたが、書類を送り返す前に有希子と離婚届けの件で確認をしておくべきだったと少し後悔するのであった。


「オトナには考えないといけないことがたくさんあるんだよ。普段ヘラヘラと探偵なんかやってるけど、大変なんだ」


「私、もうオトナだよ。事務所もお手伝いしているし、話してくれたっていいじゃないですか」


 律子さんは不服そうな表情で、いつものように丁寧語とため口を混ぜて言った。


「お兄さんの交渉が終わったから、こんどゆっくりね。だから今日は帰ってご両親に報告して安心させてやりなさい」


 律子さんは数秒間考えてから、「分かりました。いろいろとありがとう」と言った。


 阪神高速道路は夕方の混雑で、塚本ランプで降りて律子さんの家に着いたのは午後五時を過ぎていた。

 私は車から降りて彼女の母と兄に挨拶をしてから帰った。


 お礼をしたいと言われたが、「では今度美味しいものでもご馳走してください」と返事して、この日は引き揚げた。


 事務所へ向かう車の中で、美味しいものって何なのだろう、今度っていつのことなんだろうとぼんやりと考えた。

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